第十五話 優しさの代金を、婚約者に払わせていたのですね
王妃宮でお茶をいただいた翌朝、王家婚姻登録院には二通の報告書が届いていた。
一通は、ハーグレイヴ侯爵家から。
もう一通は、ロイス男爵家から。
差出人の名を見た瞬間、胸の奥が少しだけ固くなる。
それはもう、鋭い痛みではなかった。
けれど、完全に消えたものでもない。
私は書類を見つめたまま、指先で紙の端をそっと押さえた。
「アリシア補佐」
ユリア書記官が、私の向かいで言った。
「この二件は、別担当に回すこともできます」
「ありがとうございます」
「登録院としては、あなたが必ず扱う必要はありません」
「はい」
「ただ、王妃宮からは、今後の要綱作成に関わる資料として共有されています」
ユリアは、相変わらず感情をあまり表に出さない。
けれど、こういう時の彼女はいつも一拍置いてくれる。
読むかどうか。
関わるかどうか。
その余白を、私に渡してくれるのだ。
「読みます」
私は答えた。
「ただし、私的な返答はしません」
「承知しました」
「必要があれば、登録院の業務として扱います」
「その形で問題ありません」
ユリアが書類を私の前へ置いた。
まず、ハーグレイヴ侯爵家の報告書を開く。
内容は、ディオン・ハーグレイヴ様の再教育開始に関するものだった。
婚姻登録に関する家の代理権停止。
正式儀式当日の行動規範。
緊急時の医師・神殿連絡手順。
私的な呼び出しと正式儀式の優先順位。
そして、過去にアリシア・エルヴェインとの予定を中断または欠席した件の自己申告一覧。
そこまで読んで、手が止まった。
自己申告一覧。
私が数えるのをやめたもの。
白い手袋のまま冷めた紅茶。
一人で立っていた舞踏会の隅。
父の向かいに空いた椅子。
王妃宮の控え室で二刻待った夜。
それらが、今度は彼の手で書かれている。
「大丈夫ですか」
ユリアが訊いた。
私は少しだけ息を吸った。
「大丈夫です」
「無理なら閉じてください」
「いいえ。読みます」
私は続きを読んだ。
そこには、思っていたより多くの予定が書かれていた。
王宮舞踏会。
両家晩餐。
観劇。
慈善市。
王妃殿下への挨拶打ち合わせ。
母の病後回復祝い。
私の妹の成人祝い。
春の庭園茶会。
侯爵家親族への紹介。
神殿婚約式前の打ち合わせ。
私は、読みながら気づいた。
忘れていたものがある。
いいえ、忘れたふりをしていたものがある。
あまりにも何度もあったから、自分で数えるのをやめてしまったものが。
報告書の最後に、ディオン様の直筆の添え書きがあった。
私はこれらを「やむを得ない事情」だと思っておりました。
ですが、やむを得ない事情であったかどうかを、アリシア嬢へ確認したことはありませんでした。
私は、セシリアを案じる優しさの代金を、アリシア嬢の時間に払わせていました。
その一文で、胸の奥が、思ったより深く痛んだ。
優しさの代金。
そう。
彼は優しかった。
セシリア様へは。
不安がる幼なじみを放っておけなかった。
苦しそうな声を聞けば駆けつけた。
涙を見れば、そばにいた。
それは、きっと優しさだったのだろう。
でも、その優しさのために削られた時間は、いつも私のものだった。
私は報告書を閉じた。
少しだけ、指先が冷たい。
「アリシア嬢」
今度は、入口からヴィクトル様の声がした。
いつの間にか確認室に来ていたらしい。
彼は私の前に置かれた報告書を見て、状況を理解したようだった。
「読みましたか」
「はい」
「扱えそうですか」
「業務資料としては」
「私的には?」
私は少し考えた。
その問いが、踏み込みすぎているとは思わなかった。
この人は、私の境界を確かめている。
そこを越えないために。
「少し、痛みます」
「はい」
「ですが、崩れるほどではありません」
「では、業務資料として扱いましょう」
「はい」
ヴィクトル様は、私の向かいに座った。
ユリアが、二通目の報告書を置く。
ロイス男爵家からのものだった。
「こちらは、セシリア・ロイス令嬢に関する対応報告です」
ユリアが説明する。
「主治医の診察、王妃宮指定相談役との面談、正式儀式当日の私的呼び出し禁止に関する家庭内確認。すべて受諾済みです」
私は報告書を開いた。
セシリア様の体調は、やはり弱い。
長時間の社交は難しい。
急な不安発作もある。
ただし、これまでの対応は、医療的な管理というより、ディオン様の来訪に依存していた。
そのため、今後は主治医、侍女長、父であるロイス男爵、王妃宮相談役の四者で対応する体制へ変更する。
正式儀式の時刻に、ディオン様を直接呼び出すことは禁じる。
必要なら、医師または神殿へ連絡する。
そして、セシリア様本人の短い確認文が添えられていた。
私は、苦しい時にディオン様を呼べばよいと思っていました。
それが、誰かの予定を止めているとは、考えませんでした。
これからは、まず医師を呼びます。
不安であっても、他人の式を止める理由にしません。
文字は細く、ところどころ震えていた。
けれど、彼女自身の字だった。
「セシリア様も、書かれたのですね」
「はい」
ヴィクトル様が答える。
「王妃宮相談役の同席で」
「無理に?」
「いいえ。本人の意思です」
「そうですか」
私は書面を静かに置いた。
許した、とは違う。
それで私の婚約式が戻るわけではない。
でも、彼女が自分の不安と他人の時間を分けようとしているなら、それは必要なことだった。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が言った。
「今日、ディオン・ハーグレイヴが登録院へ来ます」
私は顔を上げた。
ユリアの手も、わずかに止まる。
「再教育のためですか」
「はい。婚姻登録代理権停止に伴う初回講習です」
「私の担当ではありませんね」
「あなたの担当ではありません」
即答だった。
私は少しだけ息を吐いた。
「ただし、本人からあなたへの謝罪文提出願いが出ています」
「謝罪文」
「登録院を通じて、業務記録とは別に渡したいと」
「それは、受け取る義務がありますか」
「ありません」
また即答だった。
「あなたが望まなければ、登録院で保管し、私的接触なしとして処理します」
「望めば?」
「登録院立会いのもとで受領できます。返答義務はありません」
私は、机の上の二通の報告書を見た。
ディオン様の自己申告。
セシリア様の確認文。
どちらも、私のためだけのものではない。
けれど、私の過去に触れている。
「受け取ります」
私は言った。
「ただし、返答はしません」
「分かりました」
「面会は」
「しなくてもよいです」
「……」
「受け取るだけなら、ユリア経由で可能です」
私は少し迷った。
会いたいわけではない。
けれど、会うことを過剰に恐れている自分も嫌だった。
昨日、ヴィクトル様は言った。
私の傷を、勝手に業務上の道具にしない、と。
だからこそ、これは私が決めることだ。
「登録院立会いで、短時間なら」
私は言った。
「会います」
「理由は」
「私が、もう待っていないことを、自分で確認したいからです」
ヴィクトル様は、しばらく私を見ていた。
それから頷く。
「分かりました」
「無理だと思ったら」
「その時点で終了します」
「はい」
「私も同席します」
「監督官として?」
「監督官として」
少しだけ間があった。
そして彼は付け加えた。
「それから、あなたの上申先として」
私は小さく頷いた。
その言葉だけで、ずいぶん楽になった。
午後二刻、登録院の小面談室にディオン様が入ってきた。
以前より少し痩せたように見えた。
礼装ではない。
濃い灰色の上着に、簡素な手袋。
胸に家の徽章はあるが、目立たない位置だった。
彼は部屋へ入ると、まずヴィクトル様へ礼をし、それから私を見る。
「アリシア嬢」
婚約者だった頃のように、アリシアとは呼ばなかった。
その変化だけで、彼が少しは線を理解し始めているのだと分かった。
「ディオン様」
「本日は、謝罪文の受領の機会をいただき、ありがとうございます」
「受け取るだけです。返答はいたしません」
「分かっています」
彼は、両手で封書を差し出した。
私は受け取った。
封は閉じられている。
中身は、あとで読むかどうか決めればいい。
「一言だけ、お許しいただけますか」
ディオン様が言った。
私はヴィクトル様を見る。
彼は私に判断を返すように、わずかに頷いた。
「短くなら」
「はい」
ディオン様は深く頭を下げた。
「私は、優しさの向け先を間違えました」
その声は低かった。
「セシリアを心配する自分を、正しいと思っていました。そのたびに、あなたがどこで待っているのかを見ようとしませんでした」
私は黙って聞いた。
「あなたが我慢してくれることを、あなたの優しさだと思っていました」
彼の手が、わずかに震えている。
「でも、それは私が甘えていただけでした」
「……」
「申し訳ありませんでした」
彼は、深く頭を下げたまま動かなかった。
私は、胸の奥が痛むのを感じた。
けれど、その痛みはもう、私を引き戻す力を持っていなかった。
「謝罪は受け取りました」
私は言った。
ディオン様が、ゆっくり顔を上げる。
「ありがとうございます」
「ですが、関係を戻すことはありません」
「分かっています」
「私があなたを許すかどうかも、今ここで決めません」
「はい」
「あなたが謝るべき相手は、私だけではありません」
「はい」
彼は、しっかり頷いた。
「両家、神殿、参列者、そして、私が止めてきた予定に関わった方々にも、順に謝罪します」
「それは登録院の指導ですか」
「はい」
彼は少し苦く笑った。
「ですが、今は必要だと思っています」
以前の彼なら、そうは言わなかっただろう。
必要だと分かった。
それは小さくない変化だった。
「セシリア様は」
私が訊くと、ディオン様の表情が少しだけ変わった。
心配と、苦さと、少しの距離。
「主治医と相談役のもとで、少しずつ練習しています」
「練習」
「不安になった時、私ではなく医師や侍女へ言う練習です」
「そうですか」
「私は、今は彼女の屋敷へ行っていません」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
彼は続ける。
「行けば、また同じになるからです。彼女も、私も」
「それは、あなたが決めたのですか」
「はい」
「セシリア様も?」
「はい。泣かれましたが」
彼は目を伏せる。
「それでも、行かないと決めました」
それは、たぶん彼にとって大きな決断なのだろう。
自分が必要とされる場所へ行かないこと。
相手の涙を前にして、助けるように見える行動を選ばないこと。
それは、彼が初めて自分の優しさを疑った証でもある。
「ディオン様」
「はい」
「これからは、あなたが何を選ぶかです」
「はい」
「私はもう、その結果を待ちません」
彼は、目を閉じた。
そして、小さく頷く。
「分かっています」
面談は、それで終わった。
ヴィクトル様が時間を確認し、静かに告げる。
「ここまでです」
「はい」
ディオン様は、もう一度私へ礼をした。
「ありがとうございました」
私は何も返さなかった。
返す必要はない。
彼は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
その音を聞いた時、私は思った。
ああ、本当に終わっているのだ、と。
涙は出なかった。
胸は痛む。
でも、それだけだった。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が声をかける。
「はい」
「座ってください」
「立っています」
「立っていますね」
「大丈夫です」
「大丈夫でも、座ってください」
あまりにも淡々と言われて、私は少しだけ笑ってしまった。
言われた通り、椅子に座る。
自分でも気づかないうちに、足に力が入っていた。
「無理ではありませんでしたか」
「無理ではありませんでした」
「痛みましたか」
「少し」
「それは、当然です」
「はい」
「後悔は」
私は少し考えた。
後悔。
昨日までの私なら、どこかにあったかもしれない。
もっと早く言えばよかった。
もっと上手に怒ればよかった。
もっと違う形があったのではないか。
でも、今は。
「ありません」
私は答えた。
「会ってよかったです。戻りたいと思わないことが分かりました」
ヴィクトル様は、少しだけ目を細めた。
「よい確認でした」
「また、確認ですか」
「はい」
「なんでも確認にしますね」
「確認は大切です」
「そうですね」
私は封書を見た。
ディオン様からの謝罪文。
読むかどうかは、後で決める。
今すぐ開く必要はない。
私の時間で、決めればいい。
「これは、今日は開きません」
「よい判断です」
「褒めましたか」
「はい」
「分かりました」
少しだけ笑えた。
そのことが、何よりも私を安心させた。
その日の夕方、ロイス男爵家から追加報告が届いた。
セシリア様が、王妃宮相談役の面談で初めてこう言ったらしい。
ディオン様を呼ばないと不安なのではなく、誰かが来てくれないと、自分が捨てられたように思ってしまうのだと思います。
その言葉は、少し重かった。
彼女の依存は、ただのわがままではなかったのだろう。
孤独や不安や、病弱な身体から来る恐怖があったのだと思う。
けれど、それでも。
その恐怖を、私の婚約式で埋めることはできなかった。
「相談役は、どう対応を?」
私が尋ねると、ユリアが資料を確認する。
「まず、呼び出しの前に自分の不安を言葉にする練習。次に、医師または侍女へ伝える手順。さらに、正式儀式当日は事前に不安が出た場合の連絡先を決めるとのことです」
「よかったです」
「そう思いますか」
「はい」
私は頷いた。
「彼女の不安そのものを消すことはできないのでしょう。でも、誰かの式を止める形でしか扱えないなら、彼女自身も苦しいままだと思います」
「そうですね」
ユリアは、少しだけ私を見た。
「アリシア補佐は、彼女を恨んでいますか」
唐突な問いだった。
けれど、不快ではなかった。
私は少し考えた。
「恨みがないと言えば嘘になります」
「はい」
「でも、彼女だけを恨めば楽、というわけでもありません」
「はい」
「私は、彼女に呼び出されたディオン様に待たされたのであって、彼女一人に婚約式を壊されたわけではありません」
「そうですね」
「だから、彼女にも、彼にも、それぞれの責任があるのだと思います」
ユリアは、静かに頷いた。
「その整理は、報告書に向いています」
「今のも記録しますか」
「必要なら」
「今日はやめてください」
「承知しました」
その返答が真面目すぎて、また少し笑ってしまった。
勤務後、ヴィクトル様が馬車寄せまで送ってくれた。
今日はお茶の誘いはなかった。
それが少しだけ、ありがたかった。
たぶん彼は、私がディオン様と会った日に、仕事外の時間を求めるべきではないと判断したのだろう。
「今日は、まっすぐ帰って休んでください」
「はい」
「謝罪文は」
「今日は開きません」
「それでよいと思います」
「いつ開くかは」
「あなたが決めます」
その言葉に、私は頷いた。
「ヴィクトル様」
「はい」
「今日、ディオン様と会って、少し分かりました」
「何を」
「私は、もう待っていないのだと」
ヴィクトル様は、静かに私を見る。
「はい」
「彼が変わるかどうかも、セシリア様がどうなるかも、気にはなります。でも、待ってはいません」
「それは、大きな違いです」
「はい」
私は封書を鞄の中に入れた。
「彼らは彼らの手順で、私は私の手順で進むのですね」
「その通りです」
「手順という言葉、便利ですね」
「便利です」
「でも、今日は少し好きです」
ヴィクトル様の口元が、ほんのわずかに動いた。
「それはよかった」
馬車に乗る。
扉が閉まる前に、彼は言った。
「明日は、要綱の草案を進めます」
「はい」
「あなたの時間は、午後二刻からでよいですか」
「午前から行きます」
「休まなくてよいのですか」
「はい。自分で決めています」
ヴィクトル様は、少しだけ考えた。
それから頷く。
「では、午前から」
「はい」
「お待ちしています」
待つ。
その言葉が、今日はまた違って聞こえた。
誰かに当然のように待たされるのではなく。
私が行くと決めた場所で、誰かが待っている。
それなら、嫌ではなかった。
馬車が動き出す。
王家婚姻登録院の建物が遠ざかる。
鞄の中には、開けていない謝罪文。
胸の中には、少しの痛みと、少しの軽さ。
私は、もう彼らを待っていない。
そのことを、今日ようやく、自分の中で記録できた気がした。
読んでいただきありがとうございます。
第十六話は明日18:10に投稿予定です。
次回は、王妃宮と登録院で「待たせないための手順表」を作っていきます。
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