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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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9話 罠

 「買い出しに行く」


 朝。社務所の畳に座ったまま、財布の中身を見ていた。三百二十円。昨日の水で百十円使って、残りがこれだけ。パンすら二つ買えるか怪しい。


 男が壁に寄りかかったまま、目を開けた。


 「一人で行く。お前が一緒だと実体化したら目立つし、霊体でも渡し場の力を使うだろ。温存したほうがいい」


 昨日の訓練で知った。この男の能力は橋の上でしか発動しない。橋以外の場所では、実体化するだけで渡し場の力を消費する。無駄遣いは避けたい。いつ来るか分からない敵に備えて、力は残しておくべきだ。


 合理的な判断。のつもりだった。


 男が数秒、俺を見た。それから頷いた。


 「遠くに行くな。何かあったら綱で分かる。紋が冷たくなったら、すぐ戻れ」


 「ああ」


 鞄を持って社務所を出た。朝の境内。楠の葉が風に揺れている。石段を降りて、住宅街の道に出た。


 一人で歩くのは久しぶりだった。あの夜から、常に男が隣にいた。透けていたり、実体だったり、姿は変わるが、いつも隣にいた。今は一人。自分の足音だけが聞こえる。


 嵐山の住宅街を抜ける。朝の九時。主婦が自転車で買い物に出かけている。小学生の集団が横断歩道を渡っている。黄色い帽子。ランドセル。俺も十年前はああだった。何も知らずに、毎日学校に通っていた。


 手の甲の紋を見た。光っている。いつもの明滅。男と繋がっている証。温かくも冷たくもない。平常の光。大丈夫だ。飯を買って帰るだけだ。三十分あれば終わる。



      *



 嵐山から少し離れた商店街に入った。前に男と惣菜パンを買った場所とは別の、もう少し庶民的な商店街。アーケードの天井が低くて、蛍光灯が白く光っている。八百屋と肉屋と、小さなスーパーがある。惣菜屋の前でコロッケを揚げている匂いがした。腹が鳴った。昨日の夜から何も食べていない。


 スーパーの見切り品コーナーを覗いた。半額シール。食パンの耳が一袋五十円。おにぎりの消費期限切れが六十円。二つ買えば百十円。残り二百十円。これであと二日は持つ。節約なんて考えたことなかった。小遣いが少ないとは思っていたが、三百円で命を繋ぐ計算をする日が来るとは思わなかった。


 レジで会計を済ませて、ビニール袋を手に商店街を歩いていた。普通の買い物客に混じって。主婦がカートを押している。老人が杖をついて歩いている。日常。この人たちは知らない。この街で人が消えていることも、英霊が殺し合っていることも。知らないまま、コロッケを揚げて、買い物をして、帰っていく。


 「瀬川くん?」


 背後から声がした。


 女の声。若い。聞き覚えが——ある、ような、ないような。


 振り返った。


 少女が立っていた。セーラー服。俺の学校の制服だ。紺のスカート、白い靴下。髪が肩まであって、目が大きい。見覚えがある顔。教室で見たことがある。隣のクラスか、あるいは——。名前が出てこない。でも顔は知っている。気がする。


 「学校、休んでるって聞いて……大丈夫?」


 心配そうな目。眉が少し下がっている。


 「あ……ああ、ちょっと……体調崩して」


 咄嗟に嘘をついた。体調不良。ありきたりな言い訳。少女は頷いた。


 「そうなんだ。みんな心配してるよ。先生も。河村くんとか、瀬川くんどうしたんだろうって言ってた」


 河村。カラオケに誘ってきた河村か。あいつが俺のことを心配してるのか。


 「あと、お母さんも学校に電話してきたって聞いた……」


 母親。胸がちくりと痛んだ。「ごめん」しか返せなかった母親。スマホの充電は切れたまま。社務所には電源がない。


 少女が首を傾げた。「ねえ、何かあったの? 話だけでも聞くよ。ここだと人通り多いから……あっちの路地、静かだよ」


 商店街の裏手を指差した。路地。建物と建物の間の細い道。


 ためらった。話せることなんてない。境界の儀のことは言えない。言ったところで信じてもらえない。だが——この子は俺のために声をかけてくれた。わざわざ。クラスメイトが心配して、探して、声をかけてくれた。


 あの日、プリントを拾わなかった俺とは違う。この子は動いてくれた。俺のために。それを無視するのか。また「一瞬迷って、やらない」のか。


 「……ああ、いいよ」


 路地に入った。少女が先を歩く。セーラー服の背中。長い髪が揺れている。


 商店街の喧騒が遠ざかっていく。人通りが消える。路地は狭い。両側の壁がコンクリートで、窓がない。奥に行くほど薄暗くなる。エアコンの室外機が並んでいる。排水溝の匂い。生活の裏側。


 違和感が生まれたのは、路地に入って十歩ほど歩いたときだった。


 最初は小さかった。名前が思い出せない——それは俺の人付き合いの悪さのせいだと思った。顔は見たことがある気がする——でも確信がない。教室で話したことが——ない。一度もない。「瀬川くん」と呼ばれた。だがこの子が俺の名前を知っているのは、先生か河村あたりから聞いたのだろうと、そう思った。


 だが違和感は消えなかった。むしろ膨らんでいく。


 この子の声。明るくて、はきはきしていて、心配そうで。でも——抑揚が少し変だ。台詞を読んでいるような。自然に聞こえるが、自然すぎる。人間の会話にある「間」がない。考えて言葉を選ぶ「間」。それがない。全部が用意されている。


 そして——靴音がしない。


 少女の足元を見た。ローファー。地面に触れている——はずだ。だが音がない。俺の足音はスニーカーでペタペタ鳴っている。少女の足は——。


 あの夜の分身体。あいつらにも音がなかった。足音も、衣擦れも、呼吸も。存在の気配がない。


 足が止まった。


 少女が振り返った。


 笑顔が——溶けた。



      *



 顔の輪郭が崩れていく。


 セーラー服が黒い衣に変わる。長い髪が消える。肌の色が失せて、のっぺりとした白い面が現れる。


 分身体。


 見覚えがある。あの夜、廃屋と橋の上で戦った。白い面。黒い衣。人間の形をした、人間じゃないもの。


 背後で足音がした——いや、足音じゃない。空気が動いた。振り返った。路地の入口に、もう一体。壁の影から滲み出してきた。黒い衣。白い面。音がない。入口を塞いでいる。逃げ道がなくなった。


 左の壁から、三体目。コンクリートの壁面に染みのように浮かんで、そこから剥がれるように実体化した。壁から人間が生まれるような、気味の悪い動き。


 三体。前。後ろ。横。


 路地の真ん中で、囲まれた。


 男はいない。嵐山の社務所。ここまでの距離を考える。走っても十分以上。電車なら二駅。男は人間じゃないから走ればもっと速い。でも——十分は十分だ。分身体が俺を殺すのに十分もかからない。


 手の甲の紋が脈打った。冷たい。冷たい。最初の夜、橋の上で影に肩を掴まれたときと同じ冷たさ。綱を通じて、俺の恐怖が男に伝わっている。男も気づいているはずだ。今頃、社務所を飛び出しているかもしれない。でも——間に合うか分からない。


 体が震えた。


 膝が笑う。歯の根が鳴る。喉が引き攣る。あの夜と同じだ。体の反応は変わっていない。怖いものは怖い。震えるものは震える。逃げたい。ここから消えたい。目を閉じたら全部嘘であってほしい。


 だが——泣いていない。


 涙は出なかった。あの夜は泣いた。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになって、「死にたくない」と叫んだ。今は違う。泣いている場合じゃないと分かっている。泣いても助けは来ない。来るかもしれないが、間に合うとは限らない。


 あの夜と同じだ。だが同じじゃない。あのときは何も知らなかった。何が起きているのか分からなかった。今は知っている。こいつらが何なのか。どういう能力を持っているのか。速くて、影に溶けて、音がなくて、刃を持っている。殺すために作られた存在。


 知っている。だから怖い。知らなかったあの夜より、ずっと怖い。


 分身体が刃を抜いた。三体同時に。金属の光が路地の薄暗がりに浮かんだ。短い刃。曲がった形。暗殺者の得物。


 逃げ場がない。路地の幅は二メートルもない。左右は壁。前と後ろに分身体。


 正面の一体が踏み込んだ。刃が光る。速い。5話で見た速さ。壁を蹴って跳ぶ速さ。あのときは男が受け止めてくれた。今は——。


 体が動いた。


 考える前に。左に跳んだ。壁に肩がぶつかる。痛い。コンクリートの角が肩を削った。刃がさっきまで立っていた場所を通過した。風を感じた。髪の毛が何本か切れた。そのくらい近かった。


 なぜ避けられたか分からない。いや——分かる。あの夜、見た。分身体の動きを。正面から来るとき、一瞬だけ肩が動く。踏み込む直前に。あのとき男の背中越しに見ていた動きのパターンが、体に残っていた。昨日の訓練で、男の動きに合わせて時計の方向を叫び続けた。あの二時間が、足を動かした。


 二体目。右から。


 壁際に身を伏せた。刃が頭上を通過して壁を削った。コンクリートの粉が散る。火花が頬をかすめる。熱い。焦げた匂い。


 立ち上がる。膝が震えている。でも立った。


 戦えはしない。武器もない。力もない。でも——死なない。少なくとも今この瞬間は、まだ生きている。


 三体目が正面から来る。最後の一体。刃を構えて、音もなく踏み込んでくる。避ける場所がない。右は壁。左は壁。後ろには一体目。


 逃げ場がない。


 終わりか、と思った。思っただけだ。体は止まらなかった。足が地面を蹴った。前に。三体目に向かって。避けるのではなく、すれ違う。狭い路地で、分身体の横を——。


 刃が腕を掠めた。左腕の外側。切れた。痛い。血が出た。赤い線が制服の袖に滲む。


 だがすり抜けた。分身体の横を。路地の先に出た。


 振り返る暇はなかった。三体が追ってくる。


 路地の向こうから、空気が裂けた。


 風圧。次に音。低くて重い、何かを断ち切る音。あの夜、何度も聞いた音。橋の上で、鴨川に反響していた音。


 斧の音だった。

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