第十九話 不安を誰か一人に預けてはいけません
ロイス男爵家の家族面談は、王妃宮の小面談室で行われることになった。
出席者は、セシリア・ロイス令嬢、ロイス男爵、ロイス男爵夫人。
王妃宮側からは、相談役のエヴァ夫人、女性医師、ミレーヌ女官長。
王家婚姻登録院からは、ヴィクトル様とユリア書記官。
私は、同席しない。
ただし、暫定要綱の病弱者対応欄に関わるため、面談後の記録整理には加わる。
そう決まった。
それでいいと思った。
セシリア様の不安は、私が直接抱えるものではない。
けれど、その不安が誰かの婚約式や婚姻式を止める形で外へ出てくるなら、登録院は関わらなければならない。
私の役目は、そこに線を引くことだ。
彼女を裁くことではない。
面談が始まる前、私は王妃宮の記録待機室で要綱の控えを読んでいた。
昨日追加された項目。
依存関係にある支援者の扱い。
不安時の連絡手順。
支援者が待つことも支援であるという一文。
そして、今日の面談で確認される予定の項目。
家族が不安の受け皿を一人に集中させていないか。
私は、その一文に目を留めた。
不安の受け皿。
セシリア様にとって、それはずっとディオン様だった。
でも、もしかすると最初からそうだったわけではないのかもしれない。
家族が、屋敷が、周囲の大人たちが、少しずつそうしてしまったのかもしれない。
不安になればディオン様を呼ぶ。
そうすれば落ち着く。
では、それでいい。
そうやって、他の手順を作らないまま、彼一人に預けてきた。
その結果、私の婚約式の日まで、彼は呼ばれて行った。
「アリシア補佐」
ユリア書記官が、待機室へ入ってきた。
手には、ロイス男爵家から提出された過去の対応記録がある。
「面談前の資料です。読むかどうかは、お任せします」
「読みます」
「今回の資料には、セシリア様の幼少期の記録も含まれます」
「……はい」
「つらければ、途中で閉じてください」
「ありがとうございます」
私は資料を受け取った。
そこには、幼いセシリア様の体調記録が並んでいた。
五歳、長い発熱。
七歳、冬の肺炎。
九歳、王都の親族の集まりで倒れる。
十一歳、母方の葬儀で過呼吸。
十二歳、夜間の不安発作。
何度も、何度も。
読み進めるうちに、彼女が本当に病弱な少女として育ってきたことが分かった。
そのこと自体は、疑いようがない。
そして、記録の途中からディオン様の名前が出てくる。
ディオン・ハーグレイヴ令息来訪後、落ち着く。
ディオン令息同席時、食事を少量取る。
ディオン令息の手紙を読んだ後、発作軽減。
ディオン令息へ使いを出す。
ディオン令息来訪。
最初は、一つの助けだったのだろう。
幼なじみの少年が来ると、病弱な少女が少し笑う。
家族も安心する。
主治医も、本人が落ち着くなら悪くないと思ったのかもしれない。
けれど、回数を重ねるうちに、記録は変わっていく。
医師到着前にディオン令息へ使い。
夜間不安時、ディオン令息へ連絡。
主治医不在時、ディオン令息へ使い。
王宮行事中のディオン令息へ連絡。
私は、そこで資料を閉じた。
胸が重い。
セシリア様だけが悪いのではない。
けれど、彼女が何も悪くないわけでもない。
周囲が作った道を、彼女自身も選び続けた。
そして、その道の先に私の婚約式があった。
「アリシア補佐」
ユリアが静かに声をかける。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「少し顔色が」
「少しだけ、重い資料でした」
「そうですね」
ユリアは、私が閉じた資料の表紙を見た。
「依存は、一日でできるわけではありません」
「はい」
「だから、一日では解けません」
「分かっています」
「今日の面談で、すべて解決するわけではありません」
「はい」
その確認はありがたかった。
私は、つい一つの面談に意味を求めすぎることがある。
婚約不成立の日もそうだった。
あの日に全部終わったようで、実際にはそこから処理が続いた。
人の不安も、関係も、手順も、一度で整うものではないのだろう。
面談は、予定より長くかかった。
半刻の予定が、一刻近くになった。
待機室では、ユリアが別の書類を処理し、私は要綱の余白に書き込みをしていた。
家族面談後に確認すべき項目。
主治医の連絡先。
侍女長の役割。
父母の対応手順。
本人が不安を訴えた際の第一声。
してはいけない言葉。
たとえば。
またディオン様を呼びましょうか。
その一文を、私は線で消した。
そう。
これを家族が言ってはいけない。
不安になるたびに、家族が先回りしてその名前を出せば、セシリア様はいつまでもそこへ戻る。
必要なのは、新しい第一声だ。
私は少し考え、別の文を書いた。
医師を呼びましょう。
手順紙を見ましょう。
今、誰に知らせるか一緒に確認しましょう。
書き終えたところで、面談室の扉が開いた。
先に出てきたのは、ヴィクトル様だった。
表情は静かだが、やはり少し疲れている。
続いて、エヴァ夫人、ミレーヌ女官長、女性医師。
最後に、ロイス男爵夫妻とセシリア様が、別の扉から退出したようだった。
私とは顔を合わせない導線になっている。
それも、事前に決められていたことだった。
「終わりましたか」
私が尋ねると、ヴィクトル様は頷いた。
「はい」
「どうでしたか」
「家族全員が、自分たちの対応を見直す必要があります」
その言葉で、かなり重い面談だったのだと分かった。
エヴァ夫人が椅子に座り、記録を広げる。
「共有します」
私とユリアは、すぐにペンを取った。
「まず、ロイス男爵夫妻は、セシリア様の不安時にディオン令息を呼ぶことを、長く有効な対処として扱っていました」
「はい」
「理由は、実際に落ち着いたからです」
「はい」
「ただし、その結果、医師や侍女長への連絡が後回しになる事例が増えていました」
私は、先ほど読んだ記録を思い出した。
「ご家族は、その自覚を?」
「薄かったようです」
エヴァ夫人は、少しだけ疲れた声で言った。
「男爵夫人は、娘が落ち着くならそれでよいと考えていました。男爵は、妻と娘がそう望むなら、と止めていなかった」
「つまり、誰も止める役を持っていなかったのですね」
「その通りです」
ミレーヌ女官長が言った。
「家の中で、不安時の責任者が決まっていませんでした」
「責任者」
「はい」
「侍女長では?」
「本来なら侍女長か主治医です。けれど、ロイス家では、セシリア様がディオン様の名を出すと、すぐ使いを出していました」
「侍女長が止めなかったのですか」
「止める権限が与えられていませんでした」
私は、手元の紙に書いた。
家内責任者。
制止権限。
たぶん、これも要綱に必要だ。
病弱な令嬢への対応で、誰が最初に判断するのか。
本人が特定の相手を呼びたいと言った時、誰が医師へ戻すのか。
それが決まっていなければ、また同じ道を通る。
「セシリア様ご本人は」
私は静かに尋ねた。
「どうされましたか」
「最初は、かなり泣かれました」
エヴァ夫人が答える。
「自分が迷惑をかけていたことは分かっている。けれど、ディオン様を呼ばないと、本当に誰も来てくれない気がすると」
「……」
「そこで、男爵夫妻に確認しました。娘が不安になった時、あなた方は何をしていましたか、と」
「はい」
「夫人は、ディオン様を呼んでいた、と答えました」
エヴァ夫人は一度言葉を切る。
「つまり、母親自身がそばにいるより先に、ディオン令息を呼ぶことが多かったのです」
私は、胸の奥が重くなるのを感じた。
誰も来てくれない気がする。
その不安は、もしかすると本当に家の中で育ってしまったものだったのかもしれない。
セシリア様が不安になる。
母は、ディオン様を呼ぶ。
父は、それを認める。
侍女長は、止める権限がない。
医師は、後から来る。
そんなことを繰り返せば、彼女は思ってしまうだろう。
自分を落ち着かせる役目は、ディオン様にしかできないのだと。
「男爵夫人は、そのことに気づかれましたか」
「はい」
エヴァ夫人は頷いた。
「非常に動揺されました。ですが、最後には認めました」
「何を?」
「自分は娘を助けているつもりで、娘の不安をディオン令息へ預けていたのだ、と」
部屋が静かになる。
不安を預ける。
それは、今日の要綱に必要な言葉だと思った。
「男爵は?」
「家の責任者として、今後の手順を文書化することを受け入れました」
ヴィクトル様が一枚の紙を出す。
「ロイス家内対応手順の草案です」
そこには、次のように書かれていた。
一、セシリア・ロイスが不安または息苦しさを訴えた場合、最初に侍女長へ伝える。
二、侍女長は手順紙を確認し、主治医または王妃宮指定医師へ連絡する。
三、ロイス男爵夫人は、娘のそばにいることはできるが、医師の到着前にディオン・ハーグレイヴへ使いを出さない。
四、ロイス男爵は、家内対応責任者として、私的呼び出しを制止する権限を侍女長へ明示する。
五、正式儀式、公的予定、婚約・婚姻に関わる人物を、私的安心のために呼び出さない。
私は、その三番目の文をしばらく見つめた。
夫人は、娘のそばにいることはできる。
でも、ディオン様へ使いを出さない。
単純だ。
けれど、きっと難しい。
不安がる娘を見て、これまで効果があった手段を使わない。
その代わり、自分がそばにいて、医師を呼ぶ。
その役目を、母親自身が引き受ける。
それは、ロイス家にとって大きな変更だろう。
「セシリア様は、この手順を受け入れましたか」
「はい」
エヴァ夫人は答えた。
「ただし、すぐには難しいとも言っています」
「そうでしょうね」
「なので、最初の一月は王妃宮相談役が週に二度訪問します」
「はい」
「主治医も、夜間連絡の体制を整えるそうです」
「ディオン様は」
「この手順の外に置かれます」
ヴィクトル様が答えた。
「少なくとも三月は、セシリア令嬢からの私的呼び出しを受けない。ロイス家からも出さない」
「三月」
「はい」
「その間に、別の手順を定着させるのですね」
「そうです」
私は、手元の要綱案に書き込んだ。
特定個人への依存がある場合、一定期間、その個人を第一連絡先から外す。
代替支援線が定着するまで、家内責任者・侍女長・医師・相談役で対応する。
家族は、不安を外部の一個人へ預けない。
書きながら、少しだけ胸が痛んだ。
もし、もっと早くこれがあったなら。
そう思わないわけではない。
でも、過去へは戻れない。
作れるのは、次の手順だけだ。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が、静かに声をかけた。
「はい」
「今、何を考えましたか」
私は少しだけ目を伏せた。
この人は、こういう時だけ妙に鋭い。
「もっと早くこういう手順があれば、と思いました」
「はい」
「でも、私の過去には間に合いません」
「はい」
「だから、次に間に合えばいいのだと思うことにします」
ヴィクトル様は、少しだけ目を細めた。
「それは、よい整理です」
「本当ですか」
「はい」
「今日は、少し無理に整理しています」
「そうでしょうね」
「否定しないのですね」
「無理に否定すると、あなたは無理を隠します」
その返答に、私は少しだけ笑ってしまった。
「確かに」
エヴァ夫人も、少しだけ表情を緩めた。
「アリシア様。あなたがこの件を直接抱えすぎる必要はありません」
「分かっています」
「今日の家族面談は、ロイス家の問題です」
「はい」
「あなたは、その結果を要綱へ反映する。それで十分です」
「はい」
私は、もう一度頷いた。
そう。
これは私の問題ではない。
私の過去に関わるが、私が解決すべき問題ではない。
ロイス家が、自分たちの家の中で抱えるべき問題だ。
その後、私たちは要綱に新しい小項目を追加した。
家族による不安対応。
一、病弱者・不安傾向のある者について、家内対応責任者を定める。
二、侍女長または介助責任者に、私的呼び出しを制止する権限を明示する。
三、家族は本人の不安を、外部の一個人へ預けない。
四、効果があるように見える対応であっても、正式な医療・相談手順を妨げる場合は見直す。
五、本人が「誰も来てくれない」と感じる場合、家族自身がまずそばにいること。その上で医師または相談役へつなぐ。
五番目を書いた時、少しだけ手が止まった。
家族自身がまずそばにいること。
それは、とても当たり前のことに見える。
けれど、ロイス家ではそれが抜け落ちていた。
そして、抜け落ちた場所にディオン様が入った。
その結果、別の婚約式が壊れた。
「当たり前のことほど、書いた方がよいのですね」
私が言うと、ユリアが頷いた。
「当たり前だと思って書かないことが、だいたい事故になります」
「重い言葉ですね」
「経験則です」
「登録院らしいです」
「ありがとうございます」
ユリアは無表情のまま答えた。
私は少し笑った。
夕方、ロイス男爵家から、面談受諾書が届いた。
男爵本人の署名。
男爵夫人の署名。
セシリア様の署名。
そして、侍女長と主治医の確認印。
家の中で、初めて手順が文書になった。
これで全部が解決するわけではない。
でも、一つ目の足場はできた。
「セシリア様は、最後に何かおっしゃっていましたか」
私はエヴァ夫人に尋ねた。
夫人は記録をめくり、少しだけ微笑む。
「こう言っていました」
彼女は読み上げた。
「ディオン様を呼ばない夜は、怖いと思います。でも、母がいて、医師が来てくれるなら、一度やってみます」
私は、静かに息を吐いた。
一度やってみます。
それで十分だと思った。
人は、一度で変われない。
でも、一度やってみることはできる。
勤務が終わる頃、私は要綱の控えを閉じた。
今日は少し疲れた。
セシリア様本人とは会っていない。
ディオン様とも会っていない。
それでも、彼らの問題に触れた一日だった。
けれど、以前ほど心は乱れていなかった。
ヴィクトル様が、確認室の出口で待っていた。
「今日は、馬車寄せまで」
「お願いします」
「お茶は」
「今日は、帰ります」
「分かりました」
「でも」
私は少しだけ考えた。
「次の休務日に、もしお時間が合えば、お茶をいただきたいです」
言ってから、少し緊張した。
仕事の後ではなく、休務日。
それは、前より少しだけ私的な時間に近い。
ヴィクトル様は、すぐには答えなかった。
けれど、その沈黙は拒絶ではなく、予定を確かめるためのものに見えた。
「確認します」
「はい」
「休務日の予定を、勝手に押さえることはしません」
「知っています」
「候補日を三つ出します」
「仕事みたいですね」
「仕事ではありません」
「では、なぜ候補日を三つ」
「あなたが選べるように」
その返答に、胸の奥が温かくなった。
「では、お待ちしています」
「はい」
「私の意思で選びます」
「もちろん」
馬車寄せに着く頃、夕方の空は淡い桃色だった。
私は馬車へ乗る前に、ヴィクトル様へ向き直る。
「今日、少し分かりました」
「何を」
「不安を誰か一人に預けると、その人も、周りの人も、少しずつ壊れるのですね」
「はい」
「だから、手順に分ける」
「はい」
「家族、医師、相談役、本人。全部を一人にしない」
「その通りです」
ヴィクトル様は頷いた。
「あなたも同じです」
「私も?」
「あなたの痛みも、あなた一人で持たなくていい」
胸の奥が、不意に揺れた。
私はすぐには返事ができなかった。
ヴィクトル様は、静かに続ける。
「登録院には、記録があります。王妃宮には、相談役がいます。あなたの家には、ご両親がいます」
「はい」
「そして、必要なら、私も聞きます」
夕方の音が、遠くなるような気がした。
その言葉は、押しつけではなかった。
助けると言い切るのでもない。
ただ、必要なら聞く。
その距離が、とてもヴィクトル様らしかった。
「ありがとうございます」
「はい」
「では、必要な時は、候補日を三つ出します」
そう言うと、ヴィクトル様が一瞬だけ目を瞬いた。
そして、ほんの少し笑った。
「承知しました」
馬車が動き出す。
窓の外で、王家婚姻登録院の建物が遠ざかる。
今日、ロイス家では不安を一人に預けない手順ができた。
セシリア様は、ディオン様を呼ばない夜を一度やってみると言った。
私もまた、自分の痛みを一人で抱えない方法を、少しずつ覚えていくのかもしれない。
不安を誰か一人に預けてはいけない。
その言葉は、セシリア様だけではなく、私自身にも必要なものだった。
読んでいただきありがとうございます。
第二十話は明日18:10に投稿予定です。
次回は、ディオン側が「待つこと」と向き合う回になります。
面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。




