第二十四話 今日で、本当に終わりにしましょう
三日後の午後二刻。
私は、王妃宮の小庭へ向かう前に、自室の机の引き出しを開けた。
そこには、一通の封書が入っている。
ディオン・ハーグレイヴ様からの謝罪文。
王家婚姻登録院を通じて受け取り、けれどまだ封を切っていなかったものだ。
受け取った日から、何度か手に取った。
けれど、開けなかった。
開ける必要がない日もあった。
開けるのが怖い日もあった。
開けたところで何も戻らないと分かっている日もあった。
今日は、少し違った。
王妃宮の小庭で、ヴィクトル様と仕事外のお茶をいただく。
その前に、どうしてもこの封書を机の中へ残したままにしたくなかった。
あの方の言葉を抱えたまま、別の時間へ向かいたくなかったのだと思う。
私は封を切った。
中の手紙は、思っていたより短かった。
アリシア・エルヴェイン公爵令嬢へ。
私は、あなたに何度も待つことを強いました。
そのたびに、自分の選択を優しさだと思っていました。
セシリアを案じることは正しい。
だから、あなたなら分かってくれる。
そう考えていました。
けれど、それはあなたの時間を自分の都合で使うことでした。
あなたが何を失い、どこで待ち、どのようにその場を終えたのかを、私は知ろうとしませんでした。
婚約式の日、あなたが不成立確認を選んだことを、今は当然だったと思います。
私は、あなたと同じ時刻に立つべき場へ、立ちませんでした。
申し訳ありませんでした。
返答は求めません。
許しも求めません。
あなたの時間を、これ以上、私の謝罪のために使わせるつもりはありません。
私は、私が壊したものを見つめ、二度と同じことをしないよう学びます。
ディオン・ハーグレイヴ。
読み終えて、私はしばらく手紙を見つめていた。
泣きはしなかった。
怒りも、思ったほど湧かなかった。
ただ、胸の奥に静かな痛みが広がった。
この手紙は、以前のディオン様なら書けなかったものだと思う。
私に許してほしい。
分かってほしい。
もう一度話したい。
そういう言葉ではなかった。
返答は求めない。
あなたの時間を、これ以上、私の謝罪のために使わせるつもりはない。
それが書かれていた。
変わろうとしているのだろう。
それは分かった。
けれど、私がそこへ戻る理由にはならなかった。
「……受け取りました」
私は小さく呟いた。
誰に聞かせるためでもない。
自分の中で、手紙の置き場所を決めるための言葉だった。
私は新しい封筒を用意し、手紙を丁寧に戻した。
表にはこう書いた。
受領済み。
返答なし。
たったそれだけ。
でも、それで十分だった。
机の引き出しへ戻そうとして、少し迷った。
そして、別の箱を開けた。
そこには、王家婚姻登録院の任用書の控えや、正式要綱の写しが入っている。
私は謝罪文を、その箱の一番下へ入れた。
忘れるためではない。
大切にするためでもない。
過去の記録として、正しい場所へ置くためだ。
引き出しを閉めると、部屋の空気が少しだけ軽くなった気がした。
王妃宮の小庭には、淡い午後の光が差していた。
春の終わりの風が、白い花を小さく揺らしている。
茶卓は、以前と同じ場所に用意されていた。
ただし、今日は少しだけ花が多い。
甘すぎない焼き菓子もある。
控え席には、ミレーヌ女官長が座っている。
礼法上の同席者として、けれど会話を邪魔しない距離で。
ヴィクトル様は、私が来る少し前から待っていたようだった。
けれど、早すぎるというほどではない。
私が歩み寄ると、彼は立ち上がり、一礼する。
「アリシア嬢」
「ヴィクトル様」
「お時間どおりです」
「あなたも」
「待たせたくありませんでした」
その言葉に、以前なら胸が痛んだかもしれない。
でも今日は、少しだけ笑えた。
「私は、自分の意思で来ました」
「はい」
「ですから、多少待っていただいても、すぐ怒りはしません」
「それでも、待たせない方がいい」
「それは、そうですね」
私たちは向かい合って座った。
茶はすぐに注がれる。
香りは穏やかで、今日の焼き菓子は本当に甘すぎなかった。
ヴィクトル様は、それを少しだけ確認するように私を見た。
「甘さは」
「ちょうどよいです」
「よかった」
「また覚えていてくださったのですね」
「はい」
「困る程度に?」
「いえ」
彼は少しだけ考えた。
「今日は、困らない程度に」
その返しに、私は笑ってしまった。
仕事外の茶。
そう決めて来たのに、やはり私たちの会話はどこか確認のようになる。
でも、それが嫌ではなかった。
むしろ、少しずつそれが心地よくなっている。
「今日は、仕事の話は半分以下でしたね」
「はい」
「では、先に仕事ではない話をします」
「どうぞ」
私は茶器を置いた。
「ディオン様の謝罪文を読みました」
ヴィクトル様は、すぐには言葉を返さなかった。
ただ、静かに私を見る。
何かを急かす目ではない。
聞く姿勢の目だった。
「返答はしません」
「はい」
「許すかどうかも、まだ決めません」
「はい」
「ただ、受け取りました」
「はい」
「その上で、今日このお茶に来ました」
そこまで言って、ようやく自分が何を伝えたかったのか分かった。
「私は、過去を抱えたまま来たのではありません。過去を置いてから来ました」
ヴィクトル様の目が、ほんの少しやわらぐ。
「そうですか」
「はい」
「よい置き方でしたか」
「たぶん」
「なら、よかった」
それだけだった。
過剰に褒めない。
深く踏み込まない。
ただ、私が選んだ置き方を認める。
その距離が、今の私にはとてもありがたかった。
「ヴィクトル様」
「はい」
「あなたは、私に彼の手紙を読むべきだとはおっしゃいませんでした」
「はい」
「読まなくてよいとも、おっしゃいませんでした」
「はい」
「どうしてですか」
「あなたのものだからです」
即答だった。
その答えに、胸の奥が温かくなる。
「手紙が?」
「はい」
「読むかどうかも?」
「はい」
「返すかどうかも?」
「もちろん」
あまりにも当然のように言うので、私は少しだけ目を伏せた。
私のもの。
私の時間。
私の返事。
何度も、そうやって返されるたびに、失ったものが少しずつ手元へ戻ってくる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「では、仕事ではない話をもう一つ」
「はい」
「ヴィクトル様は、お休みの日は何をなさるのですか」
彼は、少しだけ黙った。
かなり考えているようだった。
「仕事をしています」
「それはお休みではありません」
「資料を読んでいます」
「それも、おそらく仕事です」
「王宮外の書店へ行くことがあります」
「それは少しお休みに近いです」
「婚姻法の古い注釈書を探しに」
「仕事です」
私が即答すると、ヴィクトル様は少しだけ目を瞬いた。
それから、本当にわずかに笑った。
「そうかもしれません」
「そうです」
「では、改善します」
「改善対象なのですね」
「はい」
私は、焼き菓子を一つ取った。
「ヴィクトル様も、休むことを覚えた方がよいと思います」
「王妃殿下にも言われました」
「では、正式な改善事項です」
「要綱に入りますか」
「入れません」
「残念です」
残念と言いながら、表情はほとんど変わらない。
でも、少しずつ分かってきた。
この方は、冗談が苦手なわけではない。
表に出る量が少ないだけだ。
「では、次のお茶は、仕事に関係のない本について話すというのはどうでしょう」
「仕事に関係のない本」
「はい」
「難しい課題です」
「そこまでですか」
「努力します」
「私も探してみます」
そう言ってから、少しだけ胸が跳ねた。
次のお茶。
自然にそう口にしていた。
約束を作ることが、以前ほど怖くない。
それは、相手が約束を軽く扱わないと知っているからだろうか。
ヴィクトル様も、少しだけその言葉を受け止めたようだった。
「では、次回までに」
「はい」
「仕事に関係のない本を一冊」
「それぞれ持ち寄りましょう」
「承知しました」
何とも真面目な茶会の約束になってしまった。
けれど、私たちらしい気もした。
ミレーヌ女官長が控え席で、ほんの少しだけ肩を震わせている。
笑っているのだと思う。
気づかなかったことにした。
茶が半分ほど進んだ頃、ヴィクトル様が言った。
「アリシア嬢」
「はい」
「これは、仕事の話ではありません」
「はい」
「あなたと過ごす時間を、私は心地よいと思っています」
息が、一瞬止まった。
彼の声はいつも通り低く、静かだった。
けれど、明らかに仕事の報告ではなかった。
私は茶器を両手で包んだまま、彼を見る。
「……はい」
「急がせるつもりはありません」
「はい」
「あなたは、まだ多くのものを整理している途中です」
「はい」
「ですから、今すぐ何かの返答を求めるものではありません」
「はい」
「ただ、私の側の意思を曖昧にしたまま、あなたの時間をいただくのは不誠実だと思いました」
胸の奥が、静かに、けれど確かに鳴った。
この人は、こういう言い方をする。
甘い言葉ではなく、境界を明確にする言葉で。
自分の意思を伝えることすら、私の時間を勝手に使わないための手続きのように置く。
「ヴィクトル様」
「はい」
「私は、まだ婚約や将来のことをすぐに考えられる状態ではありません」
「分かっています」
「でも」
私は少しだけ息を吸った。
「あなたと過ごす時間は、私も心地よいと思っています」
ヴィクトル様の目が、ほんのわずかに揺れた。
それは本当に小さな変化だった。
でも、私はもう見逃さなかった。
「そうですか」
「はい」
「それは、よいことです」
「また評価ですか」
「いえ」
彼は、少しだけ考えてから言った。
「嬉しいです」
その一言で、私の頬が熱くなった。
単純な言葉。
けれど、ヴィクトル様の口から出ると、驚くほど重い。
「……そう言われると、少し困ります」
「困らせるつもりは」
「いいえ」
私は首を振った。
「困るけれど、嫌ではありません」
「では、困る程度に覚えておきます」
いつもの言い方。
それなのに、今日は少し違って聞こえた。
私は笑った。
その笑いは、婚約式の日の痛みを隠すためのものではない。
ただ、少し嬉しかったから出たものだった。
半刻が過ぎた。
ヴィクトル様は約束通り、時間を確認して席を立った。
「時間です」
「本当に正確ですね」
「あなたの帰宅時刻を勝手に遅らせないためです」
「今日は、少し延びてもよかったかもしれません」
言ってから、自分で驚いた。
ヴィクトル様も、少しだけ目を瞬いた。
けれど、すぐに静かに答える。
「では、次回は一刻で予定を取りますか」
「はい」
「候補日を三つ」
「お願いします」
「仕事に関係のない本も」
「忘れずに」
「承知しました」
そうして、次の約束ができた。
不思議だった。
約束とは、こんなにも穏やかに作れるものだったのかと思う。
誰かの不安で消えるものではなく。
誰かに当然のように後回しにされるものでもなく。
二人が確認し、選び、置くもの。
王妃宮の小庭を出る時、ヴィクトル様はいつものように馬車寄せまで送ってくれた。
夕方の光が、王宮の白い壁を淡く染めている。
「アリシア嬢」
「はい」
「今日は、来てくださってありがとうございました」
「私の意思で来ました」
「はい」
「そして、楽しかったです」
言うのに少し勇気がいった。
でも、言えた。
ヴィクトル様は、静かに微笑む。
「私もです」
馬車の扉が開く。
私は乗り込む前に、一度だけ振り返った。
「今日で、少し区切りがついた気がします」
「ディオン令息の手紙に?」
「それもあります」
「はい」
「でも、それだけではなく」
私は小庭の方を見た。
「自分で選んだ時間が、ちゃんと楽しかったことに」
ヴィクトル様は、何も言わずに聞いていた。
私は続ける。
「だから、今日で本当に終わりにしましょう」
「何を」
「待たされていた私を」
そう言うと、胸の奥が静かに軽くなった。
あの私は、消えるわけではない。
でも、もう今の私を決める人ではない。
ヴィクトル様は、深く頷いた。
「はい」
「そして、次からは」
「はい」
「私が選んだ時間を、少しずつ増やしていきます」
「その時間に、私が入ることを許されるなら」
「次のお茶には、入っています」
ヴィクトル様の目が、また少しだけやわらぐ。
「光栄です」
馬車が動き出す。
窓の外で、ヴィクトル様が一礼する。
私は、その姿が見えなくなるまで見ていた。
かつて、私は待合室で足音を待っていた。
今日は、自分で選んだ茶会の帰り道だった。
鞄の中には、もうディオン様の手紙はない。
それは、家の机の記録箱に置いてきた。
胸の中には、次のお茶の約束がある。
今日で、本当に終わりにしよう。
待たされ続けた私を。
そして、ここからは。
私自身の時間を、私の手で選んでいく。
読んでいただきありがとうございます。
第二十四話で、アリシアはディオンからの謝罪文を受け取り、過去との区切りを一つつけました。
次回からは第四章に入り、アリシア自身の新しい選択と、王家婚姻登録院でのさらに大きな案件へ進みます。
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