第二十三話 私の時間は、もうあなた方のものではありません
正式任用の翌朝、私はいつもより少し遅く目を覚ました。
休務日ではない。
けれど、出勤時刻は午後二刻からにしてある。
昨日、王妃殿下が「休むことも務めに含みます」とおっしゃったせいか、父も母も、そして王家婚姻登録院までもが、私の午前を完全に空けてしまったのだ。
自室の机には、昨日持ち帰った名札の写しが置いてある。
王家婚姻登録院特別補佐官。
アリシア・エルヴェイン。
実物の名札は登録院の机に置いてきた。
けれど、任用書の控えと、父母から贈られた淡い黄色の花束が、今も机の上にある。
その花は、婚約式の白い花とは違った。
誰かの隣に立つための花ではなく、私自身の席を祝う花だった。
「お嬢様」
侍女のリーナが、朝の茶を運びながら微笑んだ。
「本日は、ゆっくりなさってくださいませ」
「皆がそう言うわね」
「皆、そう思っておりますので」
「私、そんなに休んでいなかったかしら」
リーナは少し考え、それから真面目な顔で言った。
「お嬢様は、休んでいる時も、何かしら確認なさっています」
「……そうかもしれないわ」
「本日は、確認を少なめにお願いいたします」
「努力します」
「努力ではなく、実行でお願いいたします」
言い方が少しミレーヌ女官長に似ていて、思わず笑ってしまった。
私の周囲には、いつの間にか私を休ませる人が増えている。
以前なら、誰かに頼られることばかり考えていた。
今は、私を止めてくれる人がいる。
そのことが、少しだけくすぐったい。
朝食の席で、父は新聞を広げていた。
母は花瓶の位置を整えている。
食卓の中央には、昨日の花束から数本移した黄色の花が飾られていた。
「おはよう、アリシア」
「おはようございます、お父様、お母様」
「よく眠れたか」
「いつもよりは」
「ならよい」
父は新聞を畳み、私の前へ封書を一通置いた。
封蝋は、ハーグレイヴ侯爵家のものだった。
朝の穏やかな空気が、少しだけ変わる。
「今朝届いた」
「ハーグレイヴ侯爵家からですか」
「ああ」
「登録院宛てではなく、我が家へ?」
「エルヴェイン公爵家宛てだ」
私は封書を見つめた。
胸の奥が、少しだけ硬くなる。
もう鋭い痛みではない。
けれど、あの家の封蝋を見ると、どうしても白い神殿の廊下が頭をよぎる。
「開封しても?」
「もちろんだ。お前宛てでもある」
私は封を切った。
文面は、ハーグレイヴ侯爵の丁寧な字で書かれていた。
婚約不成立に関する正式謝罪について、改めてエルヴェイン公爵家を訪問したい。
侯爵夫妻、ディオン本人が同席する。
すでに王家婚姻登録院を通じた書面謝罪および費用処理は進めているが、両家の長年の関係を考え、直接の謝意を伝えたい。
可能であれば、三日後の午後二刻に伺いたい。
三日後の午後二刻。
その時刻を見た瞬間、私は少しだけ目を細めた。
三日後の午後二刻は、ヴィクトル様から届いたお茶の候補日の一つだった。
正確に言えば、まだ選んではいない。
けれど、昨日の帰り際に、ヴィクトル様は候補日を三つ出すと言っていた。
今朝、登録院経由でその候補日が届いている。
第一候補、三日後の午後二刻。
第二候補、五日後の午前十刻。
第三候補、七日後の午後三刻。
場所は、王妃宮の小庭。
仕事外の茶。
同席者としてミレーヌ女官長。
所要時間、半刻から一刻。
あまりにもきちんとした誘いで、朝から少し笑ってしまったばかりだった。
そこへ、ハーグレイヴ侯爵家から同じ時刻の訪問希望。
偶然かもしれない。
おそらく偶然だろう。
けれど、胸の奥で小さな違和感が生まれた。
可能であれば、と書いてある。
だが、こちらの予定を尋ねる文ではなく、訪問の時刻を置いている文だった。
「アリシア」
父が低く言った。
「どうする」
「お父様は、どうお考えですか」
「謝罪を受けること自体は、家同士の礼として必要だろう」
「はい」
「だが、日程をあちらが先に決めることではない」
母が静かに頷く。
「あなたの都合を、まず聞くべきです」
その言葉で、胸の奥が少し温かくなった。
以前なら、私はこう言われただろうか。
家同士のことだから。
公爵家として受けるべきだから。
あなたなら分かるでしょう。
そう言われたかもしれない。
けれど今、父も母も、最初に私の都合を見ている。
「三日後の午後二刻は、別の予定を入れるつもりです」
私は言った。
父が少しだけ眉を上げる。
「登録院の仕事か」
「いいえ」
「では?」
「仕事外のお茶です」
母の目が、ほんの少しだけ明るくなった。
父は一瞬、何かを飲み込んだような顔をした。
「相手は」
「ヴィクトル・レオニス大公子です」
父は少し黙った。
それから、重々しく頷く。
「そうか」
「まだ第一候補を選ぶと返事はしていません」
「選びたいのか」
その問いは、思ったよりまっすぐだった。
私は少しだけ考えた。
ヴィクトル様とお茶をすること。
仕事外で話すこと。
それは、まだ少し怖い。
けれど、嫌ではない。
むしろ、楽しみにしていた自分がいる。
「はい」
私は答えた。
「選びたいです」
父は、もう一度頷いた。
「なら、ハーグレイヴ侯爵家には別日を提示する」
「いえ」
私は封書を机に置いた。
「少し違います」
「違う?」
「直接訪問は、今は受けません」
父と母が、私を見る。
私は続けた。
「謝罪文は、すでに登録院を通じて受け取っています。費用や違約金も手続き中です。家同士の礼として必要な文書は受領しますが、ディオン様本人を伴う直接訪問は、今の私には不要です」
「アリシア」
母が、そっと私の名を呼ぶ。
「本当に、それでいいの?」
「はい」
「謝罪を拒むことにはならない?」
「謝罪は受け取っています」
私は静かに答えた。
「けれど、謝罪を理由に、私の時間をまた差し出す必要はありません」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが固まった。
これは怒りではない。
ただの線だ。
私の時間は、もうあちらの謝罪のために自由に使われるものではない。
「お父様、返信は私が書いてもよろしいでしょうか」
「家宛てだ。私の名で出す」
「では、文案を私が作ります」
父は、少しだけ口元を緩めた。
「そう来ると思った」
「お父様」
「作りなさい。確認する」
「はい」
私は食後、自室ではなく父の書斎で文案を書いた。
以前なら、こういう文面を書く時、相手の家格や機嫌を損ねないことばかり考えただろう。
今も礼を失うつもりはない。
けれど、必要以上に柔らかくするつもりもなかった。
ハーグレイヴ侯爵閣下
このたびの正式な謝意については、王家婚姻登録院を通じた書面および所定の手続きにより、確かに受領しております。
貴家よりお申し出の直接訪問については、現時点では辞退いたします。
今後、本件に関する連絡、書面、費用処理、追加説明は、王家婚姻登録院を通じてお願いいたします。
アリシア・エルヴェイン本人に返答義務はなく、面会の予定もございません。
なお、エルヴェイン公爵家として必要な家間手続きについては、別途文書にて対応いたします。
私は書き終えて、父へ渡した。
父は一読し、少しだけ眉を上げる。
「かなり明確だな」
「柔らかくした方がよろしいでしょうか」
「いや」
父は首を振った。
「これでよい。礼は失っていない」
「ありがとうございます」
「最後に一文足す」
「何をですか」
父はペンを取り、文末に書き加えた。
娘の時間を、再び本件の調整に供することはいたしません。
私は、その一文を見て、胸が詰まった。
父の字は硬い。
でも、その一文はとても温かかった。
「お父様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「父親として、少し遅いくらいだ」
父はそう言って、封をした。
その日の午後、私は王家婚姻登録院へ出勤した。
いつもの確認室へ入ると、机の上にヴィクトル様からの候補日通知の控えが置かれている。
私は、それを見て少しだけ笑った。
三つの候補日。
仕事外。
半刻から一刻。
同席者あり。
帰宅時刻への影響なし。
どこまでも正確で、どこか不器用な誘い。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が声をかけてきた。
「はい」
「候補日についてですが」
「第一候補でお願いします」
言うと、ヴィクトル様が一瞬だけ止まった。
「三日後の午後二刻ですか」
「はい」
「予定は大丈夫ですか」
「大丈夫にしました」
「大丈夫に?」
「ハーグレイヴ侯爵家から、同じ時刻に直接謝罪訪問の申し出がありました」
ヴィクトル様の表情が、少しだけ硬くなる。
「受けるのですか」
「いいえ」
「断ったのですね」
「はい」
「理由は」
私は少しだけ考えた。
そして、まっすぐ答えた。
「私の時間は、もうあの方々の謝罪のためにあるわけではないからです」
ヴィクトル様は、静かに私を見ていた。
それから、ほんの少しだけ目を細める。
「とてもよい判断です」
いつもの言葉。
でも、今日は特に胸に届いた。
「ありがとうございます」
「登録院にも通知は来ますか」
「今後の連絡は登録院を通すよう、父の名で返書を出しました」
「確認します」
「はい」
「三日後のお茶は」
「私の意思で伺います」
そう言うと、ヴィクトル様の口元がわずかに動いた。
「では、お待ちしています」
待つ。
その言葉は、もう痛くなかった。
むしろ少しだけ、楽しみだった。
その日の仕事は、過去の謝罪接触記録の整理だった。
謝罪文を送った後に、返答を催促した例。
面会謝罪を求めて何度も訪問した例。
家同士の謝罪を口実に、本人へ再接触しようとした例。
思っていた以上に多かった。
「謝罪という言葉は便利ですね」
私は思わず言った。
ユリアが頷く。
「便利です。だから手順が必要です」
「本当に」
私は、今日の父の返書を思い出した。
謝罪を拒絶したわけではない。
でも、私の時間を差し出さない。
その違いが、ようやくはっきりしてきた。
夕方、ハーグレイヴ侯爵家から登録院へも連絡が届いた。
エルヴェイン公爵家から返書を受け取ったこと。
今後の連絡を登録院経由にすることを受け入れること。
ディオン様本人の直接面会希望は取り下げること。
その最後に、ディオン様本人の短い一文が添えられていた。
アリシア嬢の時間を、これ以上自分の謝罪のために求めません。
私は、その一文を読んだ。
胸は痛まなかった。
少しだけ、静かに息が入った。
「要綱の謝罪項目が、さっそく効きましたね」
ユリアが言った。
「そうですね」
「記録します」
「はい」
私は、自分の報告欄へ短く書いた。
謝罪に関する追加接触は、受領者本人の意思により辞退。
以後、登録院経由とする。
本人時間への再負担なし。
本人時間への再負担なし。
その一文を書いた時、何かがきちんと閉じたような気がした。
婚約不成立の日から続いていた、長い余波の一つが。
私が、自分で閉じたのだ。
勤務後、ヴィクトル様は馬車寄せまで送ってくれた。
今日はお茶ではない。
けれど、三日後の約束がある。
それだけで、いつもの帰り道が少し違って見えた。
「アリシア嬢」
「はい」
「今日は、ご自身の時間を守りましたね」
「はい」
「よい仕事でもあり、よい私的判断でもありました」
「両方ですか」
「両方です」
私は少し笑った。
「では、両方ありがとうございます」
「どういたしまして」
「三日後」
「はい」
「お茶を楽しみにしています」
言ってから、少しだけ頬が熱くなった。
でも、言いたかったのだ。
仕事の予定ではなく、謝罪の面会でもなく、誰かに待たされる時間でもなく。
自分で選んだお茶の時間を、楽しみにしていると。
ヴィクトル様は、少しだけ目を見開いた。
それから、とても静かに微笑んだ。
「私もです」
その返事は短かった。
けれど、十分だった。
馬車が動き出す。
窓の外で、登録院の灯りが遠ざかっていく。
私の時間は、もうあの方々のものではない。
謝罪のために差し出すものでもない。
待たされるために空けておくものでもない。
三日後の午後二刻。
私は、私の意思で、王妃宮の小庭へ向かう。
そのことが、今は少し誇らしかった。
読んでいただきありがとうございます。
第二十四話は明日18:10に投稿予定です。
次回は、アリシアとヴィクトルの仕事外のお茶、そして過去との区切りをもう一段進める回になります。
面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。




