第二十一話 王女殿下の婚約披露にも、待機負担者欄は必要です
暫定要綱が初めて大きな王宮儀礼に使われることになったのは、試用開始から七日目のことだった。
対象は、第一王女セレスティア殿下の婚約披露式典。
国王陛下と王妃殿下の長女であるセレスティア王女と、アストリア公爵家嫡男アルフォンス様の婚約を、王宮大広間で正式に披露する式だった。
すでに婚約内約と本人意思確認は済んでいる。
神殿での正式婚約式も滞りなく終わっている。
今日の式典は、王家と公爵家が婚約成立を貴族社会へ示すための披露式典だ。
とはいえ、ただの社交行事ではない。
王家の儀礼であり、王妃宮、王家婚姻登録院、王宮儀礼課、近衛、神殿代表、各家の参列者が関わる。
時刻も席次も、すでに細かく組まれていた。
だからこそ、暫定要綱の試用にはちょうどよいと王妃殿下が判断されたらしい。
「ちょうどよい、の規模でしょうか」
私が思わずそう言うと、ユリア書記官は表情を変えずに答えた。
「王妃殿下のちょうどよいは、登録院の少し大きいです」
「かなり大きいように思えます」
「否定はしません」
王妃宮の作業卓には、式典の時刻表が広げられている。
午前の最終確認。
午後一刻、王宮大広間開場。
午後一刻半、各家代表入場。
午後二刻、国王陛下と王妃殿下入場。
午後二刻一の鐘、王女殿下とアルフォンス様入場。
午後二刻半、婚約成立の披露宣言。
午後三刻、両家挨拶。
午後三刻半、祝宴の間へ移動。
その時刻表の横に、私たちが作った特別配慮表が置かれていた。
待機負担者。
待機上限。
同意確認。
代替手段。
休止時の再開条件。
記録担当。
自分で提案した欄が、王女殿下の式典に使われると思うと、少し背筋が寒くなる。
けれど、それは嫌な寒さではなかった。
軽く扱えないものを扱っているという、正しい緊張だった。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が、式典表の端を指した。
「ここを見てください」
「はい」
指されたのは、午後二刻一の鐘。
王女殿下とアルフォンス様の入場時刻だった。
「本来、ここは動かしません」
「王族の入場時刻ですから」
「はい。国王陛下、王妃殿下、王女殿下、花婿側、諸侯、神殿代表、外国使節、近衛配置、すべてここへ合わせています」
「つまり、ここが動くと全体が動きます」
「その通りです」
ヴィクトル様は、次に赤い付箋のついた書状を私へ渡した。
「そして、アストリア公爵家より時刻変更願いが出ました」
「時刻変更願い」
「はい」
嫌な予感がした。
私は書状を開いた。
アストリア前公爵オルフェン様の馬車が、街道の事故処理に巻き込まれ、到着が遅れている。
前公爵は病後ではあるが、孫であるアルフォンス様の婚約披露を心待ちにしている。
できれば前公爵の到着まで、式典開始を一刻ほど遅らせてほしい。
「……一刻」
「はい」
「王女殿下の婚約披露式典を、前公爵様の到着まで一刻遅らせたい、ということですね」
「そうです」
私は時刻表へ視線を戻した。
一刻遅らせる。
書状では簡単な言葉だ。
けれど、その一刻は、誰かが待つ一刻だ。
セレスティア王女殿下。
アルフォンス様。
国王陛下と王妃殿下。
参列する諸侯。
外国使節。
神殿代表。
警備の近衛。
祝宴の間で待機している料理人たち。
そして、式典後に予定されている別の謁見。
待機負担者欄がなければ、その重さは「前公爵様を待つだけ」の一文に隠れていたかもしれない。
「前公爵様は、婚約披露に必須の立会人でしょうか」
「いいえ」
ヴィクトル様が答えた。
「アストリア公爵家の現当主は、アルフォンス様の父である現公爵です。前公爵は名誉席の参列者です」
「ご本人の体調は?」
「病後ですが、医師の診断では移動可能。ただし遅延により疲労が出る可能性があります」
「では、むしろ急がせる方が危ういですね」
「そうですね」
ミレーヌ女官長が、式典表の横へ別紙を置いた。
「アストリア公爵夫人が、直接説明を求めています」
「公爵夫人が」
「前公爵様の娘にあたる方です。かなり動揺していらっしゃいます」
それは、少し分かる気がした。
病後の父が、孫の婚約披露へ向かっている。
間に合わないかもしれない。
それなら待ってほしい。
そう思うこと自体は、自然だ。
けれど、その自然な感情を王女殿下の時刻表へ入れてよいかは、別の話だった。
「面会しますか」
ヴィクトル様が尋ねる。
決裁は監督官と王妃宮が行う。
けれど、特別配慮表の説明は私も担当することになっていた。
「はい」
「目的は」
「時刻変更ではなく、代替手段の確認です」
「よい判断です」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
アストリア公爵夫人は、王妃宮の面会室で待っていた。
銀に近い金髪を結い上げ、深い紫のドレスをまとった、気品ある方だ。
けれど、今は明らかに落ち着きを欠いていた。
手元の扇が、何度も開いては閉じられている。
「レオニス大公子殿下」
夫人はヴィクトル様へ礼をし、それからミレーヌ女官長と私へも視線を向けた。
「どうか、少しだけお待ちいただけないでしょうか。父は、アルフォンスの婚約披露を本当に楽しみにしていたのです」
「書状は確認しました」
ヴィクトル様が答える。
「前公爵様のご到着遅延については、こちらでも把握しています」
「でしたら」
「ですが、式典開始時刻の一刻延期は認められません」
公爵夫人の顔が強張った。
「父を、見捨てろとおっしゃるのですか」
「いいえ」
ヴィクトル様は即答した。
「見捨てません。ただし、王女殿下の婚約披露式典を止める理由にはしません」
夫人の唇が震える。
私は一歩だけ前へ出た。
「公爵夫人」
「あなたは」
「王家婚姻登録院の臨時補佐、アリシア・エルヴェインです。本日は、特別配慮表の説明を担当いたします」
「特別配慮表?」
「はい」
私は卓の上に、今回の式典用に書き込んだ表を広げた。
「こちらが、時刻変更願いを受けた場合に確認する表です」
夫人は戸惑いながら紙を見る。
私は、待機負担者の欄を指した。
「式典開始を一刻遅らせた場合、待機負担者は、セレスティア王女殿下、アルフォンス様、国王陛下、王妃殿下、参列諸侯、神殿代表、外国使節、近衛、祝宴担当者、後続謁見の関係者となります」
「……そんなに」
「はい」
「私は、ただ父を少し待っていただければと」
「その少しを、誰が待つのかを確認するための表です」
夫人は扇を握りしめた。
責めたいわけではない。
けれど、見えなかったものを見てもらう必要がある。
「前公爵様を大切に思われるお気持ちは、否定されるものではありません」
「では」
「ですが、そのお気持ちで王女殿下の時刻を動かすことはできません」
「王女殿下の時刻……」
「はい」
私は、できるだけ静かに言った。
「本日の式典は、王女殿下とアルフォンス様が婚約成立を披露する場です。前公爵様をお待ちする場ではありません」
夫人の目が揺れた。
その言葉は、少し厳しかったかもしれない。
けれど、ここを曖昧にすれば、式典全体が前公爵様の到着待ちになってしまう。
「父は、病後なのです」
「はい」
「急がせれば、体調を崩すかもしれません」
「ですから、急がせません」
ヴィクトル様が言った。
「前公爵様の馬車には、王宮医師を向かわせています。到着後は、まず医師が状態を確認します」
「医師を」
「はい。無理に大広間へお連れすることはありません」
ミレーヌ女官長が、別紙を出した。
「代替案は三つございます」
「代替案……」
「第一案。前公爵様が披露宣言までに到着でき、医師が許可した場合、名誉席へ静かにご案内します。ただし、式典進行は止めません」
「はい」
「第二案。途中到着で大広間入場が難しい場合、隣接する王妃宮小室で式典の鐘と宣言をお聞きいただきます」
「小室から」
「はい。式典後、セレスティア王女殿下とアルフォンス様が短くご挨拶に伺います」
公爵夫人の顔に、少しだけ安堵が浮かぶ。
「第三案は?」
「本日の到着が難しい場合、前公爵様宛てに王妃殿下署名の記録書簡をお送りします。さらに、体調が整った日に、王妃宮小祈祷室で家族祝福の時間を設けます」
夫人は、しばらく黙っていた。
涙が浮かんでいる。
けれど、その涙は先ほどの焦りだけではなくなっていた。
「父は、見捨てられるわけではないのですね」
「見捨てません」
私は答えた。
「ただし、王女殿下を待たせる形にはしません」
夫人は目を閉じた。
深く息を吸う。
それから、扇を閉じた。
「……分かりました」
「時刻変更願いは」
「取り下げます」
夫人は、ゆっくり頭を下げた。
「父への配慮を、お願いいたします」
「もちろんです」
ミレーヌ女官長が答えた。
「配慮は、式典を止めずに行います」
その一文で、面会室の空気が少しだけ落ち着いた。
式典は、予定どおり午後二刻に始まった。
王宮大広間には、諸侯が並んでいる。
神殿代表。
外国使節。
王妃宮の女官たち。
近衛騎士。
祝宴の間へ続く扉の向こうでは、料理人たちが時刻に合わせて動いている。
その全てが、午後二刻一の鐘へ向かって整っていた。
私は大広間の端、登録院補佐の位置に立っている。
手元には特別配慮表。
前公爵様の到着状況は、王宮医師と連絡役が逐次知らせてくれることになっている。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が横に立つ。
「前公爵様の馬車は」
「王宮外門へ近づいているそうです。ただし、披露宣言には間に合わない可能性があります」
「医師は」
「外門で待機中です」
「よろしい」
短い確認。
それだけで、少し落ち着く。
国王陛下と王妃殿下が入場された。
大広間の空気が一段引き締まる。
続いて、セレスティア王女殿下とアルフォンス様。
王女殿下は、淡い銀青のドレスをまとっていた。
アルフォンス様は、アストリア公爵家の礼装。
二人は並んで進む。
歩幅は合っていた。
それだけで、今日の式典が誰のためのものか分かる気がした。
午後二刻半。
婚約成立の披露宣言が行われた。
「第一王女セレスティアと、アストリア公爵家嫡男アルフォンスの婚約成立を、ここに披露する」
国王陛下の声が、大広間に響く。
拍手が起きる。
その時、連絡役がそっと私のところへ来た。
「前公爵様、外門に到着。医師確認中です」
「大広間への入場は?」
「疲労が強く、すぐの入場は不可。小室案が適当とのことです」
「分かりました」
私は特別配慮表の第二案へ印をつけた。
「王妃宮小室へご案内。式典後に王女殿下とアルフォンス様が短く挨拶。医師同席」
「承知しました」
連絡役が動く。
式典は止まらない。
拍手も、挨拶も、予定どおり進む。
けれど、前公爵様も切り捨てられていない。
別の場所で、彼に届く形が整えられている。
私は、そのことに少しだけ胸が熱くなった。
待機負担者欄。
代替手段。
別室配慮。
それらはただの紙の項目ではなかった。
今、この大広間で、王女殿下の時刻と、前公爵様への配慮を両方守っている。
式典は、大きな混乱なく進んだ。
両家挨拶。
神殿代表の祝福。
王妃殿下からの短い言葉。
そして、祝宴の間へ移動する直前、王妃殿下が静かに私たちへ合図した。
「小室へ」
ヴィクトル様が頷く。
私は特別配慮表を持って、その後へ続いた。
王妃宮小室には、前アストリア公爵オルフェン様が座っていた。
年老いた方だった。
顔色は少し悪いが、意識ははっきりしている。
傍らには王宮医師。
そして、アストリア公爵夫人が父の手を握っていた。
「父上」
アルフォンス様が小室へ入ると、前公爵様はゆっくり顔を上げた。
セレスティア王女殿下も、彼の前へ進む。
「オルフェン前公爵。ご到着、よく耐えられました」
王女殿下がそう言うと、前公爵様はかすかに笑った。
「殿下の晴れの日に、遅れるとは。老いぼれは困ったものです」
「式典は予定どおり進めました」
「それでよいのです」
前公爵様は、はっきり言った。
「私一人のために、王女殿下を待たせてはなりません」
公爵夫人の目から、涙がこぼれた。
「父上……」
「お前が待ってほしいと言ったのだろう」
「申し訳ございません」
「気持ちは分かる」
前公爵様は娘の手を軽く叩いた。
「だが、婚約披露は若い二人のものだ。老人の馬車のものではない」
その言葉に、私は胸の奥で静かに息を吐いた。
前公爵様自身が、分かっていらした。
なら、今日の判断は間違っていなかった。
王女殿下とアルフォンス様は、前公爵様へ短く挨拶した。
長くはしない。
医師がいる。
本人も疲れている。
けれど、婚約成立の報告は確かに届いた。
前公爵様は、震える手でアルフォンス様の手を取り、それから王女殿下へ深く頭を下げた。
「どうか、孫をよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
王女殿下は穏やかに答えた。
「アルフォンス様と同じ時刻に立てるよう、努めます」
その言葉に、私は一瞬だけ胸を突かれた。
同じ時刻に立つ。
私がずっと求めていたものに、よく似た言葉だった。
小室での挨拶は、半刻にも満たずに終わった。
前公爵様はそのまま医師の判断で休息へ。
王女殿下とアルフォンス様は祝宴の間へ戻る。
式典全体に大きな遅れは出なかった。
誰も待たせすぎなかった。
誰も見捨てなかった。
それが、今日の結果だった。
式典後、王妃宮の確認室で記録整理が行われた。
ユリア書記官が特別配慮表を清書する。
ミレーヌ女官長が式典進行記録を整える。
ヴィクトル様は監督官印を押す前に、私へ視線を向けた。
「アリシア嬢」
「はい」
「今日の所感は」
「待機負担者欄は、王宮儀礼でも必要でした」
「はい」
「ただし、欄だけでは足りません」
「続けてください」
「待たせない代わりに、届く場所を作る必要があります」
私は、小室での前公爵様を思い出した。
「今日の場合は、王妃宮小室でした。式典は止めない。でも、前公爵様に婚約成立の報告は届く。それがあったから、公爵夫人も受け入れられたのだと思います」
「よい整理です」
ヴィクトル様は頷いた。
「配慮は、式典の中心を動かすことではなく、届く場所を別に作ること」
「はい」
「要綱に追記しましょう」
ユリアがすぐに書き込む。
私は、その文字を見ながら少しだけ胸が熱くなった。
また一つ、手順が増えた。
でもそれは、誰かを縛るものではない。
誰かの時間を守りながら、別の誰かを見捨てないための手順だ。
王妃殿下が確認室へ入ってこられたのは、その少し後だった。
私たちは立ち上がる。
「座っていてよいわ」
王妃殿下は、特別配慮表を手に取った。
「今日の式典、よく整えました」
「ありがとうございます」
「アストリア公爵夫人から、後ほど正式な礼状が届くでしょう」
「礼状、ですか」
「ええ。前公爵も、予定どおり進めてよかったと言っていました」
王妃殿下は、私を見る。
「待機負担者欄は、王宮儀礼にも有効でしたね」
「はい」
「正式要綱化を進めましょう」
その言葉に、私は少しだけ息を止めた。
暫定ではなく、正式に。
私が提案した欄が、王妃宮と登録院の正式な手順になる。
「よろしいのでしょうか」
「よいから言っています」
王妃殿下は微笑んだ。
「あなたはまだ、自分の仕事が採用されることに慣れていませんね」
「……はい」
「慣れなさい」
「はい」
「ただし、慣れすぎて雑になってはいけません」
「はい」
王妃殿下の言葉は、柔らかいのに逃げ場がない。
私は背筋を伸ばした。
「それから、アリシア」
「はい」
「あなたの仕事は、王女の時刻も、前公爵の思いも、どちらも軽くしませんでした」
その言葉に、胸の奥が静かに震えた。
「とてもよい仕事でした」
「ありがとうございます」
今度は、素直に受け取れた。
褒められることに、少しだけ慣れてきたのかもしれない。
勤務後、ヴィクトル様は馬車寄せまで送ってくれた。
王宮の空は、もう薄い藍色に変わり始めている。
「今日は、大きな式でしたね」
私が言うと、ヴィクトル様は頷いた。
「はい」
「少し、怖かったです」
「どこが」
「私の作った欄で、王女殿下の式典を進めることが」
「あなた一人の欄ではありません」
「はい」
「登録院と王妃宮の手順です」
「分かっています」
「ですが、あなたの視点から生まれた欄です」
ヴィクトル様は、少しだけ足を止めた。
「誇ってよいと思います」
その言葉が、不意に胸へ届いた。
誇る。
まだ少し難しい。
けれど、今日の仕事を恥じる必要がないことだけは分かる。
「では、少しだけ」
「少しだけ?」
「誇ります」
ヴィクトル様の口元が、ほんのわずかに動いた。
「よい判断です」
「今日は本当に、その言葉が好きですね」
「事実なので」
「ありがとうございます」
馬車が来た。
私は乗る前に、ヴィクトル様へ向き直る。
「ヴィクトル様」
「はい」
「同じ時刻に立つ、という王女殿下のお言葉が、とても印象に残りました」
「私もです」
「婚約式も、婚姻も、きっとそういうことなのですね」
「はい」
彼は静かに答えた。
「どちらかが当然のように待つのではなく、同じ時刻に立つことです」
胸の奥が、ゆっくり温かくなった。
私は頷く。
「いつか、そういう式を見たいです」
「見られます」
「登録院で?」
「登録院でも」
そこで少し間があった。
私は、なぜか少し頬が熱くなった。
「……今日は帰ります」
「はい」
「明日も、私の意思で出勤します」
「お待ちしています」
その言葉を聞いて、私は馬車へ乗った。
もう、待つという言葉は、私を縛るものではなくなりつつある。
今日、王女殿下とアルフォンス様は同じ時刻に立った。
前公爵様も、別の場所でそれを受け取った。
誰も、誰か一人のために不当に待たされなかった。
それは、私がいつか欲しいと思う未来の形にも、少しだけ似ていた。
読んでいただきありがとうございます。
第二十二話は明日18:10に投稿予定です。
正式要綱化と、アリシア自身の立場がもう一段進む回になります。
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