第二十話 待つことは、許されるまで居座ることではありません
ディオン・ハーグレイヴ様の再教育記録が、王家婚姻登録院へ届いた。
再教育。
その言葉だけを聞けば、少し冷たく響く。
けれど、王家婚姻登録院でいう再教育とは、罰として机の前に座らせることではない。
正式儀式、婚約登録、本人意思確認、公的な時刻の扱いを、もう一度学び直すための手続きだった。
ディオン様は、婚約式に来なかった。
それにより、私との正式婚約は不成立となった。
ハーグレイヴ侯爵家の婚姻協議代理権も停止された。
その代理権をいつか回復するためには、王家婚姻登録院の講習と、複数の確認課題を終える必要がある。
その一つが、今日の記録だった。
「アリシア補佐」
ユリア書記官が、私の机に一冊の薄い綴りを置いた。
「今回の記録は、暫定要綱の待機負担者欄に関わります」
「ディオン様の件ですね」
「はい」
「私が読む必要は?」
「要綱作成補佐としては、あります。ただし、個人名を伏せた抄録でも構いません」
私は少し考えた。
ディオン様の名前を見ることには、もう以前ほどの痛みはない。
けれど、全く何も感じないわけでもない。
自分の婚約式を壊した人の学び直しを、仕事として読む。
奇妙な立場だと思う。
それでも、今の私は登録院の臨時補佐だ。
必要なら、読む。
「原本を読みます」
「分かりました」
「ただし、私的な感想は記録しません」
「もちろんです」
私は綴りを開いた。
表題は、簡潔だった。
婚約式再教育第三回。
主題、待機時間と謝罪の扱い。
その下に、ヴィクトル様の筆跡で補足がある。
待つことは、相手が折れるまで居座ることではない。
待つことは、相手が自分の意思で返答できる時間と距離を守ることである。
その一文で、私は少しだけ息を止めた。
待つこと。
この数日、何度も扱ってきた言葉。
私は待たされた。
エミリア様の声を待った。
マリアベル様の返事を待った。
ルイーザ様の式を待たせないようにした。
ディオン様は、セシリア様が手順紙を使えるまで待った。
そして今日は、謝罪と待つことについての記録らしい。
私は続きを読んだ。
課題一。
ディオン・ハーグレイヴ令息は、自身が過去にアリシア・エルヴェイン公爵令嬢を待たせた事例を時系列で整理すること。
課題二。
各事例について、待機負担者、待機理由、上限時間の有無、代替手段の有無を記すこと。
課題三。
謝罪文を送付した後、相手から返答がない場合に取るべき行動を述べること。
私の目は、自然と課題三で止まった。
謝罪文。
私はまだ、ディオン様から受け取った封書を開けていなかった。
鞄の奥ではなく、自室の机の引き出しにしまってある。
封はしたまま。
開けるかどうかも、まだ決めていない。
けれど、日々の仕事の中で、それを忘れている時間が増えた。
それはたぶん、悪いことではない。
記録には、講習時のやりとりが残されていた。
ヴィクトル監督官。
あなたは、謝罪文を提出しましたね。
ディオン令息。
はい。
ヴィクトル監督官。
アリシア・エルヴェイン令嬢から返答はありましたか。
ディオン令息。
ありません。
ヴィクトル監督官。
返答がないことを、どう受け止めますか。
ディオン令息。
……まだ、許されていないのだと思います。
ヴィクトル監督官。
許されるまで、再度謝罪しますか。
ディオン令息。
以前の私なら、そうしたかもしれません。
そこで、一度記録が区切られていた。
私は、思わず指先で紙の端を押さえた。
以前の私なら。
ディオン様自身が、そう言っている。
彼はおそらく、以前なら何度も言葉を重ねたのだろう。
分かってほしい。
許してほしい。
自分がどれだけ反省しているか知ってほしい。
その気持ちで、相手の返答を待つのではなく、返答を取りに行ったのかもしれない。
続きを読む。
ヴィクトル監督官。
今は?
ディオン令息。
待ちます。
ヴィクトル監督官。
何を。
ディオン令息。
彼女が、読むかどうか決めることを。
ヴィクトル監督官。
返事を待つのですか。
ディオン令息。
いいえ。
ヴィクトル監督官。
では、何を待ちますか。
ディオン令息。
彼女が、私の謝罪を自分の時間で扱える状態になることを。返事がなくても、それを受け入れます。
私は、そこで綴りから目を離した。
胸の奥が、静かに痛む。
けれど、その痛みは鋭くはなかった。
ディオン様が、少しずつ変わろうとしている。
それは私にとって、喜びとも違う。
救いとも少し違う。
ただ、そうなのだと受け止める事実だった。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様の声がした。
確認室の入口に立っている。
いつからいたのかは分からない。
けれど、私がその頁で止まっていることには気づいていたようだった。
「はい」
「読めますか」
「読めています」
「痛みますか」
「少し」
「閉じますか」
「いいえ」
私は首を振った。
「最後まで読みます」
ヴィクトル様は頷いた。
ユリアが静かに席を外す。
確認室には、私とヴィクトル様だけが残った。
とはいえ、扉は開いている。
完全な二人きりではない。
そういうところまで、いつも通り整えられている。
私は、もう一度綴りへ視線を落とした。
課題三への回答。
謝罪文を提出した後、相手から返答がない場合、追加の接触は行わない。
返答がないことも、相手の意思表示の一つとして扱う。
謝罪は、相手に許しを求めるためだけではなく、自分が行ったことを記録し、今後繰り返さないための手続きである。
相手が読むかどうか、返すかどうか、許すかどうかを、謝罪した側が決めてはならない。
私は、その四行を何度か読み返した。
謝罪した側が決めてはならない。
それは当たり前のことのようで、きっと難しい。
謝る側は、返事が欲しくなる。
許されたくなる。
終わったと確認したくなる。
でも、その確認のために相手をまた呼び出せば、謝罪は別の負担になる。
「ヴィクトル様」
「はい」
「この課題は、あなたが出したのですか」
「はい」
「なぜですか」
「彼が、謝罪をした後に何をすればよいのか分からない顔をしていたからです」
「……」
「何かしなければならないと思っていた。返事を待ち、さらに手紙を送り、もう一度面会を求める。それが誠意だと考えかけていました」
「それで、この課題を」
「はい」
ヴィクトル様は、私の向かいに座った。
机の上に、今日の要綱案がある。
彼はその余白を示した。
「これも、要綱に入れるべきです」
「謝罪の扱いを?」
「はい。正式儀式の不備や不成立後、謝罪が必要になる場面は多い。ですが、謝罪を理由に相手を再び待たせたり、返答を迫ったりする例もあります」
「……ありそうですね」
「謝罪は、相手の時間をさらに奪う口実にしてはならない」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。
謝罪は必要だ。
でも、謝罪を受け取る側にも時間がある。
読むかどうか。
返すかどうか。
許すかどうか。
それを決める時間が。
「要綱に、謝罪文提出後の接触制限を入れましょう」
私は言った。
「続けてください」
「正式儀式の不備に関する謝罪は、原則として登録院または神殿を通す。受領者には返答義務がない。追加の接触は、受領者本人の同意がある場合のみ」
「はい」
「謝罪文を渡した後、返答がないことを理由に催促してはならない」
「はい」
「面会謝罪を希望する場合も、時間、目的、同席者を明確にする」
「よいですね」
ヴィクトル様は、すぐに書き込んだ。
私はその横で、自分の言葉がまた一つ手順になっていくのを見ていた。
自分の婚約式が、また別の形で要綱に反映される。
痛みはある。
でも、以前ほど苦しくはない。
なぜなら、そこには私の意思も入っているからだ。
勝手に使われているのではない。
私が、使い方を決めている。
「アリシア嬢」
「はい」
「彼の記録を読んで、どう思いましたか」
私は綴りを閉じた。
少しだけ考える。
「変わろうとしているのだと思いました」
「はい」
「でも、それを私が待つ必要はありません」
「はい」
「彼が変わることと、私が彼へ戻ることは違います」
「もちろん」
「そして、彼が謝罪したことと、私が今日開封することも違います」
「その通りです」
ヴィクトル様の返答は、いつも通り短い。
けれど、その短さが今は心地よかった。
「今日も開けません」
私は言った。
「封書を」
「はい」
「それでよいと思います」
「でも、いつかは読むかもしれません」
「それもよいと思います」
「読まないかもしれません」
「それも、よいと思います」
私は少し笑った。
「全部よいのですね」
「あなたの時間で決めるなら」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
私の時間。
何度も奪われ、見えなくなり、ようやく取り戻し始めたもの。
それを、この人はいつも私の手元に戻してくれる。
その日の午後、ディオン様本人が登録院へ来た。
再教育の続きを受けるためだ。
私は面会しない予定だった。
けれど、確認室から見える廊下を、彼が通るのが見えた。
以前のような白い礼装ではない。
濃い灰色の上着。
手には書類。
顔には疲れがある。
彼は私に気づいた。
足を止めた。
一瞬、何か言いたそうにした。
けれど、すぐに一礼だけして、廊下の先へ進んだ。
声はかけなかった。
待つことを、少し学んだ人の動きだった。
私は、その背中を見送った。
胸は痛まなかったと言えば嘘になる。
でも、追いかけたいとは思わなかった。
声をかけてほしいとも思わなかった。
ただ、彼が自分の場所へ行ったのだと思った。
そして、私も自分の場所にいる。
ユリアが、隣で小さく言った。
「よい距離でした」
「そうですね」
「記録しますか」
「しなくていいです」
「承知しました」
その返答に、私はまた少し笑った。
夕方、王妃宮へ提出する暫定要綱の追記案がまとまった。
新しい項目の題は、こうなった。
謝罪および返答待機に関する扱い。
一、正式儀式の不備または不成立後の謝罪は、原則として登録院・神殿・王妃宮などの立会機関を通して行う。
二、受領者には返答義務を負わせない。
三、謝罪文提出後、返答がないことを理由に再接触を求めてはならない。
四、面会謝罪を希望する場合、目的、時間、同席者、終了条件を事前に明記する。
五、謝罪は、許されるまで居座ることではなく、自らの行為を記録し、再発を防ぐための手続きである。
最後の一文を書いた時、私はしばらくペンを止めた。
謝罪は、許されるまで居座ることではない。
今日の題名のような言葉だと思った。
誰かが謝る。
誰かが待つ。
誰かが返す。
その全てには、境界が必要なのだ。
「この項目は、かなり使われるでしょう」
ミレーヌ女官長が言った。
「謝罪で相手を疲れさせる方は、多いですから」
「そうなのですね」
「ええ」
彼女は、少しだけ苦笑した。
「特に貴族は、面目のために謝罪したい方も多いです。相手を楽にするためではなく、自分が謝ったという形が欲しい」
「それでは、相手のためにはなりません」
「その通りです」
ミレーヌ女官長は、書面へ視線を落とす。
「この要綱は、婚約式だけでなく、王妃宮の他の儀礼にも広がるかもしれませんね」
「王妃殿下も、そうおっしゃっていました」
「ええ」
彼女は私を見た。
「あなたの痛みから始まったものが、ずいぶん広い手順になってきました」
その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。
「まだ、痛みはあります」
「でしょうね」
「でも、痛みだけではなくなりました」
「それは、よいことです」
ミレーヌ女官長の声は穏やかだった。
私は小さく頷いた。
勤務後、ヴィクトル様はいつものように馬車寄せまで送ってくれた。
今日は王妃宮でのお茶ではなく、そのまま帰ることにした。
要綱作りで頭が少し疲れていたからだ。
「アリシア嬢」
「はい」
「明日、王妃殿下へ追記案を提出します」
「はい」
「あなたの名前も起案補佐として入ります」
「……私の名前が」
「はい」
「よろしいのでしょうか」
「あなたが出した案です」
「そうですが」
「名前を伏せたいですか」
私は少し考えた。
自分の婚約式に関わる痛みから生まれた項目に、自分の名前が残る。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、もう隠れたいわけではなかった。
「いいえ」
私は答えた。
「入れてください」
「分かりました」
「ただし、私個人の事案から生まれたとは書かないでください」
「もちろんです」
「業務上の起案として」
「はい」
ヴィクトル様は、少しだけ目を細めた。
「よい判断です」
「今日は、その言葉が多いですね」
「実際に多いので」
「何がですか」
「あなたのよい判断が」
不意にそんなことを言われて、私は言葉に詰まった。
ヴィクトル様は、特に照れた様子もない。
本当に、ただ事実として言っているのだろう。
それが余計に困る。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
馬車が来た。
私は乗る前に、少しだけ立ち止まった。
「ヴィクトル様」
「はい」
「待つことにも、いろいろあるのですね」
「はい」
「私は、ずっと悪い意味の待つしか知りませんでした」
「今は?」
「少しずつ、別の意味を知っています」
私は静かに言った。
「相手の声を待つこと。距離を置いて待つこと。返事を求めずに待つこと。相手が自分で手順を使えるまで待つこと」
「はい」
「そういう待つなら、悪くないのかもしれません」
ヴィクトル様は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「よい整理です」
「また」
「本当です」
私は笑った。
「では、今日はその言葉をいただいて帰ります」
「はい」
「明日も、私の意思で出勤します」
「お待ちしています」
その「待っています」は、もう私を縛る言葉ではなかった。
私が行くと決めた場所で、誰かが私を迎えるために使う言葉。
それなら、少しだけ嬉しい。
馬車が動き出す。
窓の外で、登録院の灯りが遠ざかる。
ディオン様は、謝罪の返事を待つのではなく、私が扱える時を待つことを学び始めた。
セシリア様は、医師を呼ぶ手順を使い始めた。
そして私は、待つという言葉を少しずつ取り戻し始めている。
婚約式の日に失ったものは、戻らない。
でも、その日から始まったものは、確かにある。
私はそれを、今日も自分の手で記録した。
読んでいただきありがとうございます。
第二十一話は明日18:10に投稿予定です。
次回は、暫定要綱が初めて大きな王宮儀礼に適用される回になります。
面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。




