第3話
「娘は、亜由美は、一ヶ月前までは何も変わったことは無かったんです……。
亜由美は大学を卒業してから地元の会社に就職して、事務職として働いていました。その会社は実家から通える距離にあり、実家からその会社に働きに出ていました。兄弟はいません。一人っ子です。いずれ亜由美が結婚するときは実家を出ることになるだろうから、それまでは実家住まいをしていても構わないだろうと、私たち三人での生活を続けていたのです。私としても娘が近くにいることは安心でもあったので、そのことに何もいいませんでした。
そして一ヶ月前のことです。
亜由美の勤める会社から突然実家に電話がかかってきました。
私は仕事に出ていたので家にはいませんでした。家には妻一人がいました。妻がその電話に出ると、亜由美の上司を名乗る男性が、『亜由美さんが会社で倒れました』と言ったそうです。救急車を呼んで近くの病院に運ばれたとのことでした。
妻は動転しながら私の携帯に電話をかけてきました。
今まで仕事中に妻から私あてに電話がかかってきたことなんてありませんでした。だから私は家族に何かがあったのかと慌てて電話に出たのです。
妻の話は要領を得ませんでした。
それも仕方ないことかもしれません。だって、いきなり亜由美の上司を名乗る男から家に電話がかかってきて、妻は突然、自分の娘が倒れて病院に運ばれたと告げられたのですから。私でもこのような電話を受けたとしたら、妻と同じように慌ててしまっていたと思います。私は何とか、亜由美が運ばれた病院の名前と場所だけを聞いて電話を切りました。
私が病院に駆けつけると、すでに妻は着いていて亜由美の病室にいました。亜由美は白い顔をして眠っていました。そこには医師もいたので話を聞くと、検査をしたところでは何の異常もないとのことでした。おそらく発作は心理的な要因によるものだろうとのことでした。
亜由美は数日眠り続けました。
その間、私は亜由美の上司から、亜由美が会社で倒れたときの様子を聞きました。上司の男性も、『原因は分かりません』という言葉を繰り返しながらも、亜由美が倒れた時に近くにいた同僚から聞いたという話をしてくれました。その同僚によると、デスクの上で作業をしていた亜由美が突然手を止め、そしてがたがたと震えだし、『どうして……』と一言つぶやいて気を失ったというのです。
なぜ亜由美が『どうして』とつぶやいたのか。
上司も、そしてそれを目撃した同僚も分からないとのことでした。
私たちは亜由美の身に何が起こったのかも分からず、ひたすら亜由美が目を覚ますのを待ち続けました。
そして三日後、亜由美は突然目を覚ましました。
初めに気づいたのは私でした。妻は付き添いの疲れを癒すために自宅に帰っていました。
人形のような白い無表情の顔のまま、何の前触れもなく両目をぱっと開いたのです。私は、『亜由美』と声をかけました。その声は亜由美には聞こえていないようでした。亜由美の無表情の顔は、怯えによってひきつった顔に変わり、しきりに眼をきょろきょろと動かしていました。
『亜由美……亜由美、どうしたんだ?』
私の言葉に、亜由美の視線が初めて私に向きました。そして亜由美は震える声で呟きました。
『あいつらは、どこ……?』
『あいつら? あいつらって、誰のことだ?』
私が問い返すと亜由美は怯えた表情のまま、小さく首を横に振りました。
『この世界は、あいつらに少しずつシンショクされている……』
私は始め『シンショク』の意味が分かりませんでした。
亜由美は言葉を続けました。
『あいつらに目をつけられないように、私は自分の存在を消さなければならないんだ……』
私は亜由美の怯えた目を見て、唐突に『シンショク』とは『侵食』のことだと気づいたのです」




