第十八話 今度は、あなたが待つ番です
セシリア様との面談から二日後、王妃宮相談役のエヴァ夫人から追加の報告が届いた。
青い札がついている。
緊急ではない。
けれど、慎重に扱うべき案件。
私はその札を見るだけで、もう少しだけ胸の奥が静かに構えるようになっていた。
「アリシア補佐」
ユリア書記官が、いつもの落ち着いた声で言った。
「今回も、あなたが必ず読む必要はありません」
「内容は、セシリア様の件ですか」
「はい」
ユリアは書面を一枚、机の上へ置いた。
「王妃宮相談役より、セシリア・ロイス令嬢とディオン・ハーグレイヴ令息の境界確認面談について、登録院にも同席依頼が来ています」
「境界確認面談」
「はい」
その言葉は、少し硬い。
けれど、何をするのかは分かった。
セシリア様は、不安になるとディオン様を呼んでいた。
ディオン様は、呼ばれれば行っていた。
それが二人の間で当然になっていた。
その当然を、終わらせるための面談なのだろう。
「私も同席対象ですか」
「王妃宮相談役からは、あなたへの同席依頼は出ていません」
「では、なぜ私に共有を?」
「暫定要綱の病弱者対応欄、依存関係がある支援者の扱いに関わるためです」
「なるほど」
私は書面へ視線を落とした。
依存関係がある支援者。
それは、かなり正確な言葉だった。
ディオン様は医師ではない。
神官でもない。
相談役でもない。
けれど、セシリア様にとっては、不安を落ち着かせるための特別な相手だった。
そして、その特別さが、私の婚約式を壊した。
「ヴィクトル様は」
「王妃宮で内容を確認中です」
「私の同席については?」
「必要なら、ご本人に確認すると」
「そうですか」
私は書面を開いた。
そこには、王妃宮相談役エヴァ夫人の整った筆跡で、面談の目的が記されていた。
目的。
一、セシリア・ロイス令嬢が不安時に医師・侍女長・相談役へ連絡する手順を確認する。
二、ディオン・ハーグレイヴ令息が、私的呼び出しに応じないことを本人の前で明言する。
三、両名が、今後正式儀式や公的予定を中断させないための連絡線を確認する。
四、謝罪や許しの場ではなく、再発防止の場とする。
私は四番目の文を、少し長く見つめた。
謝罪や許しの場ではなく、再発防止の場。
それなら、私がいる必要はない。
少なくとも、中心に立つ必要はない。
私がいると、どうしても謝罪の色が濃くなる。
セシリア様も、ディオン様も、私へ何かを言いたくなるかもしれない。
それでは、面談の目的がずれる。
「ユリアさん」
「はい」
「私は同席しなくてよいと思います」
「理由は」
「私がいると、二人が私へ向いてしまうかもしれません」
「はい」
「今回、向き合うべきなのは、私ではなく、二人の間の手順です」
ユリアは、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「よい判断だと思います」
「ただし、要綱に関わるので、面談結果は読みます」
「その形がよいでしょう」
私が返事を決めたところで、確認室の扉が開いた。
ヴィクトル様だった。
手には、王妃宮からの正式依頼書がある。
「アリシア嬢」
「はい」
「境界確認面談について、あなたの同席は求めません」
私は少しだけ息を吐いた。
「今、同じ判断をしたところです」
「理由は」
「私がいると、再発防止の面談ではなく、私への謝罪の場になりかねないからです」
「一致しましたね」
ヴィクトル様は、短く頷いた。
「ただし、面談後の要綱反映には加わっていただきます」
「承知しました」
「面談中、必要があれば別室で待機することは可能です。途中であなたに確認すべき事態になった場合のみ、同意を取ってから呼びます」
「分かりました」
「無理は」
「しません」
私が先に言うと、ヴィクトル様はほんの少しだけ目を細めた。
「よい返答です」
「最近、先に言えるようになりました」
「進歩です」
その短い評価に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
同時に、私は自分の中の緊張が、以前ほど大きくないことにも気づいた。
セシリア様とディオン様が会う。
かつてなら、それだけで心がざわついたかもしれない。
今は、少し違う。
気にはなる。
けれど、私はそこに何かを期待していない。
謝ってほしいとも、後悔してほしいとも、やり直してほしいとも思っていない。
それは、もう私の予定ではなかった。
面談は、王妃宮の小面談室で行われた。
私はその隣の記録待機室にいた。
同席者ではない。
面談後の要綱反映を行う登録院補佐として、結果を待つ立場だった。
部屋には、ユリア書記官と私だけ。
壁の向こうの声は聞こえない。
聞こえないように厚い壁になっている。
それも、必要な配慮なのだろう。
誰かの弱さを、必要以上に周囲へ漏らさないために。
「気になりますか」
ユリアが尋ねた。
彼女は面談記録用の控え紙を揃えている。
「気にはなります」
「心配ですか」
「少し」
「どちらを?」
私は、少しだけ考えた。
「面談そのものを、です」
「二人ではなく?」
「二人も、全く気にならないわけではありません」
私は正直に答えた。
「でも、私が心配する立場ではないのだと思います」
「そうですね」
「ディオン様がどう答えるかも、セシリア様がどう受け止めるかも、二人と相談役の方々の仕事です」
「はい」
「私は、その結果を要綱に反映する」
「その通りです」
ユリアは、淡々と頷いた。
彼女のこういうところも、私は少しずつ好きになってきている。
気持ちを否定しない。
けれど、仕事の位置へ戻してくれる。
待機室の机には、昨日まで作っていた暫定要綱の控えが置かれていた。
病弱者への配慮。
不安時の連絡手順。
正式儀式の誓約者本人を私的安心のために呼び出さないこと。
その下に、まだ空欄がある。
依存関係にある支援者との境界。
そこへ、今日の結果が入るのだろう。
「ユリアさん」
「はい」
「支援者とは、難しいですね」
「そうですね」
「助けているつもりで、本人が別の手順を使えなくなることがある」
「あります」
「ディオン様は、セシリア様にとって支援者だったのでしょうか」
「少なくとも、ご本人たちはそう思っていたのでしょう」
ユリアは言った。
「ですが、支援者としての役目を持つなら、支援しない選択も必要です」
「支援しない選択」
「はい」
彼女は資料を一枚見た。
「専門職は、依存を深める対応を避けます。王妃宮相談役の資料にありました」
「専門職」
「ディオン様は専門職ではありませんが、セシリア様にとっては支援者の位置に置かれていた。ならば、彼が何をしないかを決める必要があります」
何をするかではなく、何をしないか。
それは、今のディオン様にとって一番難しいことかもしれない。
困っている人のもとへ行く。
泣いている人を慰める。
苦しそうな人を抱きしめる。
それは、見た目には優しい。
けれど、その結果、相手が医師を呼べなくなるなら。
それはもう、支援ではないのだろう。
面談は、予定の半刻を少し過ぎたところで終わった。
まず、ヴィクトル様が待機室へ来た。
彼の顔はいつも通り静かだったが、少しだけ疲れて見えた。
「終わりましたか」
「はい」
「大丈夫でしたか」
「大きな混乱はありません」
その言い方で、まったく穏やかではなかったのだと分かった。
「記録を共有します」
「はい」
少しして、王妃宮相談役エヴァ夫人が入ってきた。
彼女もまた、疲れた顔をしていた。
けれど、表情には安堵があった。
「アリシア様、同席しない判断をしてくださって助かりました」
「やはり、私がいない方がよかったですか」
「はい」
エヴァ夫人は、はっきり答えた。
「セシリア様は、あなたがいないことで、謝罪ではなく自分の不安について話せました」
「そうですか」
「ディオン様も、あなたの前ではなく、セシリア様の前で境界を言うことができました」
私は、静かに頷いた。
「それが必要だったのですね」
「必要でした」
エヴァ夫人は記録紙を広げる。
「要綱へ反映すべき点を共有します」
私とユリアは、それぞれペンを取った。
「まず、セシリア様は不安時に『誰かが来てくれなければ見捨てられる』と感じる傾向が強い」
エヴァ夫人が言う。
「そのため、呼び出しに即応することは、一時的には安心を与えますが、長期的には依存を強めます」
「はい」
「次に、ディオン様は、呼ばれたら行くことを優しさだと認識していました」
「はい」
「今回の面談で、彼は『今後、医師や侍女長への連絡前に自分が呼ばれても行かない』と明言しました」
私は、ペンを止めた。
行かない。
その一言は、彼にとって重かったはずだ。
「セシリア様は、どう受け止めましたか」
思わず尋ねていた。
エヴァ夫人は、少しだけ目を伏せる。
「泣かれました」
「……そうですか」
「ただし、泣いた後で、ご自分で手順紙を出しました」
「手順紙を」
「はい。前回決めたものです」
エヴァ夫人の声が、少しだけやわらぐ。
「息苦しくなったら侍女長へ伝える。侍女長は医師へ連絡する。正式儀式や公的予定に関わる相手を私的に呼び出さない。その紙です」
「それを、セシリア様が自分で?」
「はい」
私は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
それは、許しとは違う。
でも、前へ進んだことへの反応だった。
「ディオン様は?」
「席を立ちかけました」
エヴァ夫人は正直に言った。
「けれど、途中で止まりました」
ヴィクトル様が、そこで静かに口を開いた。
「彼には、席を立つ前に確認するよう伝えていました」
「確認」
「はい。自分が立つことで、セシリア令嬢が医師や相談役へ向かう手順を妨げないか」
「それで、止まったのですね」
「はい」
私は想像した。
泣いているセシリア様。
立ちかけるディオン様。
でも、そこで止まる。
行かない。
代わりに、彼女が手順紙を使うのを待つ。
それはきっと、彼にとって初めての待つ時間だったのだろう。
「彼は、何と?」
私が尋ねると、エヴァ夫人は記録を確認した。
「セシリア様へ、こう言いました」
彼女は読み上げる。
「私は、あなたを見捨てるために行かないのではありません。私が行くことで、あなたが医師を呼べなくなるなら、私は待ちます。あなたが手順を使えるようになるのを、待ちます」
部屋が静かになった。
私は、しばらく何も言えなかった。
ディオン様が待つ。
あの人が。
呼ばれたらすぐに行っていた人が。
誰かを待たせることに慣れきっていた人が。
今度は、自分が待つ側に立った。
「セシリア様は」
私はやっと訊いた。
「その言葉を聞いて、どうされましたか」
「泣きながら、侍女長を呼びました」
エヴァ夫人は答えた。
「そして、医師をお願いします、と言えました」
その報告を聞いた瞬間、胸の奥にあった何かが、少しだけほどけた気がした。
私の婚約式は戻らない。
それは変わらない。
でも、あの日の出来事がなければ、この二人はずっと同じことを繰り返していたのかもしれない。
誰かを待たせながら。
誰かの時間を使いながら。
「要綱には」
私はペンを取り直した。
「依存関係にある支援者は、本人の医療・相談手順を妨げない位置に置く、と入れた方がよいと思います」
「続けてください」
ヴィクトル様が言う。
「支援者が即時対応することを原則にしない。まず医師、侍女長、相談役、神官など、正式な支援線へつなぐ」
「はい」
「支援者本人には『行くこと』だけでなく『行かずに待つこと』も支援であると説明する」
「よいですね」
ユリアが記録する。
私はさらに言葉を探した。
「それから、本人に手順紙を持たせること。声が出ない時は、その紙を示せばよいと明記する」
「前回の面談内容ですね」
「はい」
「加えましょう」
ミレーヌ女官長も、ちょうど部屋へ戻ってきた。
彼女は話を聞きながら頷く。
「王妃宮でも使える形です。病弱な令嬢に限らず、不安発作や強い緊張のある方にも」
「はい」
エヴァ夫人は、少しだけ微笑んだ。
「今日、セシリア様は初めて、ディオン様以外を呼べました」
その言葉は、私の中に静かに落ちた。
初めて。
それは小さな一歩だ。
でも、大きな一歩でもある。
「ディオン様は」
私は尋ねた。
「面談後、どうされましたか」
「王妃宮相談役の指示で、別室へ移りました。セシリア様とは、しばらく私的面会を行いません」
「彼は納得を?」
「苦しそうでしたが、納得していました」
「そうですか」
私は少しだけ目を伏せた。
苦しいだろう。
でも、必要だ。
優しさの向け先を変えるのは、きっと簡単ではない。
呼ばれて行かないことは、彼にとって冷たい行為に感じるかもしれない。
けれど、それをしなければ、セシリア様も彼も変われない。
その日の午後、私たちは暫定要綱に新しい項目を追加した。
依存関係にある支援者の扱い。
一、支援者は、本人の医療・相談手順を妨げない位置に置く。
二、不安時の第一連絡先は、医師、侍女長、相談役、神官など正式支援者とする。
三、支援者には、即時に駆けつけることだけが支援ではないと説明する。
四、本人が正式支援線を使えるようになるまで、支援者は待つことも支援である。
五、正式儀式または公的予定の誓約者・当事者を、私的安心のために呼び出さない。
私は四番目の一文を、何度も見た。
支援者は待つことも支援である。
待つ。
その言葉は、私にとってずっと痛いものだった。
でも、今は少し違う意味を持ち始めている。
待つことが悪いのではない。
誰が、誰のために、どのような形で待つのか。
それが大切なのだ。
勤務の終わり頃、ヴィクトル様が確認室の窓際で声をかけてきた。
「アリシア嬢」
「はい」
「今日の所感は」
「ディオン様が、初めて待ったのだと思いました」
「はい」
「今までは、私が待っていました」
「はい」
「でも今日、彼はセシリア様が手順を使えるようになるまで待った」
「そうですね」
「それは、少しだけよかったと思います」
ヴィクトル様は、静かに私を見ていた。
「あなたがそう思えるなら、今日の面談には意味がありました」
「許したわけではありません」
「はい」
「戻りたいわけでもありません」
「もちろん」
「ただ、変わろうとしている人を、見てもいいとは思いました」
ヴィクトル様の目が、少しやわらいだ。
「十分です」
「十分でしょうか」
「はい」
彼は短く答えた。
「あなたが彼らを待つ必要はありません。けれど、彼らが変わろうとしている事実を、記録として見てもいい」
記録として。
それが、この人らしい言い方だった。
私は少しだけ笑う。
「やはり、何でも記録にしますね」
「記録は便利です」
「最近、少し分かってきました」
「よいことです」
夕方の光が、確認室の床に長く伸びている。
私は机の上の要綱を閉じた。
その中には、今日の面談から生まれた一文が入っている。
支援者は待つことも支援である。
「ヴィクトル様」
「はい」
「今日は、お茶をいただいてもよろしいでしょうか」
彼は少しだけ目を瞬いた。
それから、ほんのわずかに笑った。
「もちろん」
「今日は、甘すぎないお菓子がいいです」
「承知しました」
「仕事の話は」
「半分以下」
「はい」
「努力します」
そのやりとりに、私は笑った。
今日は、疲れている。
けれど、お茶を断りたい疲れではない。
温かい茶を飲みながら、今日のことを少しだけ静かに置きたい。
そう思った。
王妃宮の小庭には、淡い夕風が吹いていた。
茶卓には、甘さ控えめの焼き菓子が並んでいる。
本当にそうしてくれたのだと思うと、胸が温かくなった。
「アリシア嬢」
「はい」
「今日は、よく待ちました」
ヴィクトル様が言った。
私は少しだけ首を傾げる。
「私が?」
「はい」
「面談には同席していません」
「だからです」
彼は茶器を置いた。
「あなたは、彼らの面談を自分で見に行かず、結果を待ちました。必要な距離で」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
必要な距離で待つ。
そういう待ち方もあるのだ。
「それは、悪くない待ち方ですね」
「はい」
「では、今日は私も少し待てたのですね」
「ええ」
ヴィクトル様は、穏やかに頷いた。
「よい待ち方でした」
私は、少しだけ目を伏せた。
待つという言葉が、また少し変わっていく。
誰かに当然のように待たされるものではなく。
自分で選び、距離を決め、相手の領分を尊重するための時間。
それなら、私はこれからも使っていけるかもしれない。
茶は、温かかった。
菓子は、本当に甘すぎなかった。
私はそのことが少し嬉しくて、ヴィクトル様へ言った。
「今日のお菓子は、ちょうどよいです」
「よかった」
「誰に聞きましたか」
「今日は、自分で選びました」
思わず顔を上げた。
ヴィクトル様は、少しだけ真面目な顔で続ける。
「あなたが、前回は少し甘いと言っていたので」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
覚えていたのだ。
私の言葉を。
それも、困る程度ではなく、ちょうどよい程度に。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
夕方の小庭に、しばらく静かな時間が流れた。
それは、待たされる時間ではなかった。
誰かに奪われる時間でもなかった。
私が選んで、ここに置いた時間だった。
読んでいただきありがとうございます。
第十九話は明日18:10に投稿予定です。
次回は、ロイス男爵家側の家族面談と、セシリアの不安の根にもう少し踏み込みます。
面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。




