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婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました【連載版】  作者: 本城オブリゲータ


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第二十五話 王女殿下の婚姻式は、政治の時刻表ではありません

 今日の案件は、王女殿下の婚姻式だった。



 正確には、第一王女セレスティア殿下と、アストリア公爵家嫡男アルフォンス様の婚姻式準備である。


 婚約披露式典は、すでに終わっている。


 あの日、アストリア前公爵様の到着遅延がありながらも、式典は予定どおり進んだ。


 前公爵様は王妃宮小室で婚約成立の報告を受け、セレスティア王女殿下とアルフォンス様は同じ時刻に大広間へ立った。


 それは、私たちの要綱が初めて大きな王宮儀礼に使われた日でもある。



 その成功を受けて、王妃宮と王家婚姻登録院では、本人意思確認と時刻配慮の正式要綱が採用された。


 私の机にも、清書版の控えが置かれている。



 婚約式・婚姻式における本人意思確認および時刻配慮の要綱。



 表紙の下には、起案補佐として私の名も入っていた。


 王家婚姻登録院特別補佐官。


 アリシア・エルヴェイン。


 その肩書きにも、少しずつ慣れてきた。


 けれど、慣れたからといって、仕事が軽くなるわけではない。



「アリシア補佐」


 ユリア書記官が、今日の資料束を私の机に置いた。


 束はいつもより厚い。


 そして、表紙には金の縁取りがあった。


 王族案件を示す印だった。



「王女殿下の婚姻式準備案です」


「婚姻式は、来月の予定でしたね」


「はい。ですが、昨日、王宮政務局より日程前倒し案が出ました」


「前倒し?」


「二十日ほど早めたいそうです」


 私は手を止めた。


 二十日。


 たった二十日。


 そう見る人もいるかもしれない。


 けれど、婚姻式における二十日は大きい。


 神殿の準備、王妃宮の衣装、外国使節への通達、諸侯の移動、王女殿下ご本人の公務、アストリア公爵家側の受け入れ、婚姻登録書の最終確認。


 すべてが、その日へ向けて組まれている。



「理由は何ですか」


「東方連盟の使節団が、予定より早く王都を発つことになったためです」


「使節団」


「はい。政務局は、使節団が滞在中に王女殿下の婚姻式を見せることで、王家とアストリア公爵家の結びつきを内外に示したいと」


「つまり、外交上の都合ですね」


「その通りです」


 ユリアは、いつもの無表情で一枚の書面を差し出した。



 王宮政務局案。


 第一王女セレスティア殿下とアストリア公爵家嫡男アルフォンスの婚姻式を、東方連盟使節団滞在中に繰り上げる。


 これにより、王家とアストリア公爵家の結束を内外に示し、東方連盟との交渉における王国の安定を印象づける。


 王女殿下およびアルフォンス本人の意思確認は、婚約時に済んでいるため、改めての確認は簡略化可能と考える。



 最後の一文で、私は目を止めた。



「改めての確認は簡略化可能」


「はい」


「王女殿下の婚姻式で?」


「はい」


 ユリアの声は淡々としていた。


 けれど、わずかに冷えていた。


 彼女も、この一文がどれほど危ういか分かっている。



「ヴィクトル様は」


「王妃宮です。政務局との事前確認に入っています」


「王妃殿下は」


「この件を、王妃宮と登録院の合同確認に回されました」


「つまり」


「特別配慮表の正式要綱を、王女殿下の婚姻式にも適用します」


 私は資料を閉じ、深く息を吸った。


 王女殿下の婚姻式。


 外交。


 政務局。


 東方連盟。


 王家の安定。


 どれも重い言葉だ。


 けれど、どれほど重くても、婚姻式の中心から本人の意思を外してよい理由にはならない。



「アリシア補佐」


 ユリアが、少しだけ声を低める。



「今回、反発は大きいと思います」


「でしょうね」


「政務局は、婚姻式を外交儀礼として見ています」


「でも、婚姻式は外交儀礼だけではありません」


「はい」


「王女殿下とアルフォンス様ご本人の式です」


「その通りです」


 私は席を立った。


 机の上に置かれた名札が、小さく光る。


 王家婚姻登録院特別補佐官。


 これは、ただの飾りではない。


 私が、この場で発言するための席だ。



「王妃宮へ向かいます」


「資料はすべてお持ちください」


「はい」


「それから」


 ユリアは、もう一枚の紙を差し出した。



「待機負担者欄の下に、新しく確認すべき欄があります」


「新しい欄?」


「政務局案を見て、ヴィクトル監督官が仮で追加しました」


 私は紙を受け取った。


 そこには、ヴィクトル様らしい端正な字で、短く書かれていた。



 意思負担者。



「意思負担者……」


「はい」


「誰の意思が、政治や家の都合で動かされるのかを見る欄ですね」


「おそらく」


 私は、その文字を見つめた。


 待機負担者。


 誰が待つのか。


 意思負担者。


 誰の意思が、誰かの都合で軽く扱われるのか。


 婚姻式の日程を前倒しする。


 それは時刻表だけの問題ではない。


 本人の準備、心、誓い、覚悟。


 それらを政治の都合で急かすことでもある。



「必要な欄です」


 私は言った。



「はい」


 ユリアが頷く。



「今回、かなり必要です」




 王妃宮の白薔薇会議室には、すでに多くの人が集まっていた。


 王妃殿下。


 ヴィクトル様。


 ミレーヌ女官長。


 王宮政務局の局長と補佐官。


 王宮儀礼課。


 近衛警備調整官。


 神殿代表のマルタ神官。


 アストリア公爵家の連絡役。


 そして、王女殿下付きの女官。


 空気は、いつもの登録院の確認室よりずっと重い。



 政務局長は、五十代ほどの男性だった。


 鋭い目つきに、整えられた灰色の髪。


 彼は私が入室すると、ちらりとこちらを見た。


 その視線には、値踏みの色があった。


 若い公爵令嬢。


 婚姻登録院の特別補佐官。


 おそらく、政務局から見れば、私はまだ新参の実務者にすぎないのだろう。



「アリシア・エルヴェインです」


 私は一礼した。



「王家婚姻登録院特別補佐官として、時刻配慮および本人意思確認の要綱運用を担当いたします」


 あえて肩書きを先に言った。


 公爵令嬢としてではなく。


 婚約不成立を経験した令嬢としてでもなく。


 この会議に必要な役目として。



「では、改めて始めましょう」


 王妃殿下が言った。



「政務局より、婚姻式日程前倒し案の説明を」


 政務局長が立ち上がる。


 彼はよく通る声で説明を始めた。



「東方連盟使節団は、当初の予定より二十五日早く王都を発つことになりました。現在進行中の交渉において、王家とアストリア公爵家の結束を示すことは大きな意味を持ちます」


「続けて」


「セレスティア王女殿下とアルフォンス殿の婚姻は、すでに内外に知られております。婚約式も披露式典も済んでいる。ならば婚姻式を前倒しし、使節団の滞在中に行うことで、王国の安定を示せます」


「本人意思確認は?」


 ヴィクトル様が問う。


 政務局長は、少しだけ眉を動かした。



「婚約時に確認済みです」


「婚姻式の本人意思確認は別です」


「ですが、すでに婚約は成立しています」


「婚約と婚姻は別です」


 ヴィクトル様の声は静かだった。


 けれど、会議室の空気が少し引き締まる。



「婚約時に婚約の意思を確認したことと、婚姻式当日に婚姻の意思を確認することは同じではありません」


「当然、王女殿下もアルフォンス殿も異存はないでしょう」


「当然、で進めるのですか」


「政治には時機があります」


 政務局長の声が少し硬くなる。



「王家の婚姻は、本人同士だけの問題ではありません」


「その通りです」


 王妃殿下が言った。


 政務局長は少し安堵した顔をした。


 けれど、王妃殿下は続ける。



「だからこそ、本人の意思確認を省いてはなりません」


 会議室が静かになった。



「王家の婚姻は本人同士だけの問題ではない。ええ、その通りです。だから政治に利用されます。家に利用されます。外交に利用されます」


 王妃殿下の声は穏やかだった。



「それでも、最後に祭壇へ立つのは本人です。本人の意思を軽く扱えば、その婚姻は王家の安定ではなく、王家の不誠実を示すものになります」


 政務局長は、言葉を失った。


 私は、手元の特別配慮表を開いた。


 ここで説明すべきだと思った。



「王妃殿下、発言をお許しいただけますか」


「どうぞ、アリシア」


 私は立ち上がった。



「今回の政務局案について、要綱に基づき確認すべき点が三つあります」


「聞きましょう」


「第一に、待機負担者。婚姻式を二十日前倒しした場合、当初日程に合わせて準備していた神殿、王妃宮、アストリア公爵家、外国使節、参列諸侯、近衛、衣装、祝宴、後続儀礼のすべてに影響します」


 政務局長は少し眉を寄せたが、黙っている。



「第二に、意思負担者。今回、もっとも大きな負担を受けるのは、セレスティア王女殿下とアルフォンス様ご本人です」


「お二人は婚約済みです」


「はい」


 私は頷いた。



「ですが、婚姻式の日を二十日早めることに同意されたわけではありません」


「王女殿下なら、王国のために」


「その言葉で、本人意思を確認したことにはなりません」


 自分でも少し強い言い方になったと思った。


 けれど、引けない。


 王女殿下なら。


 王国のために。


 その言葉は、あまりにも簡単に本人の時間と意思を包み込んでしまう。



「第三に、代替手段です」


 私は続けた。



「使節団へ王家とアストリア公爵家の結束を示す方法が、婚姻式の前倒ししかないのかを確認すべきです」


「代替手段とは」


 政務局長が問う。


 私は表の余白に、あらかじめ書き込んでいた案を見た。



「婚姻式そのものは予定どおりとし、使節団滞在中には婚姻式準備の正式確認式、または両家合同の外交晩餐を行うことが考えられます」


「準備の確認式?」


「はい。王女殿下とアルフォンス様が、予定どおりの婚姻式へ向けて準備が進んでいることを、王妃宮と神殿の前で確認する小儀礼です」


 ミレーヌ女官長がすぐに補足する。



「王妃宮側でも可能です。婚姻式そのものではありませんが、両家と王家の結束を使節団へ示すには十分な形式にできます」


 マルタ神官も頷いた。



「神殿としても、婚姻式を前倒しするより、婚姻準備確認の祈りを別に立てる方が望ましいです」


 政務局長は、まだ納得していない顔だった。



「しかし、婚姻式そのものの方が外交的な印象は強い」


「強いでしょう」


 ヴィクトル様が答えた。



「ですが、本人意思確認を簡略化して前倒しした婚姻式であれば、その強さは危うさも伴います」


「使節団がそこまで見ると?」


「見るかどうかではありません」


 ヴィクトル様の声が低くなる。



「王家が、本人意思を軽く扱った事実が残るかどうかです」


 その一言で、政務局長は黙った。


 記録。


 それは、政務局にも重い言葉なのだろう。



 その時、会議室の扉が静かに開いた。


 入ってきたのは、セレスティア王女殿下だった。


 銀青のドレスをまとい、背筋をまっすぐ伸ばしている。


 隣には、アルフォンス様。


 突然の入室に、全員が立ち上がった。



「王女殿下」


 王妃殿下が少しだけ眉を上げる。



「会議中ですよ」


「存じています、お母様」


 セレスティア王女殿下は、静かに答えた。



「私の婚姻式の日程について話されていると聞きました」


 政務局長の顔がわずかに強張る。


 王女殿下は、彼を責めるわけでもなく、ただ会議卓の前へ進んだ。



「私からも、本人意思を述べます」


 本人意思。


 その言葉で、私は背筋を伸ばした。


 セレスティア王女殿下は、アルフォンス様と一度視線を交わす。


 そして、はっきり言った。



「婚姻式の前倒しは望みません」


 会議室が静まり返った。



「理由は、王国のために婚姻することを拒むからではありません」


 王女殿下は続ける。



「私は王女です。私の婚姻が政治に関わることは理解しています」


「殿下」


 政務局長が口を開きかける。


 けれど、王女殿下は視線だけで制した。



「ですが、政治の都合で、私とアルフォンス様の婚姻の時刻を勝手に動かされることは望みません」


 その声は静かだった。


 けれど、大広間の宣言よりも重く響いた。



「私たちは、予定された日に、予定された準備を終えて、同じ時刻に立ちます」


 アルフォンス様も、一歩前へ出た。



「私も同じ意思です。使節団へは、婚姻準備確認の儀で十分に誠意を示します。婚姻式そのものを前倒しする必要はありません」


 王妃殿下は、二人を見て、静かに頷いた。



「本人意思、確認しました」


 ユリアが素早く記録する。


 私も特別配慮表の意思負担者欄へ記入した。



 セレスティア王女殿下。


 アルフォンス・アストリア。


 婚姻式日程前倒しを望まず。


 代替として婚姻準備確認儀を希望。



 書き終えた時、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 王女殿下ですら、本人意思を言葉にする必要がある。


 いいえ。


 王女殿下だからこそ、必要なのだ。


 王国のため。


 外交のため。


 家のため。


 そういう大きな言葉に本人の声が飲み込まれないように。



「政務局長」


 王妃殿下が言った。



「婚姻式の前倒し案は却下します」


「……承知いたしました」


「代替案として、使節団滞在中に婚姻準備確認儀と外交晩餐を行います。王妃宮、政務局、神殿、登録院で整えなさい」


「はい」


 政務局長は頭を下げた。


 完全に納得したかは分からない。


 けれど、本人意思が確認された以上、もう押せない。



 王女殿下が、私の方を見た。



「アリシア特別補佐官」


「はい」


「先ほどの表を見せていただけますか」


「もちろんです」


 私は特別配慮表を差し出した。


 王女殿下は、待機負担者欄と意思負担者欄を見て、少しだけ微笑んだ。



「よい表ですね」


「ありがとうございます」


「王女の意思も、欄に書けば見えるのですね」


 その言葉に、私は胸が詰まった。



「はい」


「では、書いておいてください」


「何をでしょう」


「セレスティア王女は、婚姻式の前倒しを望まない。予定どおりの日に、アルフォンス様と同じ時刻に立つことを望む、と」


「承知いたしました」


 私は、その言葉を記録した。


 王女殿下の意思として。


 政治の欄ではなく、本人意思の欄に。



 会議が終わった後、王妃殿下が私を呼び止めた。



「アリシア」


「はい」


「今日の仕事も、よくできました」


「ありがとうございます」


「王女であっても、婚姻式の本人です。そこを忘れずに済みました」


「王女殿下ご自身が、はっきりおっしゃったからです」


「ええ」


 王妃殿下は微笑む。



「でも、その声が入る欄を作ったのは、あなたたちです」


 私は、特別配慮表を胸元に抱えた。


 欄がある。


 だから、書ける。


 書けるから、残る。


 それがどれほど大切か、私はもう知っている。



 勤務後、ヴィクトル様は王妃宮の回廊で私を待っていた。


 今日はいつもの馬車寄せではなく、小庭へ続く分かれ道だった。



「アリシア嬢」


「はい」


「今日の所感は」


「政治の時刻表にも、本人の欄が必要です」


「はい」


「どれだけ大きな都合があっても、婚姻式には本人が立つからです」


「その通りです」


「王女殿下が、ご自分の意思を言えたことが、とてもよかったと思います」


「ええ」


 ヴィクトル様は、少しだけ間を置いた。



「あなたが、王女殿下の意思を書く手を止めなかったことも」


「私が?」


「はい」


「当然です」


「その当然を、続けてください」


 その言葉に、私は少しだけ胸が温かくなった。



「はい」


 小庭へ続く道を見て、私はふと思い出した。



「次のお茶の候補日」


「はい」


「仕事に関係のない本を持ち寄る約束でしたね」


「用意しました」


「もう?」


「はい」


「私はまだです」


「急がなくて構いません」


「待ってくださいますか」


「あなたが選ぶまで」


 その返事に、私は笑った。



「よい待ち方ですね」


「あなたに教わりました」


 ヴィクトル様の声は静かだった。


 けれど、少しだけ柔らかかった。


 私の胸の奥も、同じように柔らかくなる。



 今日、王女殿下の婚姻式は政治の都合から守られた。


 婚姻準備確認儀という代替手段ができた。


 そして、本人意思の欄には、王女殿下自身の言葉が残った。


 予定どおりの日に、同じ時刻に立つ。


 その言葉は、今の私にはとても美しく聞こえた。



 いつか私も、そういう時刻を選べるのだろうか。


 誰かに待たされるのではなく。


 誰かを待たせるのでもなく。


 同じ時刻に立つことを、互いに選ぶ日を。



 そう思ってしまったことに、私は少しだけ驚いた。


 けれど、もうその気持ちをすぐに否定しようとは思わなかった。

読んでいただきありがとうございます。


第二十五話から第四章に入りました。

王女殿下の婚姻式をめぐる大きな案件と、アリシア自身の新しい選択が進んでいきます。


第二十六話は明日18:10に投稿予定です。


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― 新着の感想 ―
>第四章の最初の案件は、王女殿下の婚姻式だった。 これは流石に酷すぎませんか?
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