「釣り」
土曜日。
冬夜は九時に目を覚ました。目覚ましをかけない朝。社会人にとって、土曜日の朝の目覚ましなしは、ゲームのレアドロップに匹敵する喜びがある。
布団の中でスマホを見た。画面の隅でセレスがまだ寝ていた。丸まって、角の先がぴょこっと画面の端からはみ出している。通知ランプのあたりでテンが弱く光っている。寝ぼけているのか、点滅の間隔がいつもより長い。
ゆっくり起きて、トーストを焼いて、コーヒーを淹れた。休日の朝のルーティンだ。BCOではセレスに急かされるが、現実では誰も急かさない。……セレスが寝ている間は。
宮瀬から昨日の夜にメッセージが来ていた。
『明日は午後からログインしますね。午前中は買い物に行ってきます!』
午後からか。じゃあ午前中は一人で入るか、と思って昼前にヘルメットを被った。
◇
リベルタの噴水広場にログインした。昼のリベルタだ。陽が高くて、石畳が白く光っている。噴水の水が陽光を弾いて虹を作っていた。
広場のベンチに、見覚えのある黒い外套が座っていた。
ゼクスだ。
ベンチに深く腰を下ろして、腕を組んで、何もしていない。
「ゼクス。珍しいな、昼から」
「暇だった」
「暇で来たのか」
「暇以外の理由で来ることの方が少ない。最近は特にやることがないからな」
セレスがトワの肩から手を振った。
「ゼクス、ひま!」
「ああ、俺も暇だが、セレスもいつも暇だろう」
「ぜんぜん。セレス、あっちでもこっちでも、トワのそばにいて、いそがしー」
「……それは難儀なものだな」
「ぜくすは、ひまだと、ベンチにすわるんだね」
「影に潜って寝る方が好きだが、この町の影は浅くて寝心地が悪い」
ゼクスが立ち上がった。外套の裾を払う。
「トワ。どこか行くなら付き合うぞ」
「散歩でいいなら」
「いい。歩くだけでも、暇潰しにはなる」
二人で南門を出た。前に星花の湖に行った時と同じ道だ。昼間だと、草原の色が違う。緑が鮮やかで、花が咲いている。夜とは別の場所みたいだった。
「この前、ここで魚が跳ねていたんだ」
「魚か……」
「セレスが気に入ってな。素手で捕まえられないかという話になって、ゼクスなら影の中から掴めるんじゃないかと」
「影から魚を掴む? やったことはないが」
「そもそも釣竿がなかった。今日は買ってみるか」
「……釣りか」
ゼクスが少し考えて、頷いた。
「悪くないな」
◇
南門の近くに雑貨屋があった。NPC店主のおばさんが、「釣り竿ですか?」と聞き返した。冒険者が釣竿を買うのは珍しいらしい。
竹の釣竿を二本買った。餌用の虫かごと、小さなバケツ。合わせて120ゴールド。旅立ちの剣より安い。
「こんな細いもので魚が釣れるのか」ゼクスが竿を持って、怪訝そうな顔をした。
「振り回すものじゃないぞ。糸を垂らして待つんだ」
「待つのか」
「釣りとはそういうものだ」
「……俺は待つのが苦手だ。影潜りで奇襲する方が性に合っている」
「魚に奇襲をかけるのか」
「冗談だ。やってみよう」
星花の湖に着いた。昼間の湖は夜とまた違う。水面が青くて、底の石が見える。魚の影がゆらゆら泳いでいるのが、水の上からでもわかった。
湖畔に並んで座った。竿を伸ばして、糸を垂らした。浮きが水面にぷかぷか浮いている。
三分経った。何も起きない。
五分経った。何も起きない。
ゼクスが腕を組んだまま、水面を睨んでいる。
「……来ないな」
「来ないな」
「魚は見えているのに、何故食いつかない?」
「餌に興味がないんだろう」
「餌を変えるか」
「変える餌がない。虫かごの虫はこれだけだ」
「……」
「……」
セレスが二人を交互に見た。
「トワとゼクス、しずかすぎる。おしゃべり、しないの?」
「釣りの時は静かにするものだ」
「ゼクスもそう思う?」
「ああ、魚が逃げるからな」
「ふうん」セレスが角を傾げた。「でも、おさかなに、みみ、ある?」
トワとゼクスが顔を見合わせた。
「……あるのか?」
「さあ。見聞録で調べるか」
見聞録でスキャンした。
──BCO淡水魚(種類:銀鱗魚)。聴覚:なし。振動感知:あり。
「聴覚はないが、振動は感じるらしい。声は聞こえないが、地面を踏む振動は伝わるんだな」
「おしゃべり、しても、いいってことだね」
「まあ、そうなるな」
「じゃあ、セレスがしゃべる。トワとゼクスがしずかだから、セレスが、にぎやかにする」
「にぎやかにしなくていい」ゼクスが言った。
「する。しずかは、つまらない」
「トワ。お前の精霊を何とかしてくれ」
「俺に言われても困る。セレスは俺の言うことを聞かない」
「きく。トワのいうこと、きく。でも、しずかにしてっていうのは、きかない」
「……選択的に聞いているわけだな」ゼクスが呆れた声を出した。
「せんたくてき。セレス、あたまいー」
十分経った。浮きが一回沈んだ。
「来た」ゼクスが反射的に竿を引いた。速い。影潜りの反射速度で竿を引く。
糸が切れた。
「……」
「力が強すぎるんだ。釣りはもっとゆっくり引く」
「ゆっくりは得意じゃない」
「知ってる」
糸を結び直した。また垂らした。
五分後。今度はトワの浮きが沈んだ。ゆっくり竿を上げた。手応えがある。リールを巻くと、銀色の魚が水面から飛び出した。
手のひらサイズの魚が、糸の先でぱたぱた跳ねている。
「おさかな!」セレスが目を輝かせた。
「釣れたな」
バケツに入れた。魚がバケツの中で泳ぎ始めた。
メブキが頭の上から身を乗り出して、バケツを覗き込んだ。
「くるくる! おさかな、ちいさいはこのなかで、およいでる! ここ、みずうみじゃないのに!」
「バケツだ。水を入れた容器だよ」
「はこのなかのみずうみは、ちいさいみずうみ!」
「まあ、そうとも言えるか」
ゼクスが黙々と糸を垂らし直した。今度は引く力を加減しているらしく、表情が真剣だ。影潜りで暗殺者の首を取る時と同じ集中力で、浮きを見つめている。
三分後。ゼクスの浮きが沈んだ。
ゼクスがゆっくり、慎重に、竿を上げた。糸が張る。魚が抵抗する。ゼクスがさらにゆっくり巻いた。
銀色の魚が上がってきた。トワのより一回り大きい。
「……釣れた」
ゼクスの声に、わずかに驚きが混じっていた。
「おお、大きいな」
「ああ、大きいな」
バケツに入れた。魚が二匹になった。二匹がバケツの中でぐるぐる泳いでいる。
「ゼクス、やるね」セレスが言った。
「力加減を覚えた。二回目は楽だ」
「かげから、おさかなをとるのと、どっちがかんたん?」
「比べるものじゃないが……釣りの方が難しい。影潜りは自分の速さで決まるが、釣りは魚の動きに合わせないといけない。相手に合わせるのは、暗殺者の流儀ではない」
「でも、あわせたね」
「……まあ、たまには」
ルーナが影の中から小さく笑った。
「……ゼクス、釣りが上手。意外」
「意外とは何だ」
「……ゼクスは、壊す方が得意だと思ってた」
「壊す方が得意なのは……まあ、否定しないが……」
◇
二時間ほど釣りをした。土曜日だから時間に余裕がある。トワが三匹、ゼクスが四匹。ゼクスの方が多い。力加減を覚えてからは、暗殺者の集中力が釣りに向いていたらしい。
午後になって、タマキが走ってきた。薬師の鞄と、手に小さな水筒を持っている。
「トワさん、ゼクスさん! お待たせしました!」
「タマキ。ゼクスが釣りで俺に勝った」
「えっ、釣り?」タマキがバケツを覗き込んだ。「わあ、こんなにいっぱい。七匹もいます!」
「俺が四匹だ」ゼクスがさらりと言った。
「ゼクスさん、なんだか嬉しそうですね」
「嬉しくはない」
「嬉しい時の顔ですよ、それ。わたし、表情を読むのは得意なんです」
「……余計なスキルを持っているな」
タマキが水筒を差し出した。
「これ、星夜草のお茶の改良版です。苦味を抑えて、甘みを足しました。よかったら飲んでください」
三人分のカップに注いだ。セレスの分は小さなカップ。湖畔に座って、釣り竿を置いて、お茶を飲んだ。
ゼクスが一口飲んで、少し目を見開いた。
「……悪くないな」
「ほんとですか?」
「甘すぎない。飲める」
セレスが自分のカップを両手で抱えて、ふーふーして飲んだ。
「おいしー。きのうのより、にがくない。タマキ、かいりょー、せいこー」
「えへへ……ありがとう、セレスちゃん」
湖の水面に午後の日差しが反射していた。バケツの中の魚がぱしゃぱしゃ泳いでいる。釣竿が四本、地面に並べてある。
ゼクスがお茶を飲みながら、湖を見ていた。
「トワ」
「何だ?」
「釣りは悪くなかった」
「ああ、またやるか」
「……まあ、暇なら」
ゼクスは「暇なら」と言ったが、来週の土曜日も暇だと言って来るだろう。トワにはそれがわかっていた。ゼクスは暇だから来るのではなく、来たいから暇だと言う人間だ。一緒に戦ってきたから、それくらいはわかる。
「おさかな、どうするの?」セレスが聞いた。
「逃がすか、料理するか。セレスはどうしたい?」
「にがす。おさかなは、みずうみで、ぱしゃぱしゃするのが、いちばんいー」
「ゼクス。逃がすぞ」
「構わない。釣ることが目的だったからな」
バケツを傾けて、七匹を湖に戻した。魚が一斉に泳いでいく。銀色の鱗が水の中できらきら光って、すぐに見えなくなった。
「おさかな、ばいばい」セレスが手を振った。
「ばいばい、か。食物連鎖の頂点にいる暗殺者に釣られて、精霊に見送られる魚の気持ちは複雑だろうな」
「おさかなに、きもちはあるの?」
「さあな。トワの見聞録に聞いてくれ」
「きかない。おさかなには、きもちがある。セレスのじてんに、かいてある」
「セレス辞書、また項目が増えたな」
「ふえる。まいにち、ふえる。セレスのじてんは、あるくたびに、あたらしいことばがふえる。トワのたびと、おなじ」
ゼクスが横で小さく笑った。
湖畔で三人と精霊四体が、午後の日差しの中でお茶を飲んでいた。何も起きない。何も起きなくていい。金色の足跡が、湖畔の草の上にぼんやりと光っていた。




