10話 路地
男が立っていた。
路地の先。陽太がすり抜けた先に。戦斧を構えて。いつ来たのか分からない。嵐山からここまで——走ったとしても十分はかかるはずだ。だが立っている。息を切らして。汗もない。ただ目だけが燃えていた。
俺は男の背中に崩れ込んだ。膝が折れた。左腕の切り傷から血が滴って、路面に赤い点を作った。
男が一瞬だけ振り返った。俺の腕を見た。血を見た。
目が変わった。
あの飄々とした笑みではない。戦場の目でもない。もっと深い、もっと熱い——怒り。この男が怒っているのを、初めて見た。
「……遅れた」
声が低かった。いつもの軽さが消えている。
俺に対して怒っているのではない。間に合わなかった自分に怒っている。俺の腕から血が出ていることに怒っている。
だが次の瞬間には前を向いていた。路地の奥。追ってくる三体の分身体に向かって。
路地は狭い。幅は二メートルもない。両側がコンクリートの壁。正面からしか来れない。
——橋と同じだ。
気づいた。この狭さ。この構造。正面しか来れない。一条戻橋や五条大橋と同じだ。不退橋は発動しない——ここは橋じゃないから。だが「正面からしか来れない」という条件は同じだ。
男が路地の幅いっぱいに立った。戦斧を正面に構える。壁と壁の間を体で塞ぐように。
「8時!」
俺は叫んだ。路地の奥、左寄りに分身体。昨日の訓練。時計の方向。男の正面が12時。
男が体の角度を微調整した。正面を合わせ直す。
*
分身体が来た。
路地の奥から。一体目。正面。速い。壁を蹴って加速してくる。
男が斧を振った。横薙ぎ——路地の幅ぎりぎりに。斧の刃が左の壁を掠めた。火花が散る。コンクリートが削れる音。だが男はそれを計算していた。壁に斧の側面が触れた瞬間、角度が変わる。壁を支点にして軌道が曲がる。弧を描いた刃が分身体の胴を捉えた。両断。黒い靄が散る。
あの夜の廃屋では、壁に当たることが不利だった。振りが殺された。天井に斧が当たって動きが止まった。だが今は違う。壁を利用している。狭さを味方にしている。路地の幅が、斧の軌道を制御する道具になっている。
二体目。路地の奥から。こいつは正面から来なかった。壁を蹴って上に跳んだ。路地の上——建物の間の狭い空間を使って、上から刃を落としてくる。
「12時、上!」
叫んだ。声が枯れて掠れたが、届いた。男が見上げた。斧を頭上に突き上げる。上から落ちてきた分身体の刃を、斧の柄で受け止めた。金属がぶつかる音が路地に反響する。力比べ。一瞬——男が押し返した。分身体が弾き飛ばされて壁にぶつかる。壁にめり込んだ体を、男が追撃して斧で断った。コンクリートの破片が飛ぶ。
二体目、消滅。
三体目——。
見えなかった。路地の奥にも、背後にもいない。
どこだ。
目を凝らした。路地の暗がり。壁。天井。地面。どこにも——。
左の壁。
コンクリートの表面に、影が滲んでいた。壁の中を移動してきている。壁面をゆっくりと、染みのように這って、男の横を通過しようとしていた。背後を取ろうとしている。
訓練になかったパターンだ。壁の中から来る。時計の方向で言えば——9時。だが壁の「中」だ。昨日の訓練では想定していなかった。
だが見えた。俺の目が捉えた。壁の表面の、微かな歪み。影の濃さが周囲と違う。それだけが手がかりだった。
「9時! 壁の中!」
叫んだ。声が裂けた。喉が昨日の訓練で枯れていて、血の味がした。だが叫べた。見えたから。男の目が届かないものを、俺の目が捉えたから。
男が左を向いた。壁に向かって斧を叩きつけた。全力の一撃。コンクリートが砕けた。壁に穴が開く。中にいた分身体が弾き出される。路面に転がったところを、上から振り下ろす。斧が分身体を地面ごと叩き割った。石畳にひびが走る。黒い靄が散って、消えた。
三体。全滅。
路地が静かになった。コンクリートの粉が空気中に舞っている。壁に三つの斧の痕が深く刻まれている。削れたコンクリートの匂い。鉄の匂い。俺の腕からまだ滲んでいる血の匂い。
男が息をついた。振り返って俺を見た。まだ笑みは戻っていない。だが目の奥の怒りは少し静まっていた。
「……よく見てた」
短い言葉。それだけだった。だがそれで十分だった。
*
足音が聞こえた。
分身体の足音じゃない。あいつらには音がない。これは——人間の足音。革靴の底が路面を踏む、硬い音。
路地の奥の暗がりから、男が一人、歩いてきた。
四十代。白髪混じりの短い髪。くたびれたジャケット。顔に深い皺が刻まれている。目は——暗い。底が見えないほど深い、暗い目。だが姿勢はまっすぐだった。背筋が伸びている。元々はきちんとした生活をしていた人間の姿勢。それが崩れかけている。靴が汚れている。髭が伸びている。手入れを放棄した男の姿。
知らない男だ。会ったことがない。
だが空気が違った。一般人じゃない。この男の周囲には、薄い殺意が漂っている。渡し場の力を感じる。マスター。別の陣営の。
そしてその男の隣に——気配があった。
見えない。姿は見えない。だが「いる」。分身体よりも遥かに濃い、存在感を消した存在。存在感を消しているのに、その「消している」こと自体が圧になっている。あの分身体の元締め。本体。分身体が五体まとめて薄い影だとしたら、本体は——真っ黒な穴だ。光を吸い込む穴。見えないのに、そこだけ世界が欠けている。
橋の戦士が戦斧を構え直した。笑みが消えている。分身体を相手にしていたときとは、緊張の度合いが桁違いだった。
男が——スーツではない、ジャケットの男が——足を止めた。路地の真ん中。俺との距離は十メートルほど。
口を開いた。俺に向かって。
「お前が瀬川陽太か」
関西弁混じりの、粗い声。だが怒っていない。感情を押し殺した、平坦な声。
「お前に恨みはない」
間があった。路地に風が通った。冷たい風。
「だが——お前が死ねば、あの英霊も消える」
知っている。綱のことを。俺とこいつが命を共有していることを。
「娘を取り戻すためや。悪く思うな」
娘。
俺は分からなかった。この男が何を言っているのか。娘を取り戻す。誰の娘だ。何から取り戻すのだ。
だが男の目を見た。あの暗い目を。その奥に浮かんでいるものは——憎しみじゃなかった。
悲しみだ。
深くて、古くて、乾いた悲しみ。何年もかけて干からびた、だが消えない悲しみ。あの目は——何かを失った人間の目だ。大切なものを奪われて、それを取り戻すためだけに生きてきた人間の目。
こいつは俺を殺そうとしている。だが俺を憎んではいない。
橋の戦士が動きかけた。斧を構えて踏み込もうとした。だが男が片手を上げた。
「やり合うつもりはない。今日はな」
男の視線が動いた。南の方角。遠くに——別の気配。俺にも薄く感じる。あの眩しい圧。葛城。近づいてきている。
男が舌打ちした。
「……葛城か。タイミングの悪い」
背を向けかけた。だが足を止めた。もう一度、俺を見た。
「お前——あの英霊のことを信じてるのか」
唐突な問いだった。
信じている、と言えるのか。まだ数日しか経っていない。名前すら知らない男を。信じるとは何だ。何をもって信じていると言えるのだ。
だが口が動いた。
「……分からない。でも、あいつは俺を守って血を流した。俺の背中に立ってくれた。それだけは本当だ」
言ってから気づいた。「背中に立ってくれた」。違う。あの男が正面に立って、俺が背後にいたのだ。だが——意味は同じだった。あの男は俺のために橋の上に立った。あの夜も、今日も。
男の——堂島の目が揺れた。一瞬だけ。あの暗い目の奥で、何かが動いた。すぐに元に戻った。
「そうか」
低い声。
「俺も、そうやった」
それだけ言って、男は路地の闇に消えた。隣にいた気配も消えた。殺意が薄れる。空気が元に戻る。通りの向こうから、車のエンジン音が聞こえてくる。バイクのクラクション。日常の音。何事もなかったように。
*
路地に座り込んだ。
左腕の傷が痛む。血は止まりかけていた。深くはない。だが制服の袖が赤黒く染まっている。初めて、敵の刃で切られた。
橋の戦士が傍に立っている。戦斧を地面に突き立てて。いつもの姿勢。だが笑みは戻っていない。
沈黙が長かった。
「あいつ……何がしたいんだ」
声が掠れていた。喉が痛い。
男が答えた。声は静かだった。
「死んだ娘を取り戻したいんだろう」
娘。あの男の目の奥にあった悲しみ。乾いた、深い悲しみ。あれが——娘を失った父親の目だったのか。
渡し場が開くと人が消える。一般市民が彼岸に引きずり込まれる。失踪事件。七人。ニュースで見た。——あの男の娘も、そうやって消えたのか。前の儀式で。何年前かは分からない。だがあの目の深さから、短い時間じゃないことは分かる。
俺たちと同じだ。巻き込まれた側だ。渡し場に人生を壊された人間だ。違うのは——あの男はそれを取り戻すために、別の誰かを殺そうとしていること。俺を。十七歳の、何の力もない高校生を。
母親と二人暮らしの——俺を。
あの男にも母親がいるのだろうか。いや、娘がいると言った。父親だ。娘を失った父親。俺の母親が俺を探しているように、あの男もずっと娘を探してきたのか。
あの男が悪人なら楽だった。憎めれば楽だった。「殺してやる」と思えれば簡単だった。だがあの目は——守りたいものがある人間の目だった。俺が橋の戦士の背中を見るときと、同じ種類の目をしていた。
「俺も、そうやった」。あの男はそう言った。あの男もかつて、英霊を信じていたのか。その英霊はもういないのか。
手の甲の紋が脈打っている。温かくも冷たくもない。ただ不規則に、複雑に明滅している。今まで感じたことのない脈動だった。恐怖でも温もりでもない。名前のつかない感情が、綱を通じて震えていた。
敵にも、守りたいものがあった。
それを知ったとき、戦うことの意味が——分からなくなった。
ハサン・イ・サッバーフは11世紀ペルシアに実在した人物で、「暗殺教団」の語源となった山岳要塞の指導者です。敵国の要人を次々と暗殺し、軍隊を持たずに中東の勢力図を塗り替えました。
次話から、物語は新たな局面に入ります。
引き続きよろしくお願いいたします。




