「ただいま」
六月の水曜日。
冬夜はいつも通りの時間に退社して、いつも通りの電車に乗って、いつも通りの道を歩いて帰ってきた。社会人になって三ヶ月。通勤路はもう足が覚えている。BCOの一万時間に比べれば、三ヶ月の通勤路なんて散歩の始まりにもならない距離だ。
靴を脱いで、鞄を置いて、スマホを見た。
画面の隅に、小さなセレスが座っている。
BCOの公式アプリ。誰よりも長く歩き続けた報酬としてトワに配布された、BCO Companionだ。トワのスマホとBCOのデータは同期していて、リアルタイムで会話することができる。
セレスが常駐していて、画面の下端からメブキの双葉が覗いていて、ルーナは画面のどこかの影に潜んでいて、テンは通知ランプのあたりで時々光っている。
「トワ、おかえり」
スピーカーからセレスの小さな声が聞こえた。
「ただいま」
「きょう、しごと、ながかった?」
「普通の長さだ。八時間だ」
「はちじかん、ながい。こっちのせかいであるいたほうが、たのしーのに」
「仕事と散歩は比べるものじゃないだろう。飯を食ってからログインする」
「はやくたべて」
「急かすな」
「ダメ、食べて」
「……仕方ないな」
冷蔵庫を開けた。宮瀬が週末に作り置きしてくれた肉じゃがが残っている。電子レンジで温めて、一人で食べた。味が沁みていて、二日目の方がうまい。宮瀬に言ったら喜ぶだろうなと思ったが、言うとまた「久坂くんに言われて嬉しいセリフ」のカウントが増えるので黙っておく。
20時半。食器を洗って、VRヘルメットを手に取った。
「セレス、行くぞ」
「やった!」
スマホの画面の中で、セレスの角がぴょこっと跳ねた。
ヘルメットを被った。
◇
始まりの町リベルタ。
ログインすると、噴水広場に立っていた。夜のリベルタだ。街灯と月明かりが石畳を照らしている。平日の夜だからプレイヤーの数は少ない。酒場の窓から暖色の光が漏れていて、どこか遠くからNPCの弾くリュートの音色が聞こえている。
肩の上に、セレスがいた。スマホの中の豆粒サイズではなく、いつもの大きさのセレス。銀色の髪と、月の角と、きらきらした瞳。
「トワ。リベルタのよる、すき」
「俺も好きだ」
一歩踏み出した。石畳に金色の足跡が残った。灯歩の起点の称号効果。一万時間を歩いた旅人だけに与えられた金色の光。
フレンドリストを開いた。タマキはまだログインしていない。宮瀬の方が帰宅が遅い日もある。調剤薬局は閉局時間が読みにくいと言っていた。
「タマキ、まだだな。先に歩くか」
「あるこ! きょうは、どこいく?」
「そうだな。星花の湖はどうだ。夜は静かだと聞いた」
「ほしばなのみずうみ! いく!」
メブキが頭の上で双葉をぴこぴこさせた。
「みずうみ、すき! ねっこがのびるから!」
「メブキは水辺が好きだな」
「みず、すき。つちもすき。みずとつちがあるばしょ、めぶきにとってさいこう」
ルーナは影の中にいる。声は聞こえないが、気配がある。テンはブーツの上で淡く光っている。
いつもの四体。
リベルタの南門を抜けて、草原の道を歩いた。夜の草原には虫の声がする。BCOの環境音は細かくて、季節や時間帯で虫の鳴き方まで変わる。六月の夜はコロコロという低い音が、草の間から足元に近い位置で聞こえてくる。
星花の湖。リベルタから徒歩二十分ほどの場所にある小さな湖だ。灯火の章の前は闇の汚染で立ち入れなかった時期もあったが、今は完全に浄化されて、水が透明に戻っている。
湖畔に着いた。
月が水面に映っている。波紋もない。夜空の月と水面の月が、上下に並んでいる。
「きれい」
セレスが角を傾けた。月光を受けて、角が淡く光る。
「トワ。ここ、しずかだね」
「モンスターも出ない。浄化されてからは、ただの湖だ」
「ただのみずうみ、いー。たたかわなくていー。すわっていー。それが、いー」
「そうだな」
湖畔の草の上に腰を下ろした。少し湿っている。六月の草だ。
メブキが頭の上から降りて、地面に根を張った。
「くるくる……いいつち。みずがちかいから、やわらかくて、あったかい」
双葉がゆったり揺れている。
その時、湖面が揺れた。
ぱしゃん。
魚が跳ねた。銀色の鱗が月光を反射して、一瞬だけきらりと光って、水に落ちた。
「あ」セレスが指を差した。「おさかな!」
もう一匹跳ねた。ぱしゃん。水面に輪が広がっていく。
「おさかな、とんでる」
「跳ねてるだけだ。水面に出た虫を食べに上がってくるらしい」
「むしをたべにくる。おさかなも、もぐもぐするんだ」
メブキの双葉がくるくる回った。
「くるくる! おさかな、そらをとぶの!? おさかなには、はねがあるの!?」
「羽はないよ。ジャンプしてるだけだ」
「じゃんぷ! めぶきも、じゃんぷできる?」
「メブキは根があるからな。根を張ったままでは跳べないだろう」
「ねっこ……ぬけない……じゃんぷ、できない……」
メブキが双葉をしょんぼり垂らした。三秒後に持ち直した。
「でも! ねっこがあるから、めぶきはめぶき! じゃんぷは、おさかなにまかせる!」
「その切り替えの速さは見習いたいものだな」
ルーナが影の中から、小さく笑った。
「……メブキ、かわいい」
「ルーナにかわいいっていわれた! くるくる!」
魚がまた跳ねた。今度は三匹続けて。ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん。水面がしばらく賑やかになって、また静かに戻った。
「おさかな、たくさんいる。トワ、つかまえられる?」
「釣竿がないと無理だな」
「てで、つかめない?」
「素手では厳しいだろう。ゼクスなら影の中から掴めるかもしれないが」
「ゼクスに、たのんでみよ」
「ゼクスを魚釣りに呼ぶのか?」
「いやかな、ゼクス」
「嫌がりはしないだろうが、無言で釣り糸を垂らすだけになりそうだな」
「それはそれで、よさそー」
「……まあ、そうかもな」
セレスがトワの肩から湖を見ている。金色の足跡が、湖畔の草の上にぼんやり光っていた。
パーティチャットが鳴った。
タマキ:「ログインしました! どこにいますか?」
トワ:「星花の湖。座標を送る」
タマキ:「湖! いいですね、すぐ行きます!」
五分後、タマキが走ってきた。薬師の鞄がガシャガシャ鳴っている。
「トワさん! おまたせしました!」
「走らなくてもよかったのに」
「平日にログインできる時間は、一時間しかないんですよ。一分でも惜しいんです」
タマキが隣に座った。息を整えて、湖を見た。
「わあ……きれい。月が水面に映ってますね」
「さっきから魚が跳ねている。セレスが気に入った」
「おさかな、ぱしゃぱしゃするの」セレスが教えてあげるように言った。
「ぱしゃぱしゃ」タマキが笑った。「セレスちゃん、可愛い」
「かわいくない。ほーこくしてるだけ」
「その報告が可愛いの」
魚がまた跳ねた。タマキが目を細めた。風が湖面をなぞって、水面の月がゆらゆら揺れた。
「トワさん。こういう時間、好きです」
「俺も悪くないと思っている」
「『悪くない』じゃなくて、『好き』って言ってほしいです」
「……好きだ」
「えへへ……」
セレスがトワの肩の上から、じっと二人を見ていた。
「トワ。タマキ。なかよし」
「仲良し、かどうかはわからないぞ」
「ダメ、なかよし。セレスもまぜて、まぜて」
「セレスちゃんは最初からいるでしょ」
「いるけど、まぜて、っていいたかった」
「じゃあ、まぜてあげるね」
「やった」
セレスがトワの肩からタマキの膝に飛び移った。タマキがそっと受け止めた。
「セレスちゃん、軽いね」
「せーれーだから、かるい」
「精霊は軽いんだ」
「かるい。でも、きもちは、おもい」
「……セレスちゃん、たまにすごくいいこと言うよね」
「たまにじゃない。いつも、いー」
「はい、いつもいーです」
テンがブーツの上で一回光った。同意の光だった。
◇
21時15分。
帰り道。リベルタに向かう草原の夜道を歩いていると、セレスが急に声を上げた。
「トワ。あっち。あかりがある」
道の先に小さな灯りが見えた。NPCの露店だ。夜のこの時間にまだ開いている店は珍しい。
近づいてみると、小さな屋台だった。パンを売っている。木の看板に「夜歩きの旅人さんへ」と手書きの文字がある。
「よあるきのたびびとさんへ。これ、トワのこと」
「俺だけに向けた店ではないと思うが」
「トワのことだよ。よあるきで、たびびとで、おなかすいてるの、トワだもん」
「腹は減っていないが」
「セレスは、へった」
NPC店主のおじいさんが、にこにこ笑っていた。
「いらっしゃい。夜の散歩帰りかい。焼きたてのパンがあるよ」
セレスの目が輝いた。
「パン! トワ、パン! パン!」
「わかった。二つくれ」
「みっつ! タマキのぶんも!」
「三つだ。くるみパンを三つ」
焼きたてのくるみパンを三つ買った。手に持つと温かい。NPCの屋台で焼きたてが出てくるのは、BCOの芸の細かさだ。
セレスがパンを受け取って、両手で抱えた。セレスの体の三分の一くらいの大きさがある。
「もぐもぐ」
一口齧った。角がぴかっと光った。
「おいしい! よるのパン、おいしい!」
「朝のパンと味は変わらないだろう」
「ちがう。よるにたべるパンは、よるのあじがするの」
「夜の味とは」
「つきのあかりと、くさのにおいと、おさかなのぱしゃぱしゃが、まざったあじ。ぜんぶまぜると、よるのあじになる」
「それは味ではなく雰囲気だと思うが」
「ふんいきも、あじのうち。セレスのじてんに、かいてある」
「セレス辞書か。宮瀬辞書と同じくらい自由な辞書だな」
タマキがパンを齧りながら笑った。
「わたしの辞書とセレスちゃんの辞書、どっちが正しいんですか」
「どっちもただしい。せかいには、じしょがふたつある。ふたつのじしょがただしいせかいは、いいせかい」
「ふふっ……なんだかすごく大きな話になっちゃったね」
金色の足跡が、夜の草原に連なっていた。
◇
21時半。
リベルタの噴水広場に戻った。
「ログアウトするか」
「はい。おつかれさまでした、トワさん。今日の散歩、楽しかったです」
「ああ、明日もログインする」
「わたしも。明日は少し遅くなるかもしれないですけど、待っててくださいね」
「待っている」
「えへへ……」
タマキがログアウトした。青い光になって消えた。
セレスがトワの肩の上で、ぽやっとしていた。パンの最後のひとかけらを齧り終えたところだ。
「トワ。きょうのさんぽ、よかった」
「ああ、よかった」
「あしたも、あるこうね」
「もちろん、歩こう」
「げんじつでも?」
「現実でも」
ログアウトした。
VRヘルメットを外した。現実の部屋。時計は21時半を過ぎたところだ。
窓を開けた。六月の夜風が入ってきた。少し蒸し暑いが、風は悪くない。
スマホを見た。画面の隅に、セレスが座っている。BCOの中で肩の上にいたセレスが、今はスマホの画面の中にいる。場所が変わっても、同じ顔で、同じように笑っている。
「トワ。おやすみ」
「おやすみ、セレス」
「あした、おしごとおわったら、またあるこうね」
「また歩こう」
テンが通知ランプのあたりで、一回だけ光った。
おやすみの合図だった。




