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婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました【連載版】  作者: 本城オブリゲータ


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第十三話 妹を見捨てずに、姉を待たせない方法があります

 ルイーザ・ベルモント令嬢の婚約式当日、王家婚姻登録院には朝から王妃宮の女性医師が来ていた。



 エレナ・ベルモント令嬢の体調確認のためだ。

 当初、ベルモント伯爵家は婚約式そのものを二月延期したいと願い出ていた。


 けれど、診断書にあった安静期間は二週間。

 そして花嫁本人であるルイーザ様は、五日後の婚約式を予定どおり行いたいとはっきり望んでいた。


 だから登録院の判断は決まった。

 婚約式は予定どおり行う。

 ただし、妹エレナ様への配慮は切り捨てない。


 体調が許せば、神殿内の控え室から短時間だけ式を見られるようにする。


 難しければ、式後にベルモント家で家族祝福の時間を設ける。

 式そのものは止めない。

 でも、妹を見捨てるわけでもない。


 その形を作ることになった。



「アリシア補佐」



 ユリア書記官が、確認室の扉から顔を出した。



「王妃宮の女性医師から報告です」


「エレナ様のご様子は」


「移動は可能。ただし、長時間の参列は不可。神殿の控え室で座ったまま、式の一部を見る程度なら許可できるとのことです」


「中礼拝堂へ入るのは」


「不可です。人が多い場所に長くいると熱が上がる可能性があります」


「分かりました」



 私は手元の進行表へ印をつけた。


 中礼拝堂には入れない。

 けれど、控え室で短時間なら見られる。


 ならば、そこに配慮を置けばいい。



「控え室は、どこを使えますか」


「中礼拝堂の北側小室です。扉を細く開ければ、祭壇の声は聞こえます。ただし、姿は少し見えにくいです」


「窓側の椅子ではなく、扉側に長椅子を置いてください。エレナ様が横になりたくなった時のために、奥に寝椅子も」


「手配済みです」


「さすがですね」


「登録院ですので」



 ユリアは表情を変えずに答えた。


 その返しに、私は少し笑ってしまった。

 この場所のそういうところが、だんだん好きになっている。

 誰かの善意や我慢に頼るのではなく、必要なものを必要な場所に置く。


 それが人を守ることを、私はここへ来てから何度も見てきた。



 確認室の奥では、ヴィクトル様がベルモント家への最終通知を読んでいた。


 今日の彼は、神殿式用の紺の礼装を着ている。

 飾りは少ない。

 けれど、王家婚姻登録院の監督官としての銀徽章だけは、いつもよりはっきり見えた。



「ヴィクトル様」


「はい」


「エレナ様は北側小室で短時間見学。中礼拝堂への入場は不可。式後の家族祝福は、体調次第で別室にて短く行う形でよろしいでしょうか」


「よろしい」


「ベルモント伯爵夫妻には」


「すでに通知済みです。ただし、夫人は中礼拝堂に入れたいと再度言うでしょう」


「そうでしょうね」


「その場合は、医師の診断を示してください」


「はい」


「それから」



 ヴィクトル様は、私を見た。



「ルイーザ嬢本人への確認は、あなたが行ってください」


「私が?」


「昨日、彼女の意思を一番近くで聞いたのはあなたです」


「……分かりました」


「ただし、説得ではありません」


「確認ですね」


「はい」



 その言葉に、私は頷いた。


 説得ではない。

 登録院で何度も学んだことだ。


 本人がどうしたいかを聞く。

 その意思が、家や感情に覆われていないかを見る。

 そして、必要なら式の形を整える。


 私は資料を手に取り、ルイーザ様の控え室へ向かった。



 ルイーザ様は、すでに婚約式用の衣装をまとっていた。


 深い白ではなく、少しだけ青みを帯びた上品なドレス。

 袖口には小さな銀糸。

 髪には、淡い花飾りが一つ。


 派手ではない。

 けれど、静かな覚悟が似合う装いだった。


 彼女は私を見ると、立ち上がった。



「アリシア様」


「本日はおめでとうございます」


「ありがとうございます」



 ルイーザ様は微笑んだ。


 けれど、その目元にはやはり少し緊張がある。

 私は一礼してから、まず確認した。



「エレナ様の体調について、王妃宮の女性医師から報告がありました」


「はい」


「中礼拝堂への参列は難しいそうです。ただし、北側小室で座ったまま、短時間だけ式を見ることは可能とのことです」


「そうですか」



 ルイーザ様は目を伏せた。

 その表情は、安堵とも悲しみともつかないものだった。



「式そのものは、予定どおり行います」


「はい」


「式後、エレナ様の体調が許せば、別室で短い家族祝福を行えます」


「はい」


「この形でよろしいでしょうか」



 ルイーザ様は、すぐには答えなかった。

 膝の前で手を組み、少しだけ息を吸う。

 それから、静かに言った。



「はい」


「無理をしていませんか」


「しています」



 正直な返事だった。


 私は少しだけ目を見開いた。

 ルイーザ様は、かすかに笑う。



「無理をしていないと言えば、嘘になります。エレナが来られないことは、やはり寂しいです」


「はい」


「でも、婚約式を延期したいわけではありません」


「はい」


「エレナを大切に思うことと、私の婚約式を進めることは、両方あっていいのだと、昨日少し思えました」



 私は胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。

 それは、まさに今日作ろうとしている形だった。



「あります」



 私は答えた。



「その二つは、両立できます」


「本当に?」


「少なくとも、そうなるように整えます」



 ルイーザ様は、少しだけ目を潤ませた。



「ありがとうございます」


「それから、もう一つ確認します」


「はい」


「もし式の途中で、ベルモント伯爵夫人からエレナ様のために式を止めたいという申し出があった場合」



 ルイーザ様の表情が少し硬くなる。



「あなたは、式を続けたいですか」


「続けたいです」


「記録してよろしいですか」


「はい」



 彼女は、はっきりと言った。



「私は、今日、マティアス様と婚約します」



 その一言は、昨日の面談で聞いたどの言葉よりも強かった。

 私は頷く。



「承知しました」


「ただ、式が終わったら」


「はい」


「すぐにエレナのところへ行ってもいいですか」


「もちろんです」


「その時、私は婚約者として行きます」



 ルイーザ様は、少しだけ笑った。



「姉としてだけではなく」



 私は、その笑みを見て、今日の式は大丈夫だと思った。


 もちろん、まだ何が起きるかは分からない。

 でも、花嫁本人の意思はここにある。

 なら、あとはその意思が式に届く場所を守ればいい。



 中礼拝堂の北側小室には、エレナ様が先に入っていた。


 十四歳の少女だった。

 白い顔に、薄い茶色の髪。

 身体は細く、膝には毛布がかけられている。

 側には王妃宮の女性医師と、ベルモント家の侍女。


 扉は細く開けられ、そこから中礼拝堂の祭壇の一部が見える。

 式全体を見渡せる位置ではない。

 けれど、声は聞こえる。


 鐘も聞こえる。

 それで十分だと、医師は判断した。



「エレナ様」



 私は小室へ入る前に一礼した。



「王家婚姻登録院のアリシア・エルヴェインです」


「……アリシア様」



 エレナ様は、少し驚いたように私を見た。



「姉様の婚約式を、止めないでくださった方ですか」



 その言葉に、胸が少し痛んだ。

 彼女の中では、そう聞こえているのかもしれない。



「止めないと決めたのは、ルイーザ様ご本人です」


「姉様が」


「はい」


「私は、邪魔でしたか」



 その問いは小さかった。

 けれど、鋭かった。


 私はすぐには答えなかった。

 気休めを言ってはいけないと思ったからだ。



「邪魔ではありません」



 私は言った。



「けれど、あなたの体調を理由に、ルイーザ様の婚約式を二月延期することはできませんでした」



 エレナ様の目が揺れる。



「私は、姉様の式を見たかっただけです」


「はい」


「でも、お母様が、私が出られないなら延期すればいいと」


「そうですか」


「私は、そこまでしなくてもいいと言いました」



 私は少しだけ息を止めた。



「言ったのですか」


「はい」



 エレナ様は、毛布の端を握る。



「でも、お母様は、私が我慢しているだけだと。きっと後で泣くと」


「……」


「私は、たしかに泣くかもしれません」



 彼女は、少しだけ笑おうとした。



「でも、姉様の婚約式がなくなる方が嫌でした」



 その言葉を、私はしっかり胸に刻んだ。


 この案件は、さらに少し形を変えた。

 妹のために式を止めようとしていたのは、妹本人ではなかった。


 母親の不安だったのだ。

 エレナ様もまた、自分の病弱さを理由に姉の式が止まることを望んでいなかった。



「そのお気持ちは、ご両親へ伝えましたか」


「伝えました」


「届きましたか」


「分かりません」



 エレナ様は目を伏せた。



「私はすぐ疲れるので、強く言えません。母は、私が弱いから遠慮しているのだと思ってしまいます」



 私は少し考えた。


 エレナ様を式場へ入れることはできない。

 長時間の負担になる。

 けれど、彼女の意思も記録すべきだ。



「エレナ様」


「はい」


「短い確認文を書けますか」


「確認文?」


「ルイーザ様の婚約式を予定どおり行うことを、あなたも望んでいると」


「書いていいのですか」


「あなたの意思ですから」



 エレナ様は、少しだけ目を見開いた。

 それから、小さく頷く。



「書きます」



 女性医師が体勢を整え、侍女が小さな書き板を持ってくる。

 エレナ様は、ゆっくりと文字を書いた。

 途中で一度休み、また書いた。



 私は、姉ルイーザの婚約式を予定どおり行ってほしいです。

 私は長く参列できませんが、ここから聞いています。

 姉様、おめでとう。



 最後の一文を見て、目の奥が少し熱くなった。

 それは、式を止めるための言葉ではない。


 式を進めるための祝福だった。



「この文を、ルイーザ様へお見せしても?」


「はい」


「ご両親にも?」



 エレナ様は少し迷った。

 そして、頷いた。



「見せてください」



 私はその紙を受け取った。


 紙は軽い。

 けれど、その中にはエレナ様の意思が入っている。


 病弱な妹。

 守られるだけの子。

 そう見られがちな彼女自身の言葉が。



 中礼拝堂へ戻ると、ベルモント伯爵夫人がちょうどミレーヌ女官長へ何かを訴えていた。

 やはり、と思う。



「せめて、式を少しだけ遅らせてください。エレナの熱が落ち着くかもしれません」


「医師の判断では、中礼拝堂への参列は不可です」


「でも、娘なのです」


「はい」


「姉の婚約式なのに、妹が見られないなんて」


「夫人」



 私は声をかけた。

 伯爵夫人が、こちらを見る。



「エレナ様から、確認文をお預かりしました」


「エレナから?」


「はい」



 私は紙を差し出した。

 夫人は震える手で受け取り、読み始めた。

 読み終える頃には、彼女の目から涙がこぼれていた。



「この子は……」



 伯爵夫人は呟いた。



「こんなことを書いて」


「エレナ様は、ルイーザ様の婚約式を予定どおり行ってほしいと望んでいます」


「でも、あの子は優しい子だから」


「はい」


「本当は寂しいはずです」


「寂しいことと、延期を望むことは違います」



 私は静かに言った。

 伯爵夫人の唇が止まる。



「エレナ様は寂しいでしょう。式を直接見られないことも、悔しいでしょう」


「……」


「でも、その上で、姉様おめでとうと書かれました」



 夫人は紙を握りしめた。

 けれど、もう式を止めるとは言わなかった。



「私は、あの子が可哀想で」


「はい」


「ルイーザなら、待ってくれると」



 その言葉で、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 待ってくれる。

 その言葉は、やはりどこにでもある。



「ルイーザ様も、たくさん待ってこられたのだと思います」



 私は言った。



「だから今日は、待たせないであげてください」



 伯爵夫人は、ゆっくり顔を上げた。

 涙で濡れた目には、初めてルイーザ様の姿が映ったように見えた。



「そう、ですね」



 小さな声だった。



「あの子も、ずっと待っていたのね」



 それだけ言うと、夫人は紙を胸元に押し当てた。

 ミレーヌ女官長が、静かに告げる。



「式を始めます」



 今度は、夫人も頷いた。



 ルイーザ様は、祭壇の前でマティアス様と向かい合った。

 中礼拝堂には、予定どおりの参列者だけがいる。

 北側小室の扉は細く開けられている。


 エレナ様には、医師がそばについている。

 彼女の書いた確認文は、すでにルイーザ様へ渡された。


 ルイーザ様はその紙を読んだ時、少しだけ泣いた。

 けれど、そのあとすぐに顔を上げた。



「妹が聞いていますから」



 そう言って、祭壇へ向かったのだ。

 立会神官が式を始める。



「これより、ルイーザ・ベルモントとマティアス・エルンの正式婚約を確認します」



 雨上がりの光が、礼拝堂の窓から差し込んでいる。

 小室の方から、かすかな衣擦れの音がした。

 エレナ様も、聞いているのだろう。



「マティアス・エルン。あなたは、ルイーザ・ベルモントとの婚約を望みますか」


「はい。望みます」



 マティアス様の声は、落ち着いていた。

 次に、神官がルイーザ様へ向く。



「ルイーザ・ベルモント。あなたは、マティアス・エルンとの婚約を望みますか」



 ルイーザ様は、少しだけ北側小室の方を見た。

 扉の向こうに、妹がいる。


 直接姿は見えない。

 でも、声は届く。

 彼女は、はっきり答えた。



「はい。望みます」



 その声は、中礼拝堂にも、小室にも届いた。


 小室の中から、小さくすすり泣くような音が聞こえた。

 けれど、式は止まらなかった。

 止める必要はなかった。


 署名。

 公証。

 登録印。

 すべて、予定どおり進んだ。


 そして、小鐘が二度鳴る。

 正式婚約成立の鐘。



 その音が響いた時、ベルモント伯爵夫人は泣いていた。


 でも、席を立たなかった。

 式を止めようともしなかった。


 ただ、胸元にエレナ様の確認文を抱いていた。



 式後、ルイーザ様はまっすぐ北側小室へ向かった。


 マティアス様も一緒だった。

 私たちは、少し離れた位置で見守る。

 扉の向こうで、エレナ様が小さく言った。



「姉様、おめでとう」



 ルイーザ様が答える。



「ありがとう。聞こえた?」


「聞こえました」


「私、婚約したわ」


「はい」


「式は、待たなかったわ」


「はい」



 エレナ様は、少し泣きながら笑った。



「待たなくてよかったです」



 その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥が熱くなった。


 妹自身が、そう言った。

 姉を待たせなくてよかった。

 それは、この式に必要な最後の確認だったのかもしれない。


 マティアス様が、控え室の入口で一礼した。



「エレナ様。これから、ルイーザ様と一緒にご挨拶に伺ってもよろしいでしょうか」


「はい」


「体調のよい時で構いません」


「ありがとうございます」


「でも、今日のお祝いだけ、先に言わせてください」



 彼は少しだけ笑った。



「僕たちを見守ってくださって、ありがとうございました」



 エレナ様は驚いた顔をした。

 それから、毛布を握りながら嬉しそうに頷く。



「はい」



 式後の家族祝福は、その小室で短く行われた。

 長い祈りではない。

 ただ、ルイーザ様とマティアス様がエレナ様のそばに座り、ベルモント伯爵夫妻も入って、マルタ神官が短く祝福の言葉を述べた。


 それで十分だった。


 妹を見捨てずに。

 姉を待たせずに。

 両方を、同じ日に置くことができた。



 すべてが終わった後、ベルモント伯爵夫人が私のところへ来た。


 目元は赤い。

 けれど、朝よりずっと落ち着いていた。



「アリシア様」


「はい」


「私は、ルイーザなら待ってくれると思っていました」



 私は黙って聞いた。



「あの子はしっかりしているから。姉だから。エレナのことを分かってくれるから」


「はい」


「でも、しっかりしている子だからと言って、待たせてよい理由にはならないのですね」


「はい」



 夫人は、深く頭を下げた。



「気づかせてくださって、ありがとうございました」


「私は補佐です」



 私は答えた。



「ルイーザ様とエレナ様が、それぞれご自分の意思を示されました」


「それでも」



 夫人は、涙をこらえながら言った。



「その意思を聞く場所を作ってくださったのは、登録院の皆様です」



 私は、少しだけ目を伏せた。

 それなら、受け取ってよい礼なのかもしれない。



「ありがとうございます」



 そう返すと、夫人はもう一度頭を下げ、家族のところへ戻っていった。


 確認室へ戻ると、ユリアが式後記録をまとめていた。

 ヴィクトル様は監督官印を押し、私へ報告欄を示す。



「アリシア嬢」


「はい」


「報告を」



 私はペンを取った。

 今日の記録を書く。



 ベルモント伯爵家延期願いは却下。

 婚約式は予定どおり実施。

 エレナ・ベルモント令嬢は医師の許可のもと、北側小室より短時間見学。

 本人確認文により、姉ルイーザの婚約式実施を望む意思を確認。

 式後、家族祝福を短時間実施。

 婚約式本体への影響なし。

 ルイーザ・ベルモントおよびマティアス・エルンの正式婚約、問題なく成立。



 書き終えた時、ヴィクトル様が言った。



「今日の所感は」


「妹を見捨てずに、姉を待たせない方法はありました」


「はい」


「ただし、それは自然に出てくるものではありません」


「続けてください」


「誰かが、姉の時間も妹の体調も、どちらも軽く扱わない形を探さなければならない」


「その通りです」


 ヴィクトル様は頷いた。



「それが、今日の登録院の仕事でした」


「はい」


「あなたの仕事でもありました」



 私は少しだけ息を吐いた。


 今日の案件は、やはり痛かった。

 けれど、痛いだけではなかった。


 ルイーザ様が「式は、待たなかったわ」と妹へ告げた時。

 エレナ様が「待たなくてよかったです」と答えた時。

 私の中の何かも、少しだけ救われた気がした。



「ヴィクトル様」


「はい」


「私の時も、こういう方法があったのでしょうか」



 問いながら、自分でも答えは分かっていた。


 ヴィクトル様は、すぐには答えなかった。

 少しだけ考えてから、静かに言う。



「方法は、ありました」


「……」


「ディオン令息が、神殿へ連絡する方法。医師をセシリア嬢へ向かわせる方法。式後に見舞う方法。延期を正式に申し出る方法」


「はい」


「彼は、そのどれも選ばなかった」



 胸の奥が痛んだ。

 でも、その痛みはもう、私を戻そうとはしない。



「だから、私は終わらせたのですね」


「はい」


「成立させないことで、守った」


「はい」



 昨日と同じ言葉。


 けれど、今日の方が少し深く分かった。

 私は婚約式を失ったのではない。


 失われかけていた自分の時間を、最後に守ったのだ。



「今日も、よい補佐でした」



 ヴィクトル様が言った。

 私は、今度は素直に微笑んだ。



「ありがとうございます」


「今日は、分かりやすかったですか」


「はい」


「では、改善しています」


「とても」



 ユリアが横で、また小さく咳払いをした。


 たぶん笑っている。

 私は少し頬が熱くなったが、もう以前ほど気にならなかった。



 馬車寄せへ向かう頃、雨は完全に上がっていた。

 神殿の石畳が夕日に光っている。

 ヴィクトル様は、いつものように私の隣を歩いた。



「明日は休務にしますか」


「明日も出勤します」


「無理は」


「していません」


「本当に?」


「少しはしています」


「では、午後から」



 即座に調整されて、私は笑ってしまった。



「私の意思確認は?」


「午後から出勤したいですか」


「はい」


「では、本人意思確認済みです」


「便利ですね、その言い方」


「便利ですが、乱用はしません」


「お願いします」



 馬車が来る。

 私は扉に手をかける前に、神殿の方を見た。



「今日の鐘は、エレナ様にも聞こえましたね」


「はい」


「それで十分だったのかもしれません」


「十分以上です」



 ヴィクトル様は言った。



「式を止めずに、届く場所を作りました」



 私は頷いた。



「明日も、その場所を作れるようにします」


「午後から」


「はい。午後から」



 そう答えると、ヴィクトル様はほんの少しだけ笑った。



 馬車が動き出す。


 窓の外で、王家婚姻登録院と聖アリア神殿が遠ざかっていく。

 今日、私はまた一つ見た。

 配慮とは、誰かを待たせることではない。


 誰かの時間を奪わない形で、必要な場所を作ることなのだ。



 妹を見捨てずに。

 姉を待たせずに。



 その両方ができる場所を、私はこれからも探していく。

読んでいただきありがとうございます。


第十四話は明日18:10に投稿予定です。

次は、王妃宮からの正式評価と、ヴィクトルとの距離が少し進む回になります。


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