第二十二話 あなたの席は、臨時ではありません
王女殿下の婚約披露式典から二日後、王妃宮と王家婚姻登録院の合同会議が開かれた。
場所は、王宮南棟の白薔薇会議室。
名前だけ聞けば優雅な茶会の間のようだが、実際には王妃宮が扱う儀礼、婚姻、謁見、席次、招待記録を確認するための実務会議室だった。
長い楕円の卓。
壁際に並ぶ記録棚。
窓辺の書記机。
そして卓の中央には、私たちが作った要綱の清書版が置かれている。
婚約式・婚姻式における本人意思確認および時刻配慮の要綱。
もう「暫定」という文字はなかった。
昨日までは試用版だった。
けれど、第一王女セレスティア殿下の婚約披露式典で使われ、大きな問題なく運用できた。
王女殿下の時刻も、アストリア前公爵への配慮も、どちらも守れた。
その結果を受けて、今日、正式要綱化が審議される。
私は、王家婚姻登録院の臨時補佐として卓の端に座っていた。
端とはいえ、控え席ではない。
書記官の後ろでもない。
起案補佐として、発言を求められれば答える席だった。
それが、まだ少し落ち着かない。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
「アリシア補佐」
隣のユリア書記官が、小さな声で言った。
「書類の順番は、手元の控えと同じです」
「ありがとうございます」
「三枚目に、あなたの待機負担者欄についての説明があります」
「はい」
「反対が出るなら、おそらくそこです」
「……やはり、出ますか」
「出ると思います」
ユリアは表情を変えずに答えた。
「時刻表に、誰が待つのかを書く。これは一部の方には、とても不都合です」
「なぜですか」
「誰かを待たせていることが、見えてしまうからです」
その言葉に、私は小さく頷いた。
そう。
見えないから、待たせられる。
少しだけ。
今回だけ。
あの子のために。
家族のために。
そう言って、誰かの時間を柔らかい布で包むように奪う。
見えなければ、美徳にも見える。
けれど、見えるようになれば、それは負担として扱われる。
王妃セレーネ殿下が入室されると、会議室の空気が変わった。
全員が立ち上がる。
王妃殿下は卓の中央の席へ進み、静かに着席された。
「始めましょう」
その一言で、会議が始まった。
出席者は、王妃宮女官長ミレーヌ。
王家婚姻登録院監督官ヴィクトル・レオニス大公子。
登録院の上級書記官。
王宮儀礼課の課長。
神殿代表のマルタ神官。
近衛警備調整官。
そして、数名の王妃宮顧問。
私は、その中では明らかに若く、立場も軽い。
けれど、手元の要綱には私の書いた欄がある。
それが、私をこの席に留めていた。
「本日の議題は、暫定要綱の正式採用です」
ミレーヌ女官長が進行を始めた。
「試用期間中、王家婚姻登録院で三件、王妃宮管轄儀礼で一件に適用。本人意思確認、時刻配慮、代理出席禁止、病弱者対応、謝罪後の接触制限について、実務上の有効性を確認しました」
書記官が、順に記録を読み上げる。
エミリア・クライン令嬢の件。
マリアベル・サザーランド令嬢の件。
ルイーザ・ベルモント令嬢の件。
そして、セレスティア王女殿下の婚約披露式典。
どれも、私が関わった案件だ。
改めて並べられると、胸の奥が不思議な重みを持つ。
たった数日の間に、ずいぶん遠くまで来たような気がした。
「では、項目ごとに確認します」
ミレーヌ女官長が言った。
「第一項。本人意思確認の省略禁止」
「異議なし」
「第二項。神官復唱方式、小礼拝堂形式、休止合図の導入」
「異議なし」
「第三項。代理出席の禁止」
「異議なし」
「第四項。病弱者または強い不安のある者への対応手順」
「異議なし」
「第五項。謝罪および返答待機に関する扱い」
「異議なし」
思っていたより順調に進んだ。
けれど、私はまだ気を抜かなかった。
問題は、次だ。
「第六項。時刻変更願いにおける待機負担者の明記」
そこで、やはり一人の顧問が手を上げた。
年配の男性で、王妃宮の古い儀礼に詳しいと聞いている。
「王妃殿下、発言をお許しいただけますか」
「どうぞ」
「待機負担者という言葉は、少々強すぎるのではありませんか」
来た。
そう思った。
私は手元の紙をそっと押さえる。
「王宮儀礼において、予定変更はままあることです。王族、諸侯、神殿、外国使節、体調、天候。すべてを予定どおりに進めることなどできません」
「ええ」
王妃殿下は静かに頷く。
「その上で?」
「誰が待つのかを明記するとなると、変更を願い出る者が、まるで他人に負担を押しつけているかのように見えます」
「実際に、押しつける場合もあるでしょう」
王妃殿下が淡々と返す。
顧問は一瞬言葉を止めた。
「もちろん、そういう例もあります。しかし、親の情、病人への配慮、家門の事情など、やむを得ないものもあります」
「だからこそ、書くのです」
王妃殿下の声は静かだった。
「やむを得ないものなら、誰がどれだけ待つのかを書いても問題はないはずです」
顧問は、少しだけ眉を寄せた。
「しかし、儀礼の場であまりに事務的な表現を用いると、情を欠くように受け取られかねません」
その言葉に、私は小さく息を吸った。
情を欠く。
冷たい。
事務的。
何度も見た言葉だ。
私自身も、そう見られることを恐れていた。
不成立確認書に署名した日。
私が冷たいのだろうかと、何度も思った。
けれど、今は少し違う。
「アリシア」
王妃殿下が、私を見た。
「この欄を提案したのは、あなたでしたね」
「はい」
「説明できますか」
「はい」
私は立ち上がった。
手元の控えを開く。
会議室の視線が集まる。
少し怖い。
けれど、声は出た。
「待機負担者欄は、情を否定するための欄ではありません」
まず、そこから始めた。
「病人を案じる気持ち、家族を待ちたい気持ち、式に間に合わせたい気持ち。それらは否定されるものではないと思います」
顧問は黙って聞いている。
私は続けた。
「ですが、その気持ちによって時刻を動かす場合、必ず誰かが待つことになります」
「それは、当然でしょう」
「はい。ですが、その当然が見えないまま扱われると、待つ側の時間は存在しないものになります」
少しだけ、胸が痛んだ。
でも、言葉は止まらなかった。
「少しだけ待ってほしい。落ち着くまで待ってほしい。家族が揃うまで待ってほしい。そう言う時、その少しを誰が持つのか、書面に残すべきです」
「しかし」
「書いたからといって、必ず却下するわけではありません」
私は言った。
「医学的に必要で、本人の同意があり、後続の式に影響がないなら、待機は認められるでしょう。けれど、その判断のためには、誰が待つのかを見なければなりません」
ヴィクトル様が、静かに頷いた。
その動きが視界の端に見えて、少しだけ落ち着く。
「待機負担者欄は、誰かを責める欄ではありません」
私は、最後にそう言った。
「見えないまま誰かに負わせていた時間を、きちんと見るための欄です」
会議室が静かになった。
顧問は、しばらく私を見ていた。
そして、少しだけ息を吐く。
「……なるほど」
彼は手元の要綱へ視線を落とした。
「言葉が強いと思ったのですが、役割は理解しました」
「必要なら、欄名を変えることもできます」
「いいえ」
意外にも、顧問は首を振った。
「ここは強いままでよいのでしょう。柔らかくしすぎると、また見えなくなる」
私は、少しだけ目を見開いた。
彼は、王妃殿下へ向き直る。
「異議を取り下げます」
「では、第六項は原案どおり」
王妃殿下が告げる。
「採用します」
胸の奥で、何かが静かに鳴った。
鐘ではない。
けれど、確かに何かが通った音だった。
その後の項目も確認され、要綱は正式に採用された。
王妃宮告示として登録院、神殿、王宮儀礼課へ配布されることになる。
写しは、各貴族家へも順次通達。
まずは王都の公爵家、侯爵家、伯爵家から。
やがて地方の貴族家へも送られる。
私たちが作った表が、王都の多くの婚約式や婚姻式に置かれるのだと思うと、手元が少しだけ冷たくなった。
けれど、嫌ではない。
これは必要な手順だ。
「次の議題へ移ります」
ミレーヌ女官長が言った。
私は、要綱の審議が終わったからもう自分の役目も終わりだと思っていた。
けれど、彼女は別の書面を卓へ置いた。
「王家婚姻登録院臨時補佐、アリシア・エルヴェインの任用形態について」
え。
思わず声が出そうになった。
隣のユリアは、全く驚いていない顔で書類を整えている。
知っていたのだろう。
ヴィクトル様を見ると、彼も静かにこちらを見ていた。
「アリシア・エルヴェインは、臨時補佐として試用期間中、本人意思確認、時刻配慮、病弱者対応、待機負担者欄の起案および実務適用において、有効な働きを示しました」
ミレーヌ女官長の声が、会議室に響く。
「王妃宮および王家婚姻登録院として、臨時任用を終了し、正式な特別補佐官として任用することを提案します」
特別補佐官。
言葉が、すぐには胸に落ちなかった。
「任期は一年。更新あり。所属は王家婚姻登録院。王妃宮儀礼課との兼任補助を認める。職務範囲は、本人意思確認、婚約式・婚姻式における時刻配慮、特別配慮表の運用、要綱改定補助」
上級書記官が、続けて条件を読み上げる。
「報酬、上申先、家門干渉禁止条項、守秘義務、休務規定、すべて文書化済み」
私は、思わず手元の紙を握った。
臨時ではなくなる。
あくまで一時的な補佐だと思っていた席が、正式な席になる。
それは嬉しい。
けれど、同時に怖い。
自分が本当にそこまでできるのか。
公爵令嬢の気まぐれではない。
婚約不成立後の慰めでもない。
正式な役目になる。
「アリシア」
王妃殿下が私を呼んだ。
「はい」
「あなたの意思を確認します」
会議室が、また静かになる。
本人意思確認。
これまで私が何度も関わってきたもの。
今度は、私自身の番だった。
「この任用を受けますか」
私は息を吸った。
視線が集まっている。
けれど、私を急かすものではない。
待っている。
私の返事を。
正しい意味で。
「条件を、確認してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
王妃殿下は、少しだけ微笑んだ。
「あなたなら、そう言うと思っていました」
卓の上に、正式任用書が置かれた。
私は一行ずつ確認した。
任期。
報酬。
職務範囲。
上申先。
休務規定。
家門干渉禁止。
エルヴェイン公爵家、ハーグレイヴ侯爵家、ロイス男爵家からの私的干渉禁止。
臨時補佐時代に求めた条項は、すべて残っている。
それどころか、より明確になっていた。
「問題ありません」
「では、改めて確認します」
王妃殿下が言う。
「アリシア・エルヴェイン。あなたは、王家婚姻登録院特別補佐官としての正式任用を受けますか」
私は、まっすぐ答えた。
「はい。お受けいたします」
会議室の空気が、少しだけ動いた。
大きな拍手はない。
儀礼の場ではないからだ。
けれど、ミレーヌ女官長が静かに頷き、ユリアがほんの少し目元を緩め、マルタ神官が微笑んだ。
ヴィクトル様は、いつもの静かな顔で私を見ている。
けれど、その目は少しだけやわらかかった。
「では、署名を」
上級書記官がペンを差し出す。
私はそのペンを取った。
不成立確認書に書いた名。
臨時補佐任用書に書いた名。
要綱起案補佐として記された名。
そして今、特別補佐官として書く名。
アリシア・エルヴェイン。
書き終えると、王妃殿下が確認印を押した。
次に、ヴィクトル様が王家婚姻登録院監督官として署名する。
その手元を見ながら、私は不思議な気持ちになった。
あの日、彼は私の婚約不成立確認書にも印を押した。
今日、彼は私の正式任用書に署名している。
同じ人の手で、一つは終わり、一つは始まりとして残る。
「アリシア・エルヴェイン」
王妃殿下が、改めて言った。
「本日より、あなたは王家婚姻登録院特別補佐官です」
「はい」
「あなたの席は、臨時ではありません」
その言葉に、胸の奥が大きく揺れた。
あなたの席は、臨時ではありません。
誰かが来るまでの代わりではない。
婚約を失った令嬢への一時的な慰めでもない。
私の名で用意された席。
「ありがとうございます」
声が少しだけ震えた。
でも、言えた。
「謹んで務めます」
「ええ」
王妃殿下は、やわらかく微笑んだ。
「ただし、休むことも務めに含みます」
「……はい」
会議室の空気が少しだけ和らぐ。
ヴィクトル様が真面目に頷いた。
「監督します」
「あなたもです」
王妃殿下が即座に返す。
今度は、会議室の何人かが小さく笑った。
私も笑った。
正式任用の場で笑っていいのか少し迷ったけれど、王妃殿下が楽しそうにしているので、たぶんよかったのだと思う。
会議の後、私は王家婚姻登録院へ戻った。
二階の確認室。
そこに、私の机があった。
臨時補佐として使っていた机だ。
けれど、机の上には新しい名札が置かれていた。
王家婚姻登録院特別補佐官
アリシア・エルヴェイン
私は、その名札の前でしばらく立ち尽くした。
自分の名前が、そこにある。
誰かの隣の席ではなく。
待合室でもなく。
仕事の席として。
「気に入りませんか」
ヴィクトル様が、いつの間にか隣に立っていた。
私は慌てて首を振る。
「いいえ」
「では」
「少し、信じられなくて」
「正式任用書にも署名しました」
「はい」
「王妃殿下の印もあります」
「はい」
「登録院の記録にも残りました」
「はい」
「ですから、信じてください」
あまりにも事務的な励ましで、私は笑ってしまった。
「本当に、ヴィクトル様はこういう時まで記録なのですね」
「記録は信じられます」
「そうですね」
私は名札へ指を触れた。
冷たい金属。
でも、その冷たさが心地よい。
「はい。信じます」
ヴィクトル様は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ようこそ、登録院へ。改めて」
「ありがとうございます」
「今日の仕事は」
「もうあるのですか」
「あります」
即答だった。
私は思わず笑う。
「正式任用初日ですものね」
「はい。ただし、今日は軽い確認だけです」
「軽い?」
「過去の延期願いの分類です」
「軽い、でしょうか」
「比較的」
「比較対象が王女殿下の婚約披露式典なら、何でも軽くなります」
「それは一理あります」
そのやりとりに、ユリアが横で小さく咳払いをした。
もう慣れてきたのかもしれない。
私は自分の席に座った。
名札の向こうに、過去の延期願いの束が置かれる。
仕事は続く。
それが、今は嬉しかった。
夕方、勤務が終わる頃、父と母から花が届いた。
白ではなく、淡い黄色の小さな花束。
添えられたカードには、父の硬い字でこう書かれていた。
正式任用、おめでとう。
お前の席ができたことを、誇りに思う。
母の字で、その下に一行。
今日は、あなたの時間でお祝いしましょう。
私はカードを見つめ、少しだけ泣いた。
今度は、悲しみではなかった。
だから、涙を拭うだけで済んだ。
ヴィクトル様が、少し離れた場所で立っていた。
近づきすぎない。
でも、私が声をかければ届く距離。
私は自分から言った。
「ヴィクトル様」
「はい」
「今日は、家で両親と過ごします」
「はい」
「お茶は、また別の日に」
「もちろん」
「候補日を三つ、いただけますか」
そう言うと、ヴィクトル様の口元がわずかに動いた。
「用意します」
「仕事ではない候補日で」
「承知しました」
「私の時間で選びます」
「もちろん」
私は花束を抱え、机の名札をもう一度見た。
アリシア・エルヴェイン。
王家婚姻登録院特別補佐官。
婚約式の鐘が鳴らなかった日、私は自分の未来が一つ閉じたと思った。
それは確かに閉じた。
けれど、別の扉が開いた。
待たされるための控え室ではなく。
私の名で座る席へ続く扉が。
私はもう、臨時ではない。
誰かの代わりでもない。
自分の時間で、自分の席に座る。
そのことを、今日、ようやく少しだけ信じられた。
読んでいただきありがとうございます。
第二十二話で、アリシアは正式に王家婚姻登録院の特別補佐官となりました。
次回からは、正式な席を得たアリシアが、過去との清算と新しい関係へさらに進んでいきます。
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