「蛍」
金曜日の夜。
今週は忙しかった。入社三ヶ月目に入って、そろそろ新人扱いが薄れてきた。先輩の補助ではなく、自分の担当が増えてきている。VRインターフェースの描画最適化。結局ゲームの技術を仕事にしているのだから、人生は面白いものだ。
冬夜はいつも通り帰宅して、いつも通り夕飯を食べた。今日は自分で作った。野菜炒めと味噌汁。宮瀬に「自炊した」と報告したら、「えらい!」のスタンプが三連で返ってきた。
スマホの画面で、セレスがスタンプの上に座っていた。
「トワ、えらいのスタンプ、みっつ」
「三つは多いな」
「タマキ、うれしかった。トワがごはんつくると、うれしくなる」
「そういうものか」
「そーゆーもの」
20時半。VRヘルメットを被った。
◇
リベルタの噴水広場にログインすると、タマキがもう待っていた。
「あの、トワさん! 早速ですが、今日はお願いがあるんです」
「何だ?」
「薬草を摘みに行きたいんです。リベルタの東の丘に、この季節だけ咲くカモミールに似た花があるって聞いて。それでハーブティーのブレンドを試したくて」
「薬じゃなくて、茶か」
「お茶も薬の一種ですよ。飲んでほっとするのが効能です」
「まあ、散歩の目的地としては悪くないか」
「でしょう? ほら、早く行きましょう!」
セレスがトワの肩で首を傾げた。
「やくそー、おいしい?」
「薬草は食べるものじゃなくて、お茶にするんだよ、セレスちゃん」
「おちゃ。のめる?」
「飲めるよ。美味しいお茶にするからね」
「じゃあ、いく」
リベルタの東門を出た。夜の道だ。街灯の光が途切れて、月明かりだけになった。金色の足跡が暗い道に淡く光っている。
丘への道は緩やかな坂で、両側に草が茂っている。昼間はプレイヤーが行き来するが、夜はほとんど人がいない。虫の声と、草を踏む足音だけ。
五分ほど歩いた時、セレスが声を上げた。
「トワ。ひかってる。くさのなかで、なにか、ひかってる」
草むらの中に、小さな光が浮いていた。黄緑色の光。ゆっくりと点滅しながら、ふわふわと漂っている。
「蛍だ」
「ほたる?」
「六月の夜に光る虫だ。求愛のために光るらしい」
「きゅーあい。すきなひとに、ひかるの?」
「そういうことらしい」
一匹だけではなかった。坂道の両側の草むらから、ぽつ、ぽつと光が浮かび上がってくる。五匹、十匹、二十匹。丘の斜面が、黄緑色の小さな灯りで満ちていった。
「わあ……」タマキが足を止めた。「きれい。こんなにたくさんいるんですね」
「浄化の後、虫の種類が増えたと聞いた。蛍もその一つかもしれないな」
蛍たちが、ゆっくりと光っている。明滅のリズムはばらばらだが、時々偶然揃う瞬間がある。一斉にふっと光って、一斉にふっと消える。その瞬間だけ、丘全体が呼吸しているように見えた。
テンがブーツの上で光った。
いつもの一回きりの光ではなかった。テンが蛍の点滅に合わせて、自分の甲殻を光らせている。蛍がゆっくり点灯すると、テンもゆっくり点灯する。蛍が消えると、テンも消える。
「テンちゃんが……蛍のリズムに合わせてる」タマキが小声で言った。
「ああ、光で真似しているんだ」
テンの光は蛍の黄緑色とは違う、白い光だ。でもリズムが同じだった。テンが蛍の言葉を覚えようとしているみたいに、丁寧に点滅を重ねている。
すると、蛍が一匹、テンに近づいてきた。
ブーツの上のテンの周りを、ゆっくり一周した。テンが光った。蛍も光った。テンが消えた。蛍も消えた。
「……おはなし、してるのかな」セレスが小声で言った。声を出すと蛍が逃げてしまいそうで、セレスにしては珍しく小さな声だった。
「何を話しているかは、テンにしかわからないが……たぶんそうだ」
蛍がもう一匹寄ってきた。三匹目。四匹目。テンの周りに蛍が集まっている。テンの白い光と蛍の黄緑の光が、交互に明滅して、小さな光の輪ができた。
テンの甲殻が、いつもより少しだけ明るく光った。嬉しい時の光だ。
メブキが頭の上で、双葉をそっと揺らした。声は出さない。テンの時間を邪魔しないように、見守っている。
ルーナが影の中から、ぽつりと呟いた。
「……テン、楽しそう。よかった」
五人で黙って蛍を見ていた。テンが蛍と光を交わしている。誰も急かさなかった。時間はないのに、誰も「そろそろ行こう」と言わなかった。
◇
十分ほど蛍を見てから、丘の上に着いた。
テンの周りからは蛍が離れていったが、テンはしばらく蛍のリズムで点滅し続けていた。覚えた言葉を反芻するように。
丘の頂上に、白い小さな花が群生していた。月明かりの下で、花びらが銀色に光っている。
「これです! 星夜草。カモミールに似てるけど、BCO固有の薬草で、リラックス効果が高いんです」
タマキが鞄から小さな採取バサミを取り出して、花を摘み始めた。丁寧に、茎の根元から切る。薬師の手つきだ。
「トワさん、少し待っててくださいね。すぐ終わりますから」
「急がなくていい。景色がいいからな」
丘の上からリベルタの街灯が見えた。遠くに海が光っている。月が水平線の上にかかっていて、海面に銀色の道が伸びていた。
セレスがトワの肩から丘の景色を見渡した。
「トワ。ここ、たかい」
「丘の上だからな」
「たかいところから、まちがみえる。セレスのかたのうえからみるせかいと、にてる」
「セレスの肩の上?」
「トワのかたのうえが、セレスのせかい。セレスは、トワのかたのうえから、ぜんぶみてる。トワのうえからみるまちは、おかのうえからみるまちと、おなじくらい、きれい」
「そうか。俺の肩はそんなにいい場所か」
「いちばんいー。いちごジャムのつぎに」
「いちごジャムの次か。相変わらず二位だな」
「にい、えいえんのにい。でも、にいは、わるくない。いちばんのつぎに、だいじなばしょ」
タマキが薬草を摘み終わった。小さな布袋がいっぱいになっている。
「摘めました! じゃあ、ここでお茶を淹れてみますね」
タマキが携帯調合セットを広げた。小さな銅の鍋。水筒の水。薬草の花弁を数枚ちぎって、湯を沸かして、花弁を入れた。丘の上に、甘い花の香りが漂った。
「いいにおい」セレスが鼻をひくひくさせた。
「でしょう? 星夜草は香りが強いんです。少し蒸らしたら飲めますよ」
三分間。タマキが小さなカップに注いだ。トワの分と、セレスの手のひらサイズの分と、自分の分。
「どうぞ! 星夜草のハーブティーです」
セレスが両手でカップを持って、ふーふーと息を吹きかけた。小さなカップから立ち上る湯気が、月明かりの中で白く揺れた。
一口飲んだ。
「……」
「セレスちゃん、どう?」
「にがい」
「あ、苦い? 蒸らしすぎたかな」
「にがい。でも、あとから、あまい。くちのなかで、おはながさく、みたいなあじ」
「お花が咲く味……なるほど、そういう表現もあるんだ」
トワも飲んだ。確かに最初に苦味が来て、その後に花の甘さが口の中に広がる。
悪くない。むしろ、いい。
「うまいぞ、これ」
「ほんとですか?」タマキが嬉しそうに顔を上げた。「トワさんがうまいって言ってくれると、自信が持てます」
「本当のことを言っただけだ」
「本当のことを言ってくれるトワさんが好きです」
「……茶がうまいという話をしていたはずだが」
「お茶の話から、トワさんが好きという話に発展しちゃいましたね」
セレスがカップの中を覗き込んだ。残りの半分を、ゆっくり飲んだ。
「のみおわった。おいしかった」
「よかった。セレスちゃんに気に入ってもらえたなら、このブレンドは成功ですね」
「タマキ、おちゃのてんさい」
「天才は言い過ぎだよ、セレスちゃん」
「てんさいじゃなかったら、なに?」
「……薬師、かな。お茶も薬の一種だから」
「じゃあ、タマキは、おちゃのくすし。おちゃくすし」
「お茶薬師。新しい肩書きですね」
テンがブーツの上で光った。蛍のリズムはもう消えていて、いつものテンの光に戻っていた。一回だけの、穏やかな光。お茶の時間が好きなんだろう。
◇
21時20分。丘を下りた。
帰り道、蛍はまだ光っていた。テンがまた蛍のリズムに合わせ始めた。
「テン、また蛍とおはなしだね」セレスが嬉しそうに言った。
「テンちゃん、蛍が好きになったんですかね」タマキが微笑んだ。
「光で話せる相手は、テンにとっては珍しいんだろうな。俺たちは言葉で話すが、テンは光しかないからな」
「光しかないから、光で話せる相手が嬉しいんですね。……なんだか、すてきですね」
テンの周りに蛍が数匹、また寄ってきた。白い光と黄緑の光が交互に明滅する。テンのための会話を、邪魔しないように少し離れて歩いた。
リベルタの東門が見えた。
「テン。そろそろ帰るぞ」
テンが一回光った。了解の光だ。蛍たちが離れていった。テンが最後にもう一回光った。さよならの光なのか、また来るの光なのかは、テンにしかわからない。
噴水広場に戻った。
「トワさん。今日のお茶、もう少し改良してみますね。苦味を抑えたバージョンも作ってみます」
「楽しみにしている」
「えへへ……楽しみにしてくれるの、嬉しいです。おやすみなさい、トワさん」
「おやすみ」
タマキがログアウトした。
セレスがトワの肩で、小さく欠伸をした。
「トワ。きょうは、ほたると、おちゃ」
「ああ、いい夜だった」
「テン、ほたるとなかよくなった」
「そうだな。テンにとっていい出会いだったかもしれない」
「であいは、だいじ。セレスもトワにであったから、いまここにいる」
「そうだな。出会いは大事だ」
「あしたも、なにかにであえるかな」
「歩いていれば、何かには出会えるだろう」
「たのしみ」
ログアウトした。
ヘルメットを外した。スマホを見た。
画面の隅でセレスが丸くなっている。通知ランプのあたりでテンが点滅していた。蛍のリズムで光っている。まだ覚えているらしい。
宮瀬からメッセージが来ていた。
『今日のお茶、苦味の調整メモしました。明日の夜、改良版を試してもいいですか?』
『ああ。楽しみにしている』
『やった! あと蛍、また見に行きたいです。テンちゃんが蛍と光ってるの、すごく可愛かった!』
エクスクラメーションマークが二つ。宮瀬の嬉しさは、いつも記号の数でわかる。
窓の外を見た。現実の空には蛍はいないが、星がいくつか光っていた。テンと蛍の会話を思い出しながら、冬夜は歯を磨いて、電気を消した。




