第十四話 王妃殿下は、待たせない手順を評価します
翌日は、午後からの出勤になった。
私が決めたことではある。
けれど、王家婚姻登録院の出勤時刻が午後二刻に書き換えられているのを見た時、少しだけ不思議な気持ちになった。
私の予定が、私の意思確認を経て動いている。
ただそれだけのことが、まだ珍しかった。
「アリシア補佐、午後からで間違いありませんね」
受付の職員がそう確認した。
「はい」
「午前中の通常確認は、ユリア書記官とミレーヌ女官長が処理済みです」
「ありがとうございます」
「ヴィクトル監督官より、到着後は王妃宮確認室へ向かうように、とのことです」
「王妃宮へ?」
「はい。王妃殿下がお呼びです」
王妃殿下。
その名に、背筋が自然と伸びた。
昨日の案件の報告だろうか。
ルイーザ様の婚約式は、予定どおり成立した。
エレナ様への配慮も、式後の家族祝福も、大きな混乱なく終わった。
記録としては、問題ないはずだ。
けれど、王妃宮から呼ばれるとなると、やはり少し緊張する。
王妃宮の確認室へ向かう廊下は、登録院より少し明るかった。
窓から入る光が柔らかく、床の白石には薄い花模様の影が落ちている。
その奥で、ミレーヌ女官長が待っていた。
「アリシア様」
「お待たせしましたか」
「いいえ」
彼女は即答した。
「あなたの出勤時刻に合わせてお待ちしておりました」
その言い方に、思わず少し笑ってしまった。
「最近、その言い回しに安心するようになりました」
「それは何よりです」
「今日は、どのような確認でしょうか」
「王妃殿下より、昨日までの三件について正式な講評があります」
「講評」
「はい」
ミレーヌ女官長は、確認室の扉へ手をかけた。
「気の毒な令嬢への慰めではありません。仕事への評価です」
「……はい」
その一言で、肩の力が少しだけ抜けた。
私は深く息を吸い、確認室へ入った。
王妃セレーネ殿下は、窓際の卓についていた。
今日のドレスは淡い青。
華やかすぎず、けれど王妃としての品格がある。
右手にはヴィクトル様。
左手には登録院の上級書記官。
卓の上には、三つの案件の記録が並んでいた。
エミリア・クライン令嬢。
マリアベル・サザーランド令嬢。
ルイーザ・ベルモント令嬢。
「アリシア・エルヴェイン」
「はい、王妃殿下」
「午後からの出勤にしたと聞きました」
「はい」
「よい判断です」
王妃殿下は、まずそう言った。
「休むことを選べる者は、他人の時間も軽く扱いにくいものです」
「ありがとうございます」
「では、仕事の話をしましょう」
王妃殿下の声が、少しだけ公的なものへ変わる。
私も自然に背筋を伸ばした。
「この数日で、登録院は三つの婚約式を扱いました」
「はい」
「一つ目は、病弱で人前での返答に不安がある令嬢の式。本人は婚約を望んでいたが、声の出し方に配慮が必要だった」
「エミリア様です」
「二つ目は、姉が代理で立とうとした式。本人は自分で立ちたいと望んでいた」
「マリアベル様です」
「三つ目は、妹の体調を理由に姉の婚約式を延期しようとした件。妹への配慮は必要だったが、姉本人は予定どおりの式を望んでいた」
「ルイーザ様です」
王妃殿下は、三つの記録へ順に指を置いた。
「どれも違う案件です」
「はい」
「けれど、根は近い」
私は少し考えた。
本人の声。
本人の時間。
本人の意思。
それが、家族の善意や不安や都合で覆われそうになった案件だった。
「本人の意思が、周囲の配慮に隠れかけていました」
「その通りです」
王妃殿下は頷いた。
「配慮は大切です。病弱な者を放置してはならない。緊張する者を人前に放り出してもならない。家族の感情を踏みつけてもならない」
「はい」
「けれど、配慮の名で本人の時間や声を奪えば、それは配慮ではありません」
その言葉は、静かに重かった。
私は自分の婚約式を思い出した。
セシリア様への配慮。
ディオン様の優しさ。
その外で、私は何度も待たされていた。
「アリシア」
「はい」
「あなたは、その境界をよく見ました」
「私だけではありません」
私はすぐに答えた。
「ミレーヌ女官長、ユリア書記官、マルタ神官、ヴィクトル様がいらしたからです」
「ええ」
王妃殿下は、少しだけ目を細めた。
「そう答えるところも、評価しています」
「……評価、ですか」
「あなた一人が全部を背負うなら、それは危うい。登録院が必要としているのは、万能の令嬢ではありません」
王妃殿下は、卓の上の書類を一枚取った。
「必要なのは、本人の意思がどこで隠れたのかを見つけ、組織の手順へ戻せる人です」
組織の手順へ戻す。
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
私は、誰かの悲しみを消せるわけではない。
病を治せるわけでもない。
家族の関係を一言で整えられるわけでもない。
でも、式の中で誰かの声が消えそうになった時、それを手順へ戻すことはできる。
それが今の私の仕事なのだ。
「そこで」
王妃殿下は、ヴィクトル様へ視線を向けた。
ヴィクトル様が、一冊の薄い綴じ書類を私の前へ置く。
「王妃宮と王家婚姻登録院の共同で、新しい運用指針を作ります」
「運用指針、ですか」
「仮題は」
ヴィクトル様が言った。
「本人意思確認および時刻配慮に関する暫定要綱」
あまりにも堅い題名だったので、私は一瞬だけ瞬きをした。
王妃殿下が、少しだけ笑う。
「ヴィクトルらしい題です」
「必要な語を入れました」
「そうね。必要ではあるわ」
王妃殿下は私へ向き直った。
「あなたにも、この要綱作成に加わってもらいます」
「私が、ですか」
「ええ」
「まだ臨時補佐になったばかりです」
「だからよ」
王妃殿下は、あっさり言った。
「長くいる者ほど、慣れてしまうことがあります。あなたはまだ慣れていない。だから、待たされる側、声を奪われる側の違和感を見落としにくい」
私は、手元の書類を見る。
表紙には、まだ白い余白が多い。
これから書き込まれるものなのだろう。
「具体的には、何を」
ヴィクトル様が答えた。
「第一に、正式婚約式および婚姻式において、本人返答を省略できる条件の整理」
「はい」
「第二に、病弱者や緊張しやすい者への配慮形式。神官復唱、少人数式、小礼拝堂形式、休止合図など」
「はい」
「第三に、家族の感情や体調配慮を理由とする時刻変更の制限」
「時刻変更」
「はい。昨日のような件です」
「第四に、代理出席の禁止を明文化」
「それは必要ですね」
「第五に、式に出られない家族への代替配慮。別室見学、式後祝福、記録書簡の送付など」
「はい」
私は一つずつ聞きながら、胸の奥が不思議に静まっていくのを感じた。
痛みが消えるわけではない。
けれど、痛みから手順が生まれていく。
それは、私の婚約式がただ壊れただけでは終わらないということでもあった。
「この要綱は、あなたの件だけで作るものではありません」
王妃殿下が言った。
「この数日の三件だけでも足りないでしょう。過去の登録記録も見直します」
「はい」
「ただし、あなたの件がきっかけの一つであることは確かです」
「……はい」
「それを、つらいと思いますか」
私はすぐには答えられなかった。
つらくないと言えば嘘になる。
自分の婚約式が、不成立になった。
それが制度改善のきっかけになる。
そう考えると、少し苦い。
けれど。
「つらくはあります」
私は正直に答えた。
「ですが、無駄になるよりはずっといいです」
王妃殿下は、静かに頷いた。
「よい答えです」
「ありがとうございます」
「あなたの経験を、あなたを削るためには使いません」
その言葉に、ヴィクトル様が続ける。
「要綱作成において、あなたが扱う範囲は本人意思確認の手順案と、待機時間の配慮欄です。ディオン・ハーグレイヴおよびセシリア・ロイスに関する詳細事案は、別担当が整理します」
私は顔を上げた。
「私が扱わなくてよいのですか」
「はい」
「ですが、私の件でもあります」
「だからです」
ヴィクトル様の声は静かだった。
「自分の傷を、すべて自分で資料化する必要はありません」
胸の奥が、また揺れた。
私はうっかりすると、それも自分でやろうとしていたかもしれない。
自分が一番よく知っているから。
自分が当事者だから。
だから自分が整えるべきだと。
けれど、それは違うのだろう。
「ありがとうございます」
「業務上の線引きです」
「はい」
「そして、少しは配慮でもあります」
珍しく、ヴィクトル様が自分からそう付け加えた。
王妃殿下が小さく笑う。
ミレーヌ女官長も、少しだけ目を伏せた。
私は頬が熱くなるのを感じた。
「配慮欄に書いておきますか」
思わずそう言うと、ヴィクトル様が真面目な顔で答えた。
「必要なら」
「冗談です」
「そうでしたか」
王妃殿下が、とうとう声を立てずに笑った。
「あなたたち、仕事の話をしているのよね」
「はい、王妃殿下」
ヴィクトル様が即答する。
私も慌てて姿勢を正した。
「申し訳ございません」
「いいえ」
王妃殿下は、楽しげに目を細めた。
「仕事の話をしながら笑えるなら、悪くありません」
その後、要綱作成の担当分けが行われた。
ユリア書記官は過去五年分の不成立・延期・代理申請の記録抽出。
ミレーヌ女官長は王妃宮側の式進行と女官配置の整理。
マルタ神官は神殿規定上の許容形式。
ヴィクトル様は監督官として全体統括。
そして私は、本人意思確認に関する質問案と、待機時間・休止時間の扱いについての草案を作ることになった。
「待機時間と休止時間は分けた方がよいと思います」
私は言った。
「理由は」
ヴィクトル様が問う。
私は少し考え、答える。
「待機時間は、式の進行上、誰かが来るのを待つ時間です。たとえば定刻から半刻までの待機」
「はい」
「休止時間は、本人が声を出せなくなったり、体調を整えたりするために式を一度止める時間です」
「はい」
「この二つを同じ扱いにすると、本人のための休止が、誰かを待たせるものに見えてしまいます」
王妃殿下が、小さく頷いた。
「よい整理です」
「ありがとうございます」
「では、待機時間は上限と理由を明記。休止時間は本人の状態と再開手順を明記しましょう」
ミレーヌ女官長がすぐに書き留める。
「待機時間は、誰かの不在を扱う時間」
私は続けた。
「休止時間は、本人の意思を式に戻すための時間」
「その一文、使えますね」
ユリアが言った。
彼女がそう言うのは珍しい。
私は少しだけ驚いた。
「本当ですか」
「はい。内部説明に向いています」
「では、書いてください」
ヴィクトル様が即座に言った。
ユリアが書き込む。
自分の言葉が要綱の一部になっていくのを見るのは、不思議な気持ちだった。
嬉しいような。
怖いような。
でも、確かに意味がある。
王妃殿下は、しばらく私たちの作業を見守っていた。
そして、午後の終わり頃に言った。
「アリシア」
「はい」
「あなたを臨時補佐にした判断は、正しかったようです」
胸の奥が、静かに温かくなる。
「ありがとうございます」
「ただし、働きすぎてはいけません」
「はい」
「ヴィクトル」
「はい」
「あなたも、必要だと思う人材ほど働かせすぎる癖があります」
ヴィクトル様が、ほんのわずかに目を瞬いた。
私は思わず彼を見てしまった。
「私もですか」
「ええ」
王妃殿下は、涼しい顔で頷いた。
「あなたは自分もよく働くから、人にも同じように求めがちです」
「気をつけます」
「特に、アリシアには」
王妃殿下はそこで少しだけ笑った。
「彼女の時間を、勝手に予定へ入れないように」
ヴィクトル様は、真面目に頷いた。
「心得ています」
その返答があまりにも真剣だったので、私はどう反応すればよいか分からなくなった。
王妃殿下は、私の方を見て言う。
「アリシアも、嫌なら嫌と言いなさい」
「はい」
「仕事でも、茶でも」
「……茶、ですか」
「ええ」
王妃殿下は、実に穏やかに微笑んだ。
「王妃宮には、仕事以外の茶器もありますから」
ミレーヌ女官長が、今度こそはっきり目を伏せた。
ユリアは無表情のまま書類を整えているが、耳が少し赤い気がする。
ヴィクトル様は、いつも通りの顔で言った。
「王妃殿下。今は要綱作成中です」
「そうね」
王妃殿下は楽しそうに答えた。
「だから、仕事外の話は勤務後になさい」
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。
私は頬が熱くなるのを感じながら、手元の紙へ視線を落とした。
勤務後。
茶。
仕事外の話。
まだ、そういうことを考えるには早い気がする。
でも、嫌ではなかった。
それが少しだけ、私自身にも驚きだった。
夕方、王妃宮での確認が終わると、ヴィクトル様が廊下まで送ってくれた。
今日は馬車寄せまでではなく、王妃宮の小庭へ続く回廊だった。
「アリシア嬢」
「はい」
「今日の仕事はここまでです」
「はい」
「このあと、時間はありますか」
胸が、少しだけ鳴った。
私は王妃殿下の言葉を思い出す。
仕事でも、茶でも、嫌なら嫌と言いなさい。
「何の時間でしょうか」
「茶の時間です」
あまりにもまっすぐ言われて、私は少しだけ笑ってしまった。
「仕事の打ち合わせではなく?」
「違います」
「要綱作成の補足でもなく?」
「違います」
「登録院の今後の予定でもなく?」
「違います」
ヴィクトル様は、そこで少しだけ間を置いた。
「あなたと、仕事以外の話をしたいと思っています」
その言葉は、華やかな告白ではない。
けれど、今の私にはとても大きかった。
私の時間を、勝手に予約しない。
何の時間かを先に言う。
仕事ではないと明確にする。
その上で、私に選ばせる。
それが、こんなにも安心するものだとは知らなかった。
「今日は、少し疲れています」
「はい」
「でも、お茶一杯なら」
ヴィクトル様の目が、ほんの少しだけやわらいだ。
「では、一杯だけ」
「時間は」
「半刻以内」
「正確ですね」
「あなたの帰宅時刻を勝手に遅らせないためです」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
王妃宮の小庭には、すでに小さな茶卓が用意されていた。
けれど、席は二つだけではなかった。
少し離れた場所に、ミレーヌ女官長の控え席もある。
礼法上、最初の茶には必要なのだろう。
それがかえって、安心できた。
急に二人きりにされるのではない。
きちんと形式を整えた上での、仕事外の茶。
ヴィクトル様らしい。
茶は、淡い香りのするものだった。
甘すぎない焼き菓子が添えられている。
「お疲れでしたら、無理に話さなくても構いません」
ヴィクトル様が言った。
私は少しだけ笑う。
「それでは、お茶に誘った意味がなくなりませんか」
「同じ場所で黙って茶を飲むことも、仕事外の時間です」
「そういう考え方もあるのですね」
「はい」
私は茶を一口飲んだ。
温かい。
そして、少しだけ肩の力が抜ける。
「では、ひとつだけ」
「はい」
「ヴィクトル様は、なぜ婚姻登録院へ?」
彼は少しだけ考えた。
「家の都合です」
「大公家の?」
「はい。私は次男なので、家督を継ぐ立場ではありません。王家に近く、しかし軍や外交ほど表に出ない職務が必要でした」
「それで婚姻登録院へ」
「最初は、そうです」
「最初は?」
ヴィクトル様は茶器を置いた。
「今は、必要な仕事だと思っています」
「どのあたりが」
「婚姻は、華やかな式に見えます」
「はい」
「しかし、そこで誰かの意思が消えれば、その後の人生が歪みます」
私は、黙って聞いた。
「式は一日ですが、記録は長く残る。だから、式の日に誰が何を言ったか、誰が出席したか、誰が黙らされたかを軽く扱うべきではありません」
その言葉は、ヴィクトル様らしかった。
華やかではない。
でも、深く正確だった。
「私も、そう思います」
「はい」
「昨日までは、そこまで言葉にできませんでしたが」
「今は?」
「少しずつ、できるようになってきました」
「それは、よいことです」
また短い評価。
けれど、今は素直に受け取れる。
「ヴィクトル様」
「はい」
「今日のお茶は、仕事外の話でしたか」
「半分ほど」
「半分は仕事でしたね」
「失敗しました」
あまりにも真面目に言うので、私は笑ってしまった。
「でも、嫌ではありませんでした」
「では、次はもう少し改善します」
「次があるのですか」
言ってから、少しだけしまったと思った。
けれど、ヴィクトル様はまっすぐ答えた。
「あなたが望むなら」
胸の奥が静かに鳴る。
望むなら。
その言葉が、今の私にはとても大切だった。
「では、次もお茶一杯なら」
「承知しました」
「ただし、予定は事前に」
「もちろん」
「仕事の後に、無理のない範囲で」
「もちろん」
「そして、仕事の話は半分以下で」
ヴィクトル様は、少しだけ真剣に考えた。
「努力します」
私は笑った。
夕方の小庭に、淡い風が吹く。
婚約式を終わらせた日から、まだそれほど時間は経っていない。
痛みはある。
でも、痛みだけではない。
仕事がある。
評価がある。
そして、私の時間を勝手に使わない人と飲む、半刻のお茶がある。
茶が終わると、ヴィクトル様は本当に半刻で席を立った。
「時間です」
「正確ですね」
「約束しました」
「はい」
「馬車寄せまで送ります」
「お願いします」
小庭を出ると、王宮の回廊には夕方の光が差していた。
私はその光の中を、ヴィクトル様と並んで歩いた。
半歩前でも、後ろでもなく。
隣を。
今日、王妃殿下は私の仕事を評価してくれた。
登録院では新しい要綱が始まった。
そして、私は仕事外の茶を一杯飲んだ。
それだけのことが、私の中ではとても大きかった。
私はもう、待合室に座っている令嬢ではない。
自分の席があり、自分の仕事があり、自分の時間がある。
その時間をどう使うかを、これから少しずつ、自分で決めていくのだ。
読んでいただきありがとうございます。
第十五話は明日18:10に投稿予定です。
次回は、ディオンとセシリア側の現状が少し見えてきます。
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