第6話
「亜由美さん」
明彦は亜由美に話しかける。相変わらず亜由美は反応しない。その目は明彦の後ろの空間を見るともなく見ている。いきなり核心部分を尋ねるよりは、まずは当たり障りのない会話をして亜由美の反応が見たほうがいいだろう。明彦はそう判断して再び口を開く。
「ここがどこだか分かりますか?」
「……」
「病院です。亜由美さんの身体の様子を心配したお父様とお母様が亜由美さんを病院に連れてきたんです」
「……」
「お父様のお話では、ずっと自分の部屋にこもっているようですね。自分の部屋ではどのようなことをして過ごしているのですか?」
「……」
「何か心配事や、気になっていることがあったりはしますか?」
「……」
亜由美は何も答えない。
明彦の一方的な会話を、父親と母親は心配そうに見ていた。もう少し核心部分に触れてみよう。明彦は言葉を慎重に選びながら再び亜由美に話しかける。
「亜由美さんが会社で倒れた日、亜由美さんの身に何があったのか、教えていただけませんか?」
「……」
「亜由美の会社の同僚の話だと、亜由美さんが倒れる直前、亜由美さんが『どうして』と呟くのを聞いたそうなのですが、なぜ『どうして』と呟いたのか、覚えていますか」
「……『どうして』?」
亜由美が初めて反応した。明彦の後ろを彷徨っていたその視線が、カメラの焦点が合っていくかのように明彦の顔に定まっていく。明らかに自分の意志で明彦のことを見ている。
やはり、その日、会社で亜由美の身に何かが起こったのだろう。
何かを見た。
あるいは、何かを聞いた。
その「何か」とは何なのか。
明彦はもう少し踏み込んだ質問をすることにした。
「会社で倒れて病院に運ばれた後、亜由美さんはその病院でお父様に『世界はあいつらによって侵食されている』と言ったそうですね。『あいつら』とは誰のことですか? 『侵食されている』とはどのような意味ですか?」
「……先生は」
初めて聞く亜由美の声は、ひどく掠れていた。
亜由美の顔がみるみる恐怖によって歪んでいく。ただ、その視線は理性を保ったまま明彦を見つめていた。統合失調症の患者とは何かが違う。それが具体的に何かは分からなかったが、明彦のそれまでの精神科医としての経験が、そのような印象を明彦に抱かせた。
「先生は、『あいつら』の仲間ですか……?」
明彦は亜由美を安心させようと、「私は『あいつら』の仲間なんかではないよ。私は、君の味方だよ」と亜由美に話しかける。だけどその言葉が亜由美に届くことはなかった。
ううううう。
亜由美は顔をうつむかせ、獣のように低い声で唸り出す。ひどく不気味でひどく人の心を不安にさせるような声だった。その声が人間の口から発せられたとはにわかには信じられなかった。
顔をうつむかせたまま、突然亜由美は「嘘だ!」と叫んだ。
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!
『あいつら』は誰にもなりすますことができる。そうやって、この世界に侵食していっている。この世界を乗っ取ろうとしている。
お前も『あいつら』の味方なんだろう。そうなんだろう。私が気付かないうちに、私の周りの人間に成り代わり、そして最終的には私に成り代わるつもりなんだろう!」




