第十六話 待たせないための手順表を作ります
王妃宮と王家婚姻登録院の共同要綱作りは、思っていたよりもずっと地味な仕事だった。
机の上には、華やかな婚約式の花飾りも、祝福の鐘もない。
あるのは、過去五年分の延期願い、不成立確認書、本人意思確認記録、神殿医師の診断控え、そして時刻表の写しだった。
白い紙。
黒い文字。
赤い付箋。
青い控え印。
それらが、王妃宮の大きな作業卓に積まれている。
私の前には、空白の表が一枚置かれていた。
仮題は、本人意思確認および時刻配慮に関する暫定要綱。
相変わらず、少し堅い。
けれど、必要な言葉ではあった。
「まず、過去の延期願いを三種類に分けます」
ユリア書記官が淡々と言った。
「第一に、医学的理由による延期」
彼女が白い札を置く。
「第二に、家同士の調整による延期」
次に青い札。
「第三に、本人以外の感情や都合による延期」
最後に赤い札。
その赤い札を見た瞬間、私は少しだけ息を止めた。
本人以外の感情や都合。
それは、ディオン様がセシリア様の不安を理由に婚約式を空けたことにもつながる。
ベルモント伯爵家が、妹エレナ様の体調を理由にルイーザ様の婚約式を二月遅らせようとしたことにも。
モーガン侯爵夫人が、息子を手放す前の祈りのために、花嫁を待たせようとしたことにも。
「この三つを分けるだけで、かなり事故は減ります」
ミレーヌ女官長が言う。
「医学的理由なら医師の判断を優先する。家同士の調整なら、両家代表と登録院で扱う。本人以外の感情や都合なら、式本体に入れず、別枠へ移す」
「別枠、ですか」
私は訊いた。
「小祈祷室、式後祝福、事前面談、記録書簡、控え室での短時間見学などです」
マルタ神官が、神殿側の資料を開いた。
「感情や体調への配慮を切り捨てる必要はありません。ただし、婚約式の中心に置くべきものと、別の場所で受けるべきものを混ぜないことが大切です」
「式には本人の意思」
私は小さく言った。
「配慮は、その周りに置く」
「そうです」
マルタ神官が頷いた。
「配慮が中心へ入り込むと、本人の声が聞こえなくなります」
私は手元の空白表を見た。
左から、予定時刻、式次第、担当者、確認事項、備考。
一般的な時刻表なら、それで足りるのかもしれない。
けれど、私たちが今作ろうとしているのは、ただ式を進めるための表ではない。
誰かが、当然のように待たされないための表だ。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が私の前に立った。
「気づいたことは?」
「欄が足りません」
私は答えた。
ユリアのペンが止まる。
ミレーヌ女官長が、少しだけ目を細めた。
「どの欄ですか」
「誰が待つのか、です」
言ってから、胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど、その痛みは昨日よりも扱いやすかった。
これは私の痛みをそのまま紙にぶつけているのではない。
私が痛みの中で見落とせなくなったものを、手順に変えようとしているのだ。
「たとえば、式の開始を一刻遅らせると書いた場合」
私は空白表の横に、新しい線を引いた。
「時刻表上は、開始時刻が変わるだけです。でも実際には、その一刻を誰かが待つことになります」
「花嫁、花婿、両家、神殿、公証人、次の式の者たち」
ヴィクトル様が言う。
「はい」
私は頷いた。
「でも、多くの場合、その負担が見えません。『少し遅らせる』『落ち着くまで待つ』『家族の都合を優先する』という言葉に隠れてしまいます」
私は新しい欄へ、ゆっくり文字を書いた。
待機負担者。
書いた瞬間、卓の周りが少し静かになった。
ミレーヌ女官長が、私の文字を見る。
「待機負担者」
「はい」
「よい言葉です」
ユリアがすぐに写し取る。
「待機時間が発生する場合、誰が待つことになるのかを明記する」
「はい」
私は続けた。
「そして、待機を求める理由だけでなく、待たされる側の同意を確認するかどうかも必要です」
「同意欄ですね」
ユリアが言う。
「待機負担者、同意確認、代替手段」
ヴィクトル様が、短く整理する。
「それで一つの組になります」
「上限時間も必要です」
私は言った。
「待ってください、という言葉には終わりがありません。半刻なのか、一刻なのか、二月なのか。そこが曖昧だと、待たされる側は拒みにくくなります」
言葉にしながら、私は自分の過去を思い出していた。
少しだけ待ってほしい。
落ち着いたら行く。
すぐ戻る。
その言葉には、いつも終わりがなかった。
だから私は、いつまでも待ってしまった。
終わりが決まっていれば、きっともう少し早く、自分の時間を取り戻せたかもしれない。
「待機時間の上限」
ミレーヌ女官長が、表へ書き込む。
「そして、上限を過ぎた場合の処理」
「延期、不成立確認、式次第変更、または別室配慮への切り替えですね」
マルタ神官が続ける。
「神殿側でも、待機と休止を明確に分けましょう。待機は不在者や外的事情を待つ時間。休止は、本人の声や体調を式に戻すための時間」
「休止には、待機負担者という言い方は合いませんね」
私は考えながら言った。
「休止は、本人のために式が呼吸を整える時間です。誰かを一方的に待たせるものではない」
「では、休止欄には何を置きますか」
ヴィクトル様が問う。
私は少し考えた。
「再開条件、でしょうか」
「続けてください」
「休止した場合、どうなれば式を再開するのかを決めます。本人が頷く。神官が声を聞き取る。医師が許可する。合図が戻る。そこが曖昧だと、いつまでも止まります」
ユリアが、少しだけ目を上げた。
「待機には上限時間。休止には再開条件」
「はい」
「分かりやすいです」
彼女がそう言うと、本当に使える整理なのだと少し安心する。
ヴィクトル様も頷いた。
「要綱に入れましょう」
王妃宮の作業卓に、新しい表が形になっていく。
予定時刻。
式次第。
担当者。
確認事項。
待機負担者。
待機上限。
同意確認。
代替手段。
休止時の再開条件。
記録担当。
並べてみると、少し細かい。
けれど、細かすぎるとは思わなかった。
誰かの時間を守るためには、見えない負担を表へ出さなければならない。
それを、私はもう知っている。
「これでは、式場担当者の記入が増えますね」
上級書記官が言った。
彼は実務上の負担を見る立場だ。
反対ではない。
ただ、現場で使えるかを確認している。
「全部の式に同じ表を使う必要はないと思います」
私は答えた。
「通常の小規模な式なら簡略版で。延期願い、本人意思確認省略願い、代理出席願い、病弱者への配慮申請がある場合だけ詳細版に切り替える」
「つまり、赤札案件用ですね」
「はい」
ユリアが、またすぐに書き込む。
「通常表と赤札表の二種類」
「赤札表では少し怖いですね」
ミレーヌ女官長が言う。
私は少しだけ笑った。
「では、特別配慮表でしょうか」
「よいと思います」
マルタ神官が頷く。
「配慮という言葉が入ると、病弱者や緊張しやすい方々も受け入れやすい」
「ただし、配慮の中に待機負担者を明記する」
ヴィクトル様が言った。
「そこが重要です」
「はい」
私は頷いた。
「配慮は、誰かの時間を見えなくしてはいけません」
その一文を書いた時、少しだけ手が止まった。
王妃宮の作業卓。
静かな午後。
周囲にいる有能な人たち。
その中で、私は自分の中にあった痛みが、言葉の形を取っていくのを感じていた。
配慮は、誰かの時間を見えなくしてはいけない。
それは、私があの婚約式で得た答えだった。
昼過ぎ、王妃殿下が作業室へ来られた。
私たちはすぐに立ち上がる。
王妃殿下は手で制し、卓の上の試案へ視線を落とした。
「進んでいるようですね」
「はい、王妃殿下」
ヴィクトル様が、試案を差し出す。
「本人意思確認と時刻配慮に関する暫定要綱、第一案です」
王妃殿下は椅子に座り、一枚ずつ読み始めた。
時折、目元が少し動く。
特に、待機負担者の欄で手が止まった。
「待機負担者」
王妃殿下が読み上げる。
「これは、誰の案ですか」
私は一歩前へ出た。
「私です」
「説明を」
「はい」
少しだけ緊張した。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
「これまで、式の時刻変更や延期願いでは、理由の方が重視されていました。病弱な方の体調、家族の感情、親族の都合などです」
「ええ」
「ですが、その変更によって誰が待つことになるのかは、明記されていませんでした」
「続けて」
「待機負担者を明記すれば、誰の時間を動かそうとしているのかが見えます。花嫁なのか、花婿なのか、両家なのか、後続の式なのか。そこを見れば、配慮が別の誰かの負担になっていないか確認できます」
王妃殿下は、しばらくその欄を見つめていた。
そして、静かに頷く。
「採用しましょう」
その一言で、私は息を止めた。
「よろしいのですか」
「よい欄です」
王妃殿下は言った。
「王妃宮の式進行にも入れます」
「王妃宮にも?」
「ええ」
王妃殿下は顔を上げた。
「舞踏会でも、謁見でも、茶会でも、同じことが起きます。誰かの都合を優先するとき、誰が待つのか。その負担が見えないから、不公平が美徳の顔をしてしまう」
不公平が美徳の顔をする。
その言葉に、胸の奥が強く揺れた。
私の我慢は、きっと何度も美徳の顔をしていた。
分かってくれる令嬢。
優しい婚約者。
大人しい公爵令嬢。
その呼び名の下で、私の時間は見えなくなっていた。
「アリシア」
「はい」
「あなたは、自分の痛みを他人にぶつけなかった」
「……はい」
「けれど、痛みから目を逸らさず、手順に変えた」
王妃殿下は、試案の上へ手を置いた。
「これはよい仕事です」
よい仕事。
その言葉を聞いた瞬間、目の奥が少し熱くなった。
婚約式で泣かなかった私が、作業卓の前で泣きそうになるのは少しおかしいかもしれない。
でも、これは悲しみだけではない。
自分の痛みが、ただの傷で終わらず、誰かの時間を守る欄になった。
そのことが、少しだけ救いのように思えた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、こちらです」
王妃殿下は微笑んだ。
「この要綱は、暫定として一月試用します。登録院と王妃宮で共有。その後、問題がなければ正式化しましょう」
「はい」
「アリシアは、試用期間中の運用記録にも加わりなさい」
「承知いたしました」
「ただし、働きすぎないように」
「はい」
王妃殿下は、そこだけは少し強めに言った。
横でヴィクトル様が真面目に頷く。
「監督します」
「あなたも監督対象です」
王妃殿下が即座に返した。
ヴィクトル様が黙る。
私は思わず口元を押さえた。
「笑ってよいところですか」
ヴィクトル様が私に訊いた。
真面目な顔だった。
それがなおさら可笑しい。
「少しだけなら」
「では、少しだけ」
ヴィクトル様の口元が、本当に少しだけ動いた。
王妃殿下は楽しそうにそれを見ていた。
その日の午後は、試案の清書と、運用例の整理に費やされた。
過去の案件を、新しい表に当てはめてみる。
時刻変更願い。
本人返答省略願い。
代理出席願い。
病弱な親族への配慮願い。
それぞれに、待機負担者、同意確認、代替手段、休止時の再開条件を書き込んでいく。
すると、今まで見えなかったものが見えてきた。
誰かの祈りのために、花嫁が待つ。
誰かの不安のために、花婿が待つ。
家の体面のために、本人の声が待たされる。
病弱な妹のために、姉の婚約式が待たされる。
それらは、書き出すと驚くほどはっきりした。
「表にすると、逃げられませんね」
私は言った。
ユリアが頷く。
「そうです。だから表にします」
「ユリアさんらしいですね」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒め言葉です」
彼女は無表情のまま、少しだけ満足そうに見えた。
夕方、第一案が完成した。
表紙には、仮題より少し柔らかい題がついた。
婚約式・婚姻式における本人意思確認および時刻配慮の暫定要綱。
その中に、私の提案した欄が入っている。
待機負担者。
待機上限。
同意確認。
代替手段。
休止時の再開条件。
それらは、ただの項目だ。
けれど、私にはとても重く見えた。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が、清書された控えを一部私へ渡した。
「これは?」
「作成補佐用の控えです」
「私が持っていてよいのですか」
「あなたも起案者の一人です」
起案者。
その言葉に、胸が静かに鳴った。
「私が」
「はい」
「この要綱の」
「一部ですが、確かに」
私は控えを受け取った。
昨日の不成立確認書とも、任用書とも違う重さだった。
これは、私の痛みが誰かのための手順になった証だった。
「ありがとうございます」
「あなたの仕事です」
「はい」
私は控えを胸元に抱いた。
もう、青い封蝋だけではない。
私の手元には、別の書類もある。
終わりの記録だけではなく、これから誰かを待たせないための手順表が。
勤務後、王妃宮の小庭へ出ると、昨日と同じ茶卓が用意されていた。
今日は、私からヴィクトル様を見た。
「お茶一杯の時間は、ありますか」
ヴィクトル様が、少しだけ目を瞬いた。
それから、ほんのわずかに笑う。
「あります」
「仕事の話は半分以下で」
「努力します」
「今日は、私からお誘いしました」
「はい」
「なので、私の時間です」
「その通りです」
その返事に、私は少しだけ満足した。
自分から誰かをお茶に誘う。
それは、小さなことかもしれない。
けれど、私にとっては大きな一歩だった。
誰かに待たされるのではなく。
誰かに呼び出されるのでもなく。
私が、自分の時間を使いたいと思ったのだ。
茶は、今日も温かかった。
焼き菓子は昨日より少し甘い。
ヴィクトル様は、最初に言った。
「今日は、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
「仕事の話をしました」
「今ので一回です」
「数えるのですね」
「半分以下にするために」
「なるほど」
真面目に頷くので、また笑ってしまった。
「では、仕事ではない話をしてください」
私が言うと、ヴィクトル様は少し考えた。
「私は、甘い菓子があまり得意ではありません」
「それは確かに仕事ではありませんね」
「はい」
「では、今日の焼き菓子は?」
「少し甘いです」
「そう思っていながら、なぜ用意を」
「あなたが疲れていると思ったので」
思わず言葉が止まった。
ヴィクトル様は、いつもの静かな顔で茶を置く。
「疲れた時は、少し甘いものがよいと聞きました」
「誰に」
「ミレーヌ女官長に」
少し離れた控え席にいたミレーヌ女官長が、こちらを見ないまま茶器を整えている。
私は頬が熱くなるのを感じた。
「では、いただきます」
「無理に食べなくても」
「私の意思で食べます」
そう言って、焼き菓子を一つ口にした。
確かに少し甘い。
でも、嫌ではなかった。
「おいしいです」
「よかった」
ヴィクトル様の表情が、ほんの少しだけやわらいだ。
その小さな変化を見られたことが、今日一日の終わりにとても嬉しく感じた。
小庭には、夕方の風が吹いている。
王妃宮の白い壁に、淡い影が落ちている。
私の隣ではなく、向かいに座る人がいる。
私の時間を勝手に使わない人。
私が誘えば、時間を確認して来てくれる人。
「ヴィクトル様」
「はい」
「今日は、よい一日でした」
「よい仕事でした」
「仕事の話です」
「失礼しました」
「でも、そうですね」
私は笑った。
「よい仕事でした」
その言葉を、自分で言える日が来るとは思わなかった。
婚約式の鐘が鳴らなかった日から、まだそれほど経っていない。
けれど、私はもう待合室にはいない。
机がある。
役目がある。
作った手順表がある。
そして、自分で誘ったお茶の時間がある。
それらはどれも、私のものだった。
読んでいただきありがとうございます。
第十六話までで、第二章の区切りです。
アリシアは王家婚姻登録院で、自分の痛みを「待たせないための手順」へ変え始めました。
次章では、ディオンとセシリアの側の清算、そしてアリシア自身の新しい関係を進めていきます。
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