第5話
あいつら……。
世界が侵食されている……。
統合失調症による妄想だろうか。
明彦は父親の話の要点をカルテに書き込みながら、頭の片隅で考える。
統合失調症の妄想は大きく分類して「被害妄想」、「関係妄想」、「誇大妄想」に分類される。被害妄想では「周囲から監視されている」、「嫌がらせや毒を盛られている」と信じ込む。一方で関係妄想では「すれ違った人が咳をしたのは自分をバカにしているからだ」など、無関係な出来事を自分に関連付けて捉える。誇大妄想は自分が特別な能力や偉大な使命を持っていると信じるというものだ。
一見すると、亜由美の症状は被害妄想のようにも見える。
統合失調症における患者の中には、自分の心や境界が外から乗っ取られたり、侵されたりしているように感じる症状を示す者もいる。
ただ、亜由美は、自分が侵食されるのではなく、世界が侵食されていると言ったという。一般的な被害妄想とも違うようにも感じる。
カルテに書き込み終えると、明彦は椅子に座る父親の方に身体を向けた。父親は依然として青白い顔で何もない床を見つめていた。
「亜由美さんの症状としては、統合失調症による妄想かもしれません」
明彦の声に父親ははっと顔を上げ、怯えた表情で明彦を見た。
「統合失調症、ですか……?」
「はい」
「そう……ですか……」
「すみませんが、そのことに関して一つ質問させて下さい。
亜由美さんのご親族に、統合失調症を患ったことのある方はいらっしゃいますでしょうか」
「……私の親族にはいません。妻の親族にもいないと思います」
父親は小さく首を横に振った。
統合失調症の明確な原因はまだ解明されていない。
もともと病気になりやすい遺伝的要因や生物的要因に、日々の環境要因が重なることで発症すると考えられている。環境要因とはいわゆるストレスのことだ。ただ、亜由美の親族には統合失調症の患者はいないようだ。しかし、家族や血縁者に患者がいる場合は発症リスクが高まると言われているが、統合失調症は特定の遺伝子で決まるものではない。中には、突然変異のように平穏な家族の中に「統合失調症」という変異体が生まれることもある。
父親の話では、一ヶ月前に亜由美が会社で倒れる以前は特に問題なく日常生活を送っていたとのことなので、そのときまでは現在の「妄想」といった異常は見られなかったと考えられる。会社で倒れたことをきっかけに亜由美の「妄想」が始まったのだとしたら、会社で亜由美の精神に大きな負荷のかかる出来事が発生したのかもしれない。
その日、亜由美の身に何が起こったのか。
職場の同僚の話では、倒れる直前に亜由美は「どうして……」と呟いたという。なぜ亜由美は「どうして……」と呟いたのか。「どうして……」という言葉の意味は何なのか。
明彦はカルテに書き込む手を止めて少し考える。
やはり、亜由美の症状には統合失調症と決めつけられない何かがあるような気がした。
明彦は亜由美の様子をもう少し観察したほうがいいだろうと考え、看護師に指示して亜由美と母親を病室に戻す。母親に抱きかかえられるようにして診察室に入ってきた亜由美は相変わらず「人形」のような無表情で白い顔をしていた。




