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婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました【連載版】  作者: 本城オブリゲータ


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第二十七話 ヴィクトル様、私の時間を勝手に予約しないでください

 仕事に関係のない本を持ってくる。


 そう約束したお茶の日、私は朝から少しだけ悩んでいた。


 王家婚姻登録院へ出勤する日より、なぜか悩んでいる。


 おかしいと思う。


 王女殿下の婚姻準備確認儀でさえ、私は資料を読み、要綱を確認し、必要な欄を埋めればよかった。


 けれど、仕事に関係のない本となると、途端に難しくなる。



 私の本棚には、礼法書、神殿儀礼、貴族家系録、古い詩集、王都地誌、薬草図鑑が並んでいる。


 そのうち半分は、仕事に関係があるような気がする。


 詩集ならよいかと思ったが、婚姻式の祝辞に使われる詩が多い。


 王都地誌は、式場導線の参考になる。


 薬草図鑑は、病弱者対応欄を作って以来、どうにも仕事に見えてしまう。


 では何なら仕事ではないのか。


 私は本棚の前で、しばらく真剣に考えていた。



「お嬢様」



 侍女のリーナが、扉のそばから声をかける。



「大変申し上げにくいのですが」


「何かしら」


「そのご様子は、ほとんど出勤前でございます」


「……そう見える?」


「はい」


「仕事ではない本を選んでいるのだけれど」


「その選び方が、すでにお仕事のようです」


 私は本棚の前で固まった。


 確かに。


 仕事ではない本を、仕事のように選んでいる。


 それはかなり本末転倒だった。



「リーナなら、どれを選ぶ?」


「私でしたら、その旅行記を」


「南方港町紀行?」


「はい。お嬢様が以前、途中で楽しそうに読んでいらっしゃいました」


「そうだったかしら」


「はい。港の菓子屋が出てくる頁で、少し笑っていらっしゃいました」


「よく覚えているわね」


「お嬢様が仕事以外の本で笑うことは、やや珍しいので」


 少し胸が痛いような、くすぐったいような気持ちになった。


 そうか。


 私は、仕事以外の本で笑うことが珍しかったのか。


 なら、今日はそれを持っていこう。



 私は、南方港町紀行を手に取った。


 青い布張りの小さな本。


 表紙には、港と小舟と、帆にとまる鳥が描かれている。


 婚約式にも、婚姻式にも、王家婚姻登録院にも関係ない。


 たぶん。


 少なくとも、関係ないことにしよう。



 その日の勤務は、午前で終わった。


 王女殿下の婚姻準備確認儀の記録も、東方連盟への返礼書も、正式要綱への意思負担者欄の追加案も、すべて午前中に確認を終えた。


 午後二刻からは、王妃宮の小庭でお茶。


 仕事外。


 仕事に関係のない本を持参。


 同席者はミレーヌ女官長。


 所要時間は一刻。


 帰宅予定に影響なし。


 すべて、ヴィクトル様から届いた招待状に明記されていた。



 正確すぎる。


 けれど、その正確さに安心している自分もいる。


 約束が、あいまいに消えない。


 誰かの不安で勝手に変更されない。


 私の予定が、私の予定として扱われている。


 それは、今もまだ少し新鮮だった。




 王妃宮の小庭に着くと、ヴィクトル様はすでに席にいた。


 今日も、少し前から待っていたのだろう。


 けれど、早すぎるほどではない。


 私が近づくと、彼は立ち上がって一礼した。



「アリシア嬢」


「ヴィクトル様」


「お時間どおりです」


「はい。私の意思で参りました」


「ありがとうございます」


 その返答に、少し笑ってしまう。


 私の意思で来たことへ、きちんと礼を言われる。


 やはり不思議な人だ。



 茶卓の上には、今日も甘すぎない焼き菓子が置かれていた。


 少しだけ形が違う。


 丸い小さな焼き菓子で、上に砕いた木の実が乗っている。



「今日は、南方の木の実を使った菓子だそうです」


 ヴィクトル様が言った。



「私の本に合わせたのですか」


「本を知らなかったので、偶然です」


「そうでした」


「あなたの本は?」


「南方港町紀行です」


 私が本を差し出すと、ヴィクトル様は少しだけ目を明るくした。



「旅行記ですね」


「はい。仕事には関係ありません」


「港町の婚姻慣習が載っていなければ」


「……少しだけ載っています」


 言ってから、しまったと思った。


 ヴィクトル様が無言でこちらを見る。


 私は本を胸元に引き寄せた。



「でも、主題は旅行です」


「なら、仕事ではない扱いにしましょう」


「寛大な判断に感謝します」


「私の本も、判断をお願いします」


 そう言って彼が出したのは、深緑の表紙の本だった。


 題名は。



 王都近郊鳥類図譜。



 私は、しばらくその題名を見つめた。



「鳥」


「はい」


「婚姻登録とは」


「関係ありません」


「神殿儀礼とは」


「一部、聖鳥の項目があります」


「仕事では?」


「ミレーヌ女官長には、ほぼ仕事ではないと判定されました」


 控え席のミレーヌ女官長が、茶器を整えながら静かに言った。



「完全に仕事ではない本をお探しするには、もう少し時間が必要でした」


 私はこらえきれずに笑ってしまった。


 ヴィクトル様が、少しだけ真面目な顔で本を見る。



「難しい課題でした」


「ええ。本当に」


「次回は、もう少し改善します」


「次回もある前提なのですね」


 そう言うと、ヴィクトル様は顔を上げた。


 そして、ほんの少しだけ迷ったように見えた。



「あります」


「断言ですね」


「あなたが望むなら、あります」


「そこは大事です」


「はい」


 彼は一枚の小さな紙を取り出した。


 何かと思って受け取ると、そこには日付と時刻が並んでいた。



 今後三月分、仕事外茶会候補日。


 第一候補群。


 第二候補群。


 予備日。



 私は、黙ってその紙を見た。


 あまりにも整っている。


 整いすぎている。


 そして、三月分。


 さすがに長い。



「ヴィクトル様」


「はい」


「これは何でしょうか」


「今後の候補日です」


「三月分あります」


「はい」


「しかも、第一候補群がすでにかなり埋まっています」


「登録院と王妃宮の予定を避けました」


「私の予定は?」


 ヴィクトル様が、そこで止まった。


 私は紙を卓に置き、できるだけ穏やかに言った。



「ヴィクトル様」


「はい」


「私の時間を勝手に予約しないでください」


 その瞬間、控え席のミレーヌ女官長が、茶器を置く音をほんの少しだけ強くした。


 笑いをこらえたのだと思う。


 ヴィクトル様は、真面目な顔で紙を見た。



「予約したつもりではありませんでした」


「候補日を出してくださったのは分かります」


「はい」


「ですが、三月分まとめて第一候補群まで組まれると、私の時間がすでに予定表に入っているように見えます」


「……確かに」


「私は、あなたとのお茶を嫌がっているわけではありません」


「はい」


「むしろ、楽しみにしています」


 言ってから、少しだけ頬が熱くなった。


 けれど、ここは曖昧にしない方がいい。



「ですが、楽しみだからこそ、一つずつ選びたいのです」


 ヴィクトル様は、私を見た。


 いつもの静かな目。


 けれど、少し反省しているようにも見える。



「分かりました」


「本当に?」


「はい」


「では、次からは?」


「一回分の候補日を三つ出します」


「はい」


「あなたが選ぶ」


「はい」


「次回が終わってから、その次を考える」


「はい」


「三月分は出さない」


「お願いします」


 ヴィクトル様は、紙を丁寧に折り直した。



「申し訳ありません」


「謝罪は受け取ります」


「返答は」


「今返しました」


「許しは」


「同じ失敗をなさらなければ」


「再発防止します」


 あまりにも真面目に言うので、私はまた笑ってしまった。


 この方は、本当に全てを手順にする。


 でも、今のやり取りは嫌ではなかった。


 むしろ、私が嫌だと言えること。


 そして彼が、それを聞いてすぐ修正すること。


 それが、とても大切だった。



「アリシア嬢」


「はい」


「私も、少し焦っていたようです」


「焦る?」


「はい」


 ヴィクトル様は、茶器へ視線を落とした。



「あなたと過ごす時間が心地よいので、次も、その次も、確かにある形にしたくなりました」


 胸が、一瞬で熱くなった。


 その言い方は反則だと思う。


 淡々としている。


 けれど、内容はまっすぐすぎる。



「……それは」


「はい」


「嬉しいですが、三月分は多いです」


「分かりました」


「一回ずつなら」


「はい」


「私も、考えやすいです」


 ヴィクトル様が、少しだけ表情をやわらげた。



「では、一回ずつ」


「はい」


 茶を飲む。


 少し冷めていた。


 けれど、味はよかった。


 南方の木の実の菓子は、香ばしくて甘すぎない。


 私がそれを口にすると、ヴィクトル様が少しだけ安心したように見えた。



「おいしいです」


「よかった」


「これは仕事ではない話ですね」


「はい」


「では、本の話をしましょう」


「そうですね」



 私は南方港町紀行を開いた。


 港町の絵が載っている頁。


 海沿いの市場。


 魚を干す網。


 小さな菓子屋。


 旅人が、初めて食べた木の実菓子に驚いている場面。


 それを説明すると、ヴィクトル様は意外なほど真剣に聞いた。



「港町へ行ったことは?」


「ありません」


「行きたいですか」


 問われて、私は少し考えた。



「行きたい、と思ったことがなかったかもしれません」


「なぜ」


「予定に入っていませんでしたから」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 予定に入っていなかった。


 それだけで、行きたいかどうかも考えていなかったのだ。



「今は?」


 ヴィクトル様が聞く。



「少し、行ってみたいです」


「では、いつか」


 そこで彼は止まった。


 きっと以前なら、すぐに候補日を考えたのだろう。


 私はそれが分かって、少し笑ってしまった。



「今、予定を組もうとしましたか」


「しました」


「正直ですね」


「再発防止中です」


「では、今は予定にしません」


「はい」


「でも、いつか行ってみたいです」


「覚えておきます」


「困る程度に?」


「困らない程度に」


 その返答に、私は微笑んだ。



 次に、ヴィクトル様の鳥類図譜を見せてもらった。


 王都近郊の鳥の絵が、細かく描かれている。


 春の川辺に来る小さな青い鳥。


 神殿の屋根に巣を作る白い鳥。


 王宮北庭で時々見られる、尾の長い灰色の鳥。



「この鳥が好きなのですか」


 私が青い鳥を指すと、ヴィクトル様は頷いた。



「はい」


「なぜ」


「時刻が正確です」


「鳥が?」


「毎年、ほぼ同じ頃に王都へ来ます」


「結局、時刻の話ですね」


「……仕事ではありません」


「鳥の時刻ですものね」


「はい」


 本人は真面目なのだろう。


 でも、私はおかしくて笑ってしまった。


 ヴィクトル様も、少しだけ笑った。


 今日の彼は、いつもより表情がやわらかい。



「では、その青い鳥を見に行くのも、いつか」


 私が言うと、彼はまた少し止まった。


 予定を組まないようにしているのだ。


 その様子が可笑しくて、でも愛おしいような気もして、私は自分から言った。



「次回のお茶の候補日に、王宮北庭の散歩を含めてもよいです」


「よいのですか」


「はい」


「候補日を三つ出します」


「一回分だけ」


「はい。一回分だけ」


 確認し合う。


 それは少し面倒に見えるかもしれない。


 けれど、私にはとても心地よかった。


 気持ちも、予定も、勝手に決まらない。


 言葉にして、確認して、選んでいく。


 そうやって、少しずつ近づく。



 茶の時間は、約束どおり一刻で終わった。


 今日は、少し延びてもいいとは言わなかった。


 次があると分かったからかもしれない。


 一回ずつ。


 急がずに。



 馬車寄せへ向かう途中、ヴィクトル様が言った。



「今日は、あなたの時間を勝手に予約しかけました」


「はい」


「止めてくださって、ありがとうございます」


「私は、嫌なことを言っただけです」


「それが必要でした」


「では、これからも言います」


「お願いします」


 お願いされるとは思わず、私は少し笑った。



「ヴィクトル様は、変わっています」


「よく言われます」


「でしょうね」


「ですが、あなたも」


「私も?」


「嫌なことを言うと宣言して、これからも言うと約束する方は、あまり多くありません」


「そうでしょうか」


「少なくとも、私にはありがたいです」


 その言葉に、胸の奥が温かくなった。


 嫌だと言っても壊れない。


 むしろ、ありがたいと言われる。


 それは、私にとってまだ少し奇跡のようなものだった。



「では」


 私は馬車の前で立ち止まった。



「今日の確認です」


「はい」


「私は、ヴィクトル様とのお茶を楽しみにしています」


「はい」


「でも、私の時間は一回ずつ選びたいです」


「はい」


「次回は、王宮北庭の散歩を含む候補日を三つ」


「はい」


「仕事に関係のない本、または鳥の話は可」


「承知しました」


「婚姻法の注釈書は不可」


「……承知しました」


 少しだけ間があったので、私は笑った。



「持ってくるつもりでしたね」


「念のため」


「不可です」


「はい」


 ヴィクトル様が、本当に少しだけ残念そうに見えた。


 それがまた可笑しい。



 馬車に乗る前、彼は静かに言った。



「アリシア嬢」


「はい」


「今日も、来てくださってありがとうございました」


「私の意思で来ました」


「はい」


「そして、楽しかったです」


「私もです」


 その返事を聞いて、私は馬車に乗った。


 窓の外で、ヴィクトル様が一礼する。


 馬車が動き出す。



 私は、膝の上に置いた南方港町紀行をそっと撫でた。


 次の予定はまだ決まっていない。


 でも、候補日は来る。


 私はそれを見て、自分で選ぶ。


 その小さな手順が、今の私にはとても大切だった。



 誰かの不安で勝手に消える約束ではない。


 誰かの都合で当然のように動かされる予定でもない。


 私が選び、相手も選び、一回ずつ置いていく時間。


 そういうものを、私はこれから少しずつ増やしていきたい。



 その中にヴィクトル様がいることを、もう嫌だとは思っていなかった。

読んでいただきありがとうございます。


第二十七話では、アリシアとヴィクトルが仕事外の時間を一回ずつ選ぶ関係へ進みました。


第二十八話は明日18:10に投稿予定です。

次回は、エルヴェイン公爵家側の縁談話と、アリシア自身の選択に関わる回になります。


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