第二十八話 家は、待たせる婚約者より早く縁談を探します
王宮北庭の散歩候補日が届いた翌朝、今度は父から呼ばれた。
場所は、エルヴェイン公爵家の書斎。
重い樫の机。
緑の厚いカーテン。
壁一面の蔵書。
父が何か重要な話をする時は、だいたいこの部屋だった。
私は少しだけ身構えて入った。
仕事の話ではない。
登録院の案件でもない。
父が家の書斎で私を呼ぶ時は、公爵家の話であることが多い。
「来たか、アリシア」
「はい、お父様」
「座りなさい」
机の上には、数通の封書が並んでいた。
どれも貴族家の封蝋が押されている。
見覚えのある家紋もあれば、あまり縁のない家紋もある。
私は椅子に座り、封書を見た。
「縁談ですか」
「そうだ」
父は隠さなかった。
その率直さに、少しだけ肩の力が抜ける。
「もう、ですか」
「もう、だ」
父は苦い顔で言った。
「家は、待たせる婚約者より早く縁談を探す」
「お父様」
「皮肉だ」
「分かっています」
思わず少し笑ってしまった。
父も、わずかに口元を動かす。
けれど、すぐに公爵の顔へ戻った。
「正式な申し込みとして受ける前に、お前に見せる」
「私に?」
「当然だ」
当然。
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
以前なら、縁談とは家同士で進み、私には後から知らされるものだと思っていた。
少なくとも、私はそう扱われても仕方がない立場だと思い込んでいた。
でも、今は違う。
父は最初に私へ見せている。
「受けるかどうかは、お前が決める」
「はい」
「ただし、父として、また公爵として、内容は確認した」
「ありがとうございます」
「その上で、先に言っておく」
父は封書の束を軽く叩いた。
「半分以上は、読む価値がない」
「そんなにはっきり」
「はっきり言わねば、こちらの時間が無駄になる」
私は少し笑った。
父も、王家婚姻登録院に影響されているのかもしれない。
「たとえば、これは西方の侯爵家からだ」
父は一通目を開かずに横へ置いた。
「お前が王家婚姻登録院で働くようになったことを大変喜ばしく思う、当家の嫡男は少々事務に弱いが、あなたのような令嬢が支えれば家政も領地文書も整うだろう、とある」
「支える」
「つまり、婚約者ではなく便利な書記官を探している」
「却下ですね」
「却下だ」
父は次の封書を取る。
「これは北方伯爵家。王妃宮とのつながりを深めたいので、一度茶会をしたい。日時は明後日の午後一刻、場所はこちらが指定する、と」
「私の予定は確認されていませんね」
「確認されていない」
「明後日の午後一刻は、登録院です」
「だから却下だ」
父は封書を横へ置く。
「これは少しまともに見えたが、よく読めば、婚約不成立で傷ついたあなたを我が家が温かく迎えたい、という文面だった」
「温かく迎える」
「保護対象として見ている」
「却下でお願いします」
「すでに却下した」
私は父を見る。
父は、あまりにも当然の顔をしている。
「お父様、もう返事を?」
「正式な縁談として受ける価値のないものには、私の名で断りを出した」
「私に見せる前に?」
「見せる必要のない失礼なものは、私が止める」
父の声は静かだった。
「お前が全部を読む必要はない」
その言葉に、胸の奥が少し揺れた。
全部を私が処理しなくていい。
それは登録院でも何度も言われたことだった。
家でも、父が同じ線を引いてくれている。
「ありがとうございます」
「ただし、残したものがある」
父は、三通の封書を私の前へ置いた。
「これは、礼を失っていない。家格、人物、条件も悪くない。お前が読む価値はある」
「読む価値、ですか」
「読むだけだ。返答する義務はない」
また、その言葉。
返答義務はない。
私は思わず笑ってしまった。
「登録院の要綱みたいですね」
「お前が作ったのだろう」
「少しだけです」
「その少しが、父親にも役に立っている」
父は真面目に言った。
私は、少し照れながら封書を一通取った。
中身は、南方の伯爵家からだった。
丁寧な文面。
私の正式任用への祝意。
婚約不成立については必要以上に触れず、もし差し支えなければ、伯爵家主催の小さな音楽会へ招きたいとある。
日時は三つ候補があり、いずれも都合が合わなければ改める、と書かれていた。
「丁寧ですね」
「そうだ」
「ですが、縁談というより顔合わせのようです」
「その程度から始めたい、ということだろう」
「悪くはありません」
「次は、東部侯爵家だ」
私は二通目を読んだ。
こちらも丁寧だった。
ただし、文面の途中で少し手が止まる。
「王家婚姻登録院特別補佐官としての職務を尊重し、婚姻後も勤務継続を前提に相談したい、とあります」
「そこは評価できる」
父が言う。
「ただし、嫡男は王都に長くいられない。お前が東部へ移る可能性もある」
「それは、今すぐ考えるには大きすぎます」
「だから返答は保留でよい」
三通目は、王都の子爵家からだった。
家格はかなり下がる。
けれど、文面はとても誠実だった。
私の仕事を尊敬していること。
婚約不成立を慰めるつもりではないこと。
ただ、一度、同じ書物について話してみたいこと。
そこには、最近王都で出た婚姻法の注釈書の名前があった。
私は読みながら、思わず少し顔をしかめた。
「お父様」
「何だ」
「これは、かなり仕事です」
「そうだな」
「婚姻法の注釈書について話したい、と」
「お前なら興味を持つかと思った」
「興味はあります」
「なら」
「ですが、仕事です」
私は封書を置いた。
「少なくとも、縁談の入口としては仕事です」
「そうか」
「はい」
「では保留だ」
父はあっさり言った。
私は少しだけ目を瞬いた。
「それでよろしいのですか」
「お前がそう判断したのだろう」
「はい」
「なら、そうする」
父の判断は簡潔だった。
そして、私の判断をそのまま家の判断として扱ってくれている。
「アリシア」
「はい」
「聞いておきたいことがある」
父の声が、少しだけ低くなった。
「ヴィクトル・レオニス大公子とのことだ」
心臓が、一拍だけ変な音を立てた。
私は膝の上で指を重ねる。
「……まだ、お茶をいただいているだけです」
「そうか」
「仕事外の時間として」
「そうか」
「正式な交際ではありません」
「そうか」
「お父様」
「何だ」
「そうか、だけでは困ります」
父は少しだけ咳払いをした。
その様子が、珍しく父親らしくて、私は少し笑いそうになる。
「ヴィクトル殿は、どういうつもりなのだ」
「それは、ヴィクトル様にお尋ねください」
「尋ねてもよいのか」
「今はやめてください」
「なぜだ」
「まだ、私が自分で確かめている途中だからです」
父は黙った。
私は続けた。
「ヴィクトル様と過ごす時間は、心地よいです」
「……そうか」
「でも、私はまだ、次の婚約や婚姻をすぐに考えたいわけではありません」
「うむ」
「それでも、縁談の封書を見ると、少し分かりました」
「何が」
「私は、誰かに保護されたいわけではありません。誰かの家を支えるために移るつもりもありません。私の仕事や時間を、相手の都合で前提にされるのも嫌です」
「当然だ」
「ですが、私の時間を一つずつ確認してくれる人となら」
そこで、言葉が少し止まった。
父は何も言わずに待っている。
急かさない。
だから、私は最後まで言えた。
「もう少し、先を考えてみてもいいのかもしれません」
父は、深く息を吐いた。
「それが、ヴィクトル殿か」
「今のところは」
「……そうか」
「また、そうか、ですね」
「父親としては、それ以外に言葉を選びにくい」
私はとうとう笑ってしまった。
父は少し苦い顔をしたが、怒ってはいなかった。
「お父様」
「何だ」
「ヴィクトル様とのことは、私が私の時間で考えます」
「ああ」
「縁談も、急ぎません」
「ああ」
「ただし、失礼なものは止めてください」
「任せなさい」
その返事は、とても頼もしかった。
私は三通の封書を父へ返した。
「この三件は、いずれも保留でお願いします」
「ヴィクトル殿の候補日を優先するのか」
「候補日を比較しているわけではありません」
「そうか」
「ですが、次のお茶は行きます」
「分かった」
父は少しだけ遠い目をした。
「候補日を三つ出す男か」
「はい」
「……悪くない」
その評価が父から出たことが、少し可笑しかった。
午後、登録院へ出勤すると、机の上には新しい資料が置かれていた。
王女殿下の婚姻式準備確認。
政務局との外交晩餐の調整。
そして、正式要綱への意思負担者欄追加案。
私はいつものように席につき、名札を軽く指で整えた。
王家婚姻登録院特別補佐官。
この席も、今の私の時間の一部だ。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が、確認室の入口から声をかけた。
「はい」
「少しよろしいですか」
「仕事ですか」
「最初は仕事です」
「最初は?」
ヴィクトル様は、少しだけ間を置いた。
「その後、仕事外の確認が一つあります」
「では、仕事からお願いします」
私は資料を受け取った。
内容は、王女殿下の婚姻式当日の本人意思確認の配置案だった。
式の直前に、王女殿下とアルフォンス様がそれぞれ別室で最終確認を受ける。
その後、神殿の前室で二人そろって入場時刻を待つ。
待機負担者欄は空白。
意思負担者欄には本人二名。
休止時の再開条件も明記されている。
私は細かく確認し、一点だけ修正した。
「王女殿下の前室待機時間が長いです」
「どの程度」
「半刻です」
「長いですか」
「婚姻式直前に半刻は長いと思います。緊張もありますし、政務局や使節団対応の連絡が入る可能性があります」
「代替案は」
「本人意思確認後、王女殿下は王妃宮控え室へ戻る。入場四半刻前に神殿前室へ移動。アルフォンス様も同様に」
「よいです」
ヴィクトル様はすぐに書き込んだ。
「では、その形で」
「はい」
「仕事は以上です」
「早いですね」
「本題は、もう一つです」
私はペンを置き、ヴィクトル様を見た。
彼はいつもより少しだけ真剣な顔をしていた。
「今朝、レオニス大公家に、エルヴェイン公爵家へ正式に挨拶したいという話が出ました」
私は一瞬、言葉を失った。
「正式に、ですか」
「はい」
「それは、どういう意味でしょう」
「私が、あなたと仕事外の時間を重ねていることについて、家として無礼がないようにしたいという意味です」
「大公家が」
「はい」
「ヴィクトル様のご意思は」
「私の意思でもあります」
胸が静かに鳴る。
彼は、続けた。
「ただし、あなたの時間と意思を飛ばして、家同士の話に進めるつもりはありません」
「はい」
「ですから、先にあなたへ確認します」
「はい」
「レオニス大公家より、エルヴェイン公爵家へ、仕事外の交際を前提とした正式挨拶を申し入れてもよいでしょうか」
丁寧すぎるほど丁寧な問いだった。
けれど、それがこの人らしい。
そして、今の私にはとてもありがたかった。
家同士の話になる前に、私へ聞く。
当然のようで、以前の私はその当然を知らなかった。
「正式な婚約の申し込みではなく」
「違います」
「交際の前提としてのご挨拶」
「はい」
「私に返答義務は」
「今すぐにはありません」
「ただし、受ければ家同士に記録されますね」
「はい」
「その後も、一回ずつ私の意思を確認してくださいますか」
「もちろんです」
「私の仕事は続けます」
「当然です」
「私の時間を、勝手に予約しない」
「再発防止済みです」
その言い方に、少しだけ笑ってしまった。
緊張が、少しほどける。
「では」
私はゆっくり息を吸った。
「申し入れてください」
ヴィクトル様の目が、ほんの少しだけ揺れた。
そして、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
「まだ、婚約ではありません」
「分かっています」
「でも、私はあなたとの時間を、もう少し先へ進めてもよいと思っています」
言葉にすると、頬が熱くなった。
けれど、逃げずに言えた。
ヴィクトル様は、いつものように静かに聞いていた。
「私もです」
短い。
けれど十分だった。
「では、候補日は」
「三つ出します」
「何の候補日ですか」
「大公家からの挨拶日です」
「仕事外の本の話ではなく?」
「それは別に三つ出します」
「多いです」
「一回ずつです」
「……なら、許します」
そう言うと、ヴィクトル様がほんの少し笑った。
「ありがとうございます」
その日の夕方、父へ大公家からの挨拶について伝えると、父はしばらく黙っていた。
母は、私の横で静かに微笑んでいる。
「アリシア」
「はい」
「お前が望むなら、受ける」
「はい」
「ただし、父としてヴィクトル殿にはいくつか確認する」
「何をですか」
「お前の仕事を尊重するか。お前の時間を勝手に決めないか。候補日を三つ以上出しすぎないか」
「お父様」
「最後は冗談だ」
「本当に?」
「少し本気だ」
母が笑った。
私も笑った。
家の食卓で、縁談の話をしているのに、息が苦しくない。
それが不思議で、嬉しかった。
夜、自室に戻ると、机の上の南方港町紀行が目に入った。
その隣に、ヴィクトル様から借りた鳥類図譜。
次の茶会で返す予定だ。
まだ決まっていない未来。
けれど、少しずつ置かれていく予定。
私は窓を開け、夜風を入れた。
誰かに待たされる時間ではない。
誰かの家に押し込まれる未来でもない。
私が選び、相手も選び、家もそれを尊重する道。
まだ怖さはある。
でも、進みたいと思った。
そのことを、私は今日、自分の言葉で確認できた。
読んでいただきありがとうございます。
第二十八話では、アリシアに新たな縁談話が届き、ヴィクトルとの関係も家同士の正式な挨拶へ進むことになりました。
第二十九話は明日18:10に投稿予定です。
次回は、ヴィクトルがエルヴェイン公爵家を訪問し、アリシアの家族との確認に入ります。
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