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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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8話 備え

 目が覚めたとき、体が軽くなっていた。


 軽い、は言い過ぎだ。まだ重い。だが昨日の朝とは違う。鉛を飲み込んだみたいな、あの芯の重さが薄れていた。腕を上げられる。立ち上がれる。それだけで、昨日よりましだと思えた。


 嵐山の社務所。四畳半の部屋。窓から朝の光が差している。境内の楠の葉が風で揺れていた。男は壁に寄りかかっている。いつもの姿勢。だが傷が違う。腕の切り傷は痕すら残っていない。脇腹にうっすらと線があるだけ。二日前には血で衣服が染まっていたのに。英霊の回復力。そして——俺の体力を使って回復した結果。


 水道で顔を洗った。錆びた水が出て、しばらく流したら透明になった。冷たい水で顔を擦った。鏡はない。水面に映る自分の顔が、数日前とは変わっている気がした。頬が痩せた。目の下のクマが濃い。まともに食べていない、まともに寝ていない顔。


 「体、動くか」


 男が聞いた。目は閉じたまま。


 「……ああ。動く」


 頷いた。動く。まだ万全じゃないが、動ける。それで十分だ。



      *



 男が社務所の縁側に座って、足を投げ出していた。朝日を浴びて、金髪がやけに眩しい。飄々とした姿勢。千年前の戦士には見えない。近所の外国人が縁側で日光浴しているみたいだ。


 だが俺が聞いた瞬間、空気が変わった。


 「あの夜、橋の上で何が起きてたんだ」


 ずっと聞きたかった。あの戦闘。橋の上で横からの攻撃が弾かれた。正面だけが通る。あれは何だ。


 男が目を開けた。俺を見た。数秒、何かを考えて——口を開いた。


 「不退橋」


 能力の名前。初めて聞いた。


 「俺の力だ。橋の上に立って、正面を向いている限り、正面からの攻撃は通さない。絶対に。どんな力でもな」


 「絶対に?」


 「絶対にだ。正面からの攻撃に限っては、誰が相手でも貫けない」


 言い切った。飄々とした調子だが、声に迷いがなかった。


 条件がある、と男は続けた。


 「一つ。橋の上じゃなきゃ発動しない。路地でも広場でも使えん。あの夜、廃屋の中で苦戦したのはそのせいだ」


 あの狭所戦。斧を短く持ち替えて、突いて、打って。あれは不退橋が使えない状況で戦っていたのか。橋の上に出た途端に男の存在が膨れ上がったのは、能力が発動したからだ。


 「二つ。京都のどの橋でも発動する。ただし橋によって強さが違う。一条戻橋が一番強い。渡し場の中心に近いからだ」


 京都は橋が多い。男が言っていた。「橋が多いな、この街は」。あれはただの感想じゃなかった。この男にとって、京都の橋は全てが「戦場」になりうる。


 「三つ」


 男が俺を見た。薄い笑みが消えた。


 「背後は無防備だ。正面だけ。後ろから来られたら、俺は死ぬ」


 沈黙。


 それで分かった。全部繋がった。


 「だから、俺の『目』が要るのか」


 男が頷いた。


 「お前がいなけりゃ、俺は後ろから刺されて終わりだ」


 その一言が、胸の奥に刺さった。


 俺は守られているだけだと思っていた。この男に背中を預けて、橋の上で震えているだけの存在だと。でも違った。俺がいなければ、この男の能力は完成しない。正面の鉄壁と、背後の死角。その死角を埋めるのが俺の役割だ。


 必要とされている。この化け物みたいに強い男に。俺が。


 葛城に「塵」と呼ばれた。アレクサンドロスには見向きもされなかった。マスターとしての価値はゼロだと——自分でもそう思っていた。戦えない。魔術も使えない。足手まといでしかない。ずっとそう思っていた。


 だが違った。この男の能力は、正面だけを守る盾だ。完璧な盾。だが盾には背後がない。その背後を預けられるのは、綱で繋がった人間だけ。俺だけ。


 「……訓練しよう」


 口から出た。考えて言ったんじゃない。出た。


 「俺がもっと正確に位置を伝えられるようになれば、お前はもっと戦える。だから——訓練しよう」


 男の目が少し開いた。驚いている。それから——笑った。いつもの薄い笑みとは違う、もう少しだけ深い笑み。


 「……悪くないな」



      *



 五条大橋。


 弁慶と牛若丸の決闘の地——と、中学の社会で習った気がする。一条戻橋より遥かに大きい。幅が広く、車道と歩道がある。欄干の柱に擬宝珠がついている。橋の上から東を見ると、東山の稜線が秋の空に浮かんでいた。鴨川が橋の下を流れている。水量が多い。一条戻橋の下を流れる堀川とは違って、広い川幅を水が悠々と流れている。


 昼下がり。観光客がちらほら歩いている。だが橋の上で半透明の巨漢が戦斧を構えていても、誰も気づかない。渡し場の力。儀式に関わるものは、一般人には見えない。


 訓練を始めた。


 男が橋の中央に立つ。正面を南に向ける。俺は橋の東側、歩道の端に立つ。男の背中が見える位置。距離は十メートルほど。


 最初はさっきまでのやり方で。


 「右!」


 男が右を向く。


 「後ろ!」


 男が振り返る。


 だが問題があった。「右」と言ったとき、俺の右と男の右が一致しない。俺から見て右は、男の背中から見ると左だ。立ち位置が違う。基準がずれている。


 三回やって三回ずれた。


 男が振り返った。「基準を揃えろ。お前の方向じゃなく、俺の方向で言え」


 考えた。どうすればいい。男の正面が基準。男の右が——いや、戦闘中に「お前の右!」と叫んでいる余裕はない。もっと短く、もっと正確に。


 時計だ。


 「お前の正面を12時にする。右が3時。後ろが6時。左が9時。それでいいか」


 男が口角を上げた。「やってみろ」


 もう一度。


 「3時!」


 男が右を向いた。合っている。


 「10時!」


 男が左斜め前に向いた。合っている。速い。声を出した瞬間に動いている。


 「6時!」


 男が振り返った。戦斧を背後に構え直す。完璧なタイミング。


 繰り返した。何度も。「2時!」「7時!」「11時!」「4時!」。叫んで、動いて、叫んで、動いて。喉が枯れてくる。足も疲れる。橋の上を走り回って、角度を変えて、男の死角を探して。


 途中で気づいたことがある。男の死角は真後ろだけじゃない。斧を振った直後——振り抜いた反対側に一瞬だけ穴ができる。右に振れば左が空く。上に振れば下が空く。その一瞬を叫びで埋める必要がある。


 「振った後が危ない。右に振ったら、次は9時から来ると思え」


 男が教えた。戦いの勘。千年分の。


 「9時——左か。振った後に叫ぶってことか」


 「斬った瞬間にもう次を見ろ。斬り終わってから探すんじゃ遅い」


 やってみた。男が右に斧を振る動作をする。振り抜いた瞬間、俺は左を見る。9時の方向。何もいない——訓練だから当然だ。だが本番では、そこに敵がいる。


 「9時!」


 叫んだ。男が体を回す。正面を9時に合わせ直す。


 「遅い。半拍遅い」


 「……もう一回」


 もう一回。また半拍遅い。もう一回。まだ遅い。もう一回。


 十五回目で、ようやく「まあ、ぎりぎりだな」と男が言った。


 でも——噛み合い始めていた。声と動きが。俺が叫ぶ方向に、男が正確に向く。ずれが縮まっていく。最初は一秒かかった反応が、半秒になる。方向のずれが消えていく。


 二人で一つの動きを作っている。俺の目と、男の斧。別々のものが、声を介して繋がっていく。


 二時間やった。喉がガラガラだった。足が棒だった。男は涼しい顔をしている。英霊と人間の体力差を思い知る。だが——悪くなかった。何かが出来上がっていく感覚。完成にはほど遠い。でも、ゼロではなくなった。


 秋の五条大橋。風が気持ちいい。鴨川に夕日が反射して、橋の下が金色に光っていた。殺し合いの最中に見る京都は、やはり綺麗な街だった。



      *



 五条大橋の河原に座った。夕方。


 コンビニで買った水を飲んだ。百十円。財布の残りが三百二十円になった。明日からどうするかは考えないことにする。


 男が隣に座っている。実体化したまま。橋の近くでは渡し場の力が強いから、体を維持できるらしい。二人並んで、鴨川を見ている。水が流れている。空が赤い。


 「お前、声がでかいのはいいが、もう少し早く出せ。判断が半拍遅い」


 男が言った。


 「分かってる。……でも、思ったより難しいんだ。お前の背中しか見えないから、敵がどこにいるか感じ取るのに時間がかかる」


 「慣れだ。何度もやりゃ速くなる」


 男が空を見上げた。夕焼け。赤と橙が混じった空。飛行機雲が一本、東に伸びている。


 「……お前、変わったな」


 「何が」


 「最初の夜。お前は泣いて叫んで、地面に座り込んでた。今は訓練しようと言い出す」


 間があった。


 「ずいぶん変わった」


 返す言葉を探した。「変わったかな」とか「別に」とか、何か軽いことを言おうとした。でも出てこなかった。


 「変わってない。怖いのは同じだ」


 本音だった。怖い。今も怖い。次の敵が来るのが怖い。俺を殺しに来る誰かがいることが怖い。


 男が笑った。いつもの飄々とした笑み。だが少しだけ、温度がある。


 「怖いのに動けるようになった。それが変わったってことだ」


 何も言えなかった。手の甲の紋が微かに温かかった。訓練で声を枯らした喉が痛い。足が重い。でも——悪くない。この温かさは、悪くなかった。



      *



 帰り道。五条大橋から嵐山へ。夕暮れの京都。


 堀川通を西に歩いていた。男は霊体化して隣にいる。通行人が横を通り過ぎていく。帰宅ラッシュ。誰もが家に帰る時間。俺にはもう帰る家がない——いや、ある。あるけど帰れない。


 男がふと足を止めた。


 振り返った。南の方角。五条大橋のさらに向こう。何かを感じ取っている。俺には何も分からない。人通りと車の音しかない。


 だが男の目が変わった。あの目。薄い笑みが消えて、奥にあるものが表面に浮かんでくる瞬間。


 すぐに戻った。歩き出した。


 「……来るな」


 声が低かった。


 「明日か、明後日か。——近い」


 背筋に冷たいものが走った。あの夜、男に言われたこと。「お前を狙って来る」。それがもう、すぐそこまで来ている。


 だが——今日の訓練がある。二時間、声を枯らして、足を棒にして、時計の方向を叫び続けた。あれがある。十分じゃない。全然足りない。完璧とは程遠い。でも——ゼロじゃない。


 明日か、明後日。俺たちの時間は、それだけしか残っていなかった。

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