第十七話 セシリア様、医師を呼ぶことは恥ではありません
暫定要綱が試用され始めて三日目、王妃宮から王家婚姻登録院へ新しい連絡が届いた。
赤札ではない。
けれど、青い注意札がついていた。
青い札は、緊急ではないが慎重な扱いが必要な案件に付けられる。
差出人は、王妃宮相談役。
件名は、セシリア・ロイス男爵令嬢の面談について。
その名を見た瞬間、私は少しだけ指を止めた。
セシリア様。
ディオン様の病弱な幼なじみ。
私の婚約式当日に、彼を呼び出した人。
白いショールをまとい、泣きそうな顔で神殿へ来た人。
彼女のことを、もう考えていないわけではなかった。
ただ、私の仕事の中心からは外れていた。
彼女の不安と療養については、王妃宮相談役とロイス男爵家、主治医が扱うことになっていたからだ。
「アリシア補佐」
ユリア書記官が、私の様子を見て言った。
「無理に読む必要はありません」
「業務上、私に関わるものですか」
「直接の担当ではありません」
「では、なぜこちらに?」
「暫定要綱の『病弱者への配慮』に関わる参考案件として、共有されています」
私は少しだけ息を整えた。
参考案件。
その言葉は、便利で、同時に少し怖い。
私の婚約式も、今では要綱作成の参考になっている。
痛みが記録になり、手順になる。
それは救いでもある。
でも、時々、自分の傷をもう一度紙の上で見るような気持ちにもなる。
「読みます」
私は言った。
「ただし、私が担当するかは、内容を見てから決めます」
「承知しました」
ユリアが書類を渡す。
最初の一枚には、王妃宮相談役による報告が記されていた。
セシリア・ロイス令嬢は、正式儀式当日の私的呼び出し禁止を理解した。
ただし、不安発作時に医師を呼ぶことへ強い抵抗がある。
理由は「また弱いと思われる」「病人扱いされる」「医師を呼べば大事になる」という恐怖。
その結果、医師よりも、個人的に安心できる相手へ連絡したい衝動が残っている。
今後の正式儀式妨害を防ぐためにも、不安時の連絡手順を本人が受け入れられる形に整える必要がある。
私は、書面から目を離した。
医師を呼ぶことへの抵抗。
弱いと思われることへの恐怖。
それは、少し分かる気がした。
私は病弱ではない。
けれど、弱っていると見られることを恐れた経験ならある。
婚約式のあとも、私は泣かなかった。
泣けば、捨てられた令嬢として見られる気がしたから。
助けを求めれば、気の毒な人にされる気がしたから。
だから私は、手続きにすがった。
セシリア様は、手続きではなくディオン様にすがった。
その違いは大きい。
でも、弱いと思われたくないという恐怖だけなら、完全に理解できないわけではなかった。
「ヴィクトル様は」
「王妃宮で、すでに相談役から直接説明を受けています」
「私を呼ぶようにと?」
「いいえ」
ユリアは首を振った。
「むしろ、あなたを直接関わらせるかどうかは慎重に判断するように、と」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなる。
私の経験を使えるからといって、すぐに私を呼び出すのではない。
その線引きが、今はありがたかった。
そこへ、確認室の扉が開いた。
ヴィクトル様が入ってくる。
今日の上着は、少し濃い灰青色だった。
王妃宮から戻ったばかりなのか、手には封をされた追加書類がある。
「アリシア嬢」
「はい」
「セシリア・ロイス令嬢の件は読みましたか」
「途中まで」
「担当は強制しません」
「はい」
「ただ、本人があなたとの面談を希望しています」
私は、思わず顔を上げた。
「私と、ですか」
「はい」
「なぜでしょう」
「自分が何を奪ったのか、本人の前で聞きたいと」
部屋が静かになった。
ユリアも、ミレーヌ女官長も、何も言わない。
その沈黙の中で、私は自分の胸の奥を確かめた。
嫌だ。
最初に浮かんだのは、それだった。
会いたくない。
謝罪も、後悔も、反省も、私の目の前でされなくてもいい。
私の婚約式は戻らない。
私の時間も戻らない。
だから、彼女が自分の罪悪感を軽くするために私を呼ぶのなら、会う必要はない。
けれど、その次に、別の感情が来た。
もし彼女が、医師を呼ぶことを恥だと思っているなら。
もし、誰か個人にすがる形でしか不安を扱えないのなら。
それは今後も、別の誰かの時間を奪うかもしれない。
その時、私はただ拒むだけでいいのか。
いいえ。
私が全て背負う必要はない。
でも、会うかどうかは私が決められる。
「面談の目的を、書面で確認できますか」
私は言った。
ヴィクトル様が、すぐに頷く。
「できます」
「謝罪だけなら、受けません」
「分かりました」
「私に許してほしいという話なら、受けません」
「それも伝えます」
「医師や相談役ではなく、なぜディオン様を呼びたくなるのか。その手順を変えるための面談なら、考えます」
ヴィクトル様の目が、少しだけやわらいだ。
「よい線引きです」
「まだ受けるとは言っていません」
「はい」
「それから、面談する場合は、王妃宮相談役、女性医師、ミレーヌ女官長、ヴィクトル様、または登録院職員の同席を」
「当然です」
「二人きりでは会いません」
「当然です」
「時間は半刻まで」
「はい」
「途中で私が終了を求めた場合、理由を問わず終了してください」
「認めます」
私は、そこでようやく少し息を吐いた。
条件が並ぶと、不思議と怖さが形を持つ。
形を持てば、扱える。
「では、面談を受けます」
「本当に?」
ヴィクトル様が、めずらしく確認を重ねた。
「はい」
「あなたの傷を、彼女のための教材にはしません」
「分かっています」
「彼女が泣いても、あなたが慰める義務はありません」
「はい」
「彼女が謝っても、許す義務はありません」
「はい」
「あなたが席を立ちたいと思った時点で終わります」
「はい」
ひとつずつ確認されるたびに、胸の奥が少しずつ落ち着いていく。
私は頷いた。
「それなら、会えます」
「分かりました」
ヴィクトル様は、すぐにミレーヌ女官長へ視線を向けた。
「王妃宮相談役へ条件を伝えてください」
「承知しました」
「面談は本日ではなく、明日午後」
私は少し驚いた。
「今日ではないのですか」
「あなたにも、セシリア令嬢にも、準備時間が必要です」
「……そうですね」
「急がないことも、手順です」
その言い方に、私は少しだけ笑った。
「また手順ですね」
「手順です」
「でも、今日は助かります」
「それはよかった」
面談は、翌日午後に決まった。
翌日。
王妃宮の小さな面談室には、柔らかな陽が差していた。
部屋には、私、ミレーヌ女官長、王妃宮相談役のエヴァ夫人、王妃宮の女性医師、そしてヴィクトル様がいた。
ヴィクトル様は、少し離れた位置に座っている。
監督官として。
そして、私が上申できる相手として。
その距離がありがたかった。
セシリア様は、少し遅れて入ってきた。
白いショールではなく、淡い若草色の上着を羽織っている。
顔色はまだ薄い。
けれど、神殿で見た時のように、今にも崩れそうな様子ではなかった。
彼女は部屋へ入ると、まず私を見た。
その目に、すぐ涙が浮かぶ。
「アリシア様」
私は、先に言った。
「本日の面談は、謝罪を受けるためではありません」
セシリア様の足が止まる。
「はい」
「私に許しを求めるためでもありません」
「……はい」
「あなたが不安になった時、ディオン様ではなく医師や正式な連絡先を使えるようにするための確認です」
セシリア様は、両手を胸元で握りしめた。
それから、小さく頷いた。
「分かっています」
彼女は椅子に座った。
エヴァ夫人が穏やかに面談を始める。
「セシリア様。昨日の確認を、もう一度ご自分の言葉で話せますか」
「はい」
「あなたは、不安になった時、なぜ医師ではなくディオン様を呼びたくなるのでしょう」
セシリア様は、しばらく黙った。
その沈黙は長かった。
けれど、誰も急かさない。
私は、その待つ時間の意味を考えていた。
これは、私が彼女に奪われてきた待ち時間とは違う。
彼女自身が、自分の不安に名前をつけるための時間だ。
「医師を呼ぶと」
セシリア様は、ようやく話し始めた。
「本当に病人になってしまう気がします」
女性医師が、静かに聞いている。
「家の者が慌てて、薬を用意して、父が心配して、侍女たちが走って……そうなると、私がまた迷惑をかけていると思ってしまいます」
「はい」
「でも、ディオン様を呼ぶと」
彼女は目を伏せた。
「私だけを見てくださる気がしました」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
その言葉は、ひどく正直だった。
「医師を呼ぶのは迷惑で、ディオン様を呼ぶのは迷惑ではないと思っていたのですか」
エヴァ夫人が尋ねる。
「……はい」
「なぜでしょう」
「ディオン様は、いつも来てくださったから」
セシリア様の声が細くなる。
「怒らなかったから。大丈夫だと言ってくださったから。私を弱いだけの病人として見ないでくださったから」
彼女の目から涙が落ちた。
「でも、それでアリシア様が待たされていることを、見ていませんでした」
私は何も言わなかった。
言えば、責める言葉になりそうだったから。
代わりに、エヴァ夫人が続ける。
「医師を呼ぶことは、迷惑ではありません」
その声は優しかった。
でも、曖昧ではなかった。
「医師は、そのためにいます。あなたの身体を診るために。苦しい時、薬や呼吸の仕方を示すために。あなたを病人として閉じ込めるためではありません」
「でも」
「不安になった時に医師を呼ぶことは、恥ではありません」
セシリア様の涙が、さらにこぼれる。
女性医師が、机の上に小さな紙を置いた。
そこには、三つの手順が書かれている。
一、息苦しさを感じたら、侍女長へ伝える。
二、侍女長は主治医または王妃宮指定医師へ連絡する。
三、正式儀式や公的予定に関わる相手を私的に呼び出さない。
「これを、最初の手順にします」
女性医師が言った。
「難しい時は、侍女長にこの紙を見せるだけでも構いません」
「声が出ない時は」
「紙を見せてください」
「泣いてしまったら」
「泣いていても、医師は来ます」
「迷惑では」
「迷惑ではありません」
女性医師は、はっきり答えた。
「ただし、ディオン様を呼ぶ前に、医師を呼んでください」
セシリア様は、紙を見つめた。
その顔には、不安と、少しの安堵があった。
たぶん、彼女はこれまで、自分の不安を扱う手順を持っていなかったのだ。
だから、人にすがった。
特定の人に。
その人が誰かと約束をしていても、式に出るはずでも。
「アリシア様」
セシリア様が、私を見た。
「私は、あなたの時間を奪いました」
私は、黙って彼女を見る。
「ごめんなさい」
その言葉は、予想していた。
でも、胸が痛まないわけではない。
「謝罪は受け取ります」
私は言った。
「ですが、許すかどうかは今決めません」
「はい」
「そして、あなたがこれから手順を守るかどうかを、私は待ちません」
セシリア様の目が揺れる。
「はい」
「あなたの不安は、あなたと、あなたを支える人たちで扱ってください」
「はい」
「私の婚約式は戻りません」
その言葉だけは、どうしても言う必要があった。
部屋の空気が、少し重くなる。
でも、私は続けた。
「だから、あなたが反省しても、私が何かを取り戻せるわけではありません」
「……はい」
「でも、次に誰かの式を止めないことはできます」
セシリア様は、手元の手順紙を握った。
「止めません」
「その言葉だけではなく、手順で守ってください」
「はい」
エヴァ夫人が、静かに頷いた。
ヴィクトル様も何も言わない。
ただ、見ている。
私がこれ以上話したくないと思えば、すぐに止めるつもりなのだろう。
そのことが分かるだけで、私は最後まで言葉を置けた。
「医師を呼ぶことは、恥ではありません」
私は言った。
「あなたが病弱であることは、恥ではありません」
セシリア様が、顔を上げる。
「ですが、病弱であることを理由に、他人の時間を奪うことは違います」
「……はい」
「そこを間違えないでください」
「はい」
セシリア様は、泣きながら頷いた。
「今度は、医師を呼びます」
私は、それ以上何も言わなかった。
面談はそこで終了になった。
エヴァ夫人がセシリア様を別室へ案内し、女性医師も続く。
部屋には、私とミレーヌ女官長、ヴィクトル様だけが残った。
私は、椅子に座ったまましばらく動けなかった。
手が少し冷たい。
でも、震えてはいない。
「終わりました」
私が言うと、ヴィクトル様が静かに頷いた。
「はい」
「言えました」
「はい」
「私は、彼女を慰めませんでした」
「慰める義務はありません」
「責めすぎてもいませんか」
「必要な線を引きました」
その言葉で、少しだけ息が入った。
ミレーヌ女官長が、温かい茶を差し出してくれる。
「飲んでください」
「ありがとうございます」
茶は、少し甘い香りがした。
飲むと、ようやく身体が戻ってくる感じがした。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が言う。
「今日のことは、要綱の病弱者対応欄に入ります」
「はい」
「ただし、あなたの発言は、必要部分だけを記録します」
「どの部分でしょう」
「医師を呼ぶことは恥ではない。病弱であることは恥ではない。だが、病弱であることを理由に他人の時間を奪うことは違う」
「……はい」
「この三行です」
「十分です」
私は頷いた。
私の感情全部を記録する必要はない。
けれど、次の誰かのためになる言葉なら、残していい。
夕方、登録院へ戻ると、ユリアが面談結果を受け取って清書した。
私はその横で、要綱の病弱者対応欄へ追記する。
不安時、本人が医師を呼ぶことへ抵抗を示す場合、事前に連絡手順を紙面化すること。
声が出ない場合は、侍女長または指定者へ手順紙を示す方式を認めること。
病弱者への配慮は、医療・介助・別室待機・短時間参加で行う。
正式儀式の誓約者本人を、私的安心のために呼び出さないこと。
書き終えると、少しだけ疲れが来た。
でも、不思議と嫌な疲れではなかった。
「今日は、帰って休んでください」
ヴィクトル様が言った。
「命令ですか」
「勧めです」
「今日は従います」
「よい判断です」
私は笑った。
「今日は、褒め言葉が少し沁みます」
「では、もう一つ」
「はい」
「よく、会いました」
胸の奥が、じんと熱くなった。
その言葉は、とても短い。
けれど、今日の私には十分だった。
「ありがとうございます」
「あなたのためにも、要綱のためにも、必要な面談でした」
「はい」
「ですが、もう一度同じことをする必要はありません」
「分かっています」
「次は、相談役と医師の仕事です」
「はい」
それを聞いて、少し安心した。
私の仕事は、線を引くところまで。
その先でセシリア様を支えるのは、彼女自身と、彼女の家と、医師たちだ。
馬車寄せへ向かう途中、夕方の空は淡い紫色に染まっていた。
ヴィクトル様は、いつものように私の隣を歩く。
近すぎず、遠すぎず。
その距離にも慣れてきた。
「ヴィクトル様」
「はい」
「今日は、お茶は遠慮します」
「分かりました」
「嫌だからではなく、少し疲れたので」
「理由を言わなくても、断って構いません」
「言いたかったのです」
そう答えると、ヴィクトル様は少しだけ目を細めた。
「では、聞きました」
「はい」
「また、あなたが望む時に」
「はい」
馬車に乗る前、私は一度だけ王妃宮の方を見た。
あの部屋で、セシリア様は医師を呼ぶ手順を受け取った。
私は、彼女を許したわけではない。
でも、彼女が次に誰かの式を止めずに済むなら。
それは、今日の意味になる。
馬車が動き出す。
鞄の中には、要綱の控え。
その中に、今日の三行が入る。
医師を呼ぶことは、恥ではない。
病弱であることは、恥ではない。
けれど、他人の時間を奪うことは違う。
私は窓の外を見ながら、静かに息を吐いた。
少し痛い。
けれど、少し進んだ。
それで今日は、十分だった。
読んでいただきありがとうございます。
第十八話は明日18:10に投稿予定です。
次回は、ディオンとセシリアの距離、そしてアリシアが「もう待っていない」と改めて自覚する回になります。
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