11話 迷い
眠れなかった。
社務所の畳の上で、天井を見ていた。染みだらけの天井。暗闇の中で目を閉じると、あの男の顔が浮かぶ。堂島。あの暗い目。乾いた悲しみ。「娘を取り戻すためや」。「俺も、そうやった」。
何度も考えた。何度も同じ場所をぐるぐる回った。あの男を倒さなければ、俺たちは生き残れない。だがあの男を倒すことは、あの男の娘を永遠に失わせることだ。娘を取り戻す手段を、永遠に奪うことだ。あの男の——たった一つの望みを。
答えは出なかった。朝になっても。夜中に三回、体を起こして窓の外を見た。何も来なかった。堂島は来なかった。ハサンも来なかった。ただ暗い京都の夜空と、遠くの街灯の光だけがあった。
窓から光が差し込んでいた。境内の楠の葉が風に揺れて、畳の上に光の斑点を作っている。左腕の傷は綱の力で閉じかけていた。薄い線が残っている。消耗は昨日より軽い。浅い傷だったからだろう。体はだるいが、それが綱のせいか、眠れなかった夜のせいかは分からなかった。
男は壁に寄りかかっている。目を閉じている。笑みが——戻っていた。いつの間にか。あの路地で消えていた笑みが、朝になって戻っている。いつもの薄い笑み。この男は切り替えが早いのか、それとも千年分の「迷い」を抱えたまま笑うことに慣れているのか。
「飯、買いに行くか」
男が言った。普段通りの声。何事もなかったように。
俺はすぐには答えなかった。
*
社務所の縁側に出た。朝日が眩しかった。境内の石段に猫が一匹座っている。野良猫。こっちを見て、興味なさそうに目を逸らした。
「お前は——敵を倒すことに、迷いはないのか」
聞いた。振り返らずに。背中で。
あの夜、橋の上で五体の分身体を一歩も退かずに斬った。路地で三体を壁ごと叩き割った。あの斧は一切の迷いなく振られていた。殺すことに躊躇がないように見えた。
「ある」
短い答えだった。意外だった。振り返った。男は縁側に足を投げ出して座っていた。朝日を浴びて目を細めている。
「迷いはある。いつもな」
風が吹いた。楠の葉が揺れた。猫が耳を動かした。
「だが迷いがあっても斧は振れる。迷いがあるから振れないなら——死ぬだけだ。お前も、俺も」
飄々とした声。だが目の奥は笑っていなかった。この男にしては珍しく、真剣な目をしていた。
「迷って止まるか、迷いながら進むか」
俺を見た。
「——お前はどっちだ、坊主」
坊主。初めてそう呼ばれた。名前を持たない男に、名前ではなく「坊主」と呼ばれた。馬鹿にされている感じはしなかった。むしろ——何かを認められた気がした。「お前」でも「少年」でもなく、「坊主」。千年前の戦士が年下の人間に使う、雑で、温かい呼び方。
答えは出なかった。まだ出ない。だが男の言葉は胸の奥に残った。迷いがあることは弱さじゃない。迷いを抱えたまま足を動かせるかどうか。あの男は——千年間、そうやって斧を振ってきたのか。名前もなく、記憶もなく、迷いながら。
「……お前は、迷いながら橋の上に立ってたのか。あの夜も」
聞いた。橋の上で五体の分身体を斬り伏せたあの夜。一歩も退かなかった。あの背中に迷いがあったのか。
男が空を見上げた。朝の空。雲が一つ、東に流れている。
「あの夜はな——迷ってなかった」
意外だった。さっき「いつもある」と言ったのに。
「お前が後ろにいたからだ」
声が軽い。いつもの調子。だが目は俺を見ていた。
「後ろに守る奴がいるときは、迷わない。迷ってる暇がない。——迷うのはな、一人のときだ」
一人のとき。名前もなく、記憶もなく、誰の後ろにも立っていないとき。千年の間、この男はそうやって迷いながら存在してきたのか。
猫が石段を降りて、境内の奥に消えていった。朝日が少し高くなった。
*
食料の調達に出た。二人で。あの日の二の舞はごめんだ。
嵐山の商店街近くのコンビニに入った。レジの店員は二十代の女性で、深夜シフト明けなのか目の下にクマがあった。
「すみません、充電させてもらえませんか」
カウンターの端にコンセントがある。店員は少し眉を寄せたが、見切り品のパンを二つ買ったら(百二十円。財布の残り九十円)黙認してくれた。
スマホを充電している間、店内をぶらつく。温かい飲み物が欲しかった。百円のホットコーヒーに手が伸びかけて、止めた。九十円しかない。コーヒーを買ったら残りゼロだ。
雑誌棚の前で足が止まった。新聞。朝刊の一面。
「京都失踪事件 被害者十二名に 府警が特別捜査本部設置」
十二名。数日前に見たときは七名だった。五人増えた。
記事に目を通す。特別捜査本部が設置された。テレビでも連日報道されている。「京都に何が起きているのか」。犯罪心理学の専門家が「組織的な連続誘拐の可能性」を指摘している。的外れだ。誘拐じゃない。彼岸に引きずり込まれている。あの影に触れられて、感覚が消えて、消える。あの夜、俺の肩に触れたのと同じ冷たさで。
でもそれは言えない。誰にも。言ったところで頭がおかしいと思われるだけだ。「渡し場が開いて、彼岸の力が漏れ出しています」。——警察が信じるわけがない。
原因を知っているのは俺たちだけだ。知っていて、何もできないでいる。
スマホの画面が点いた。充電が入り始めている。通知が溜まっている。母親からのメッセージ。——今は開かない。見たら動けなくなる。
男が隣に立っていた。霊体化して。新聞を読んでいるのかは分からない。だがこの男も知っている。渡し場の力が広がっていることを。人が消え続けていることを。
「……止められるのは、俺たちだけなのか」
誰にも聞こえない声で呟いた。コンビニの蛍光灯の下で。
男が答えた。声だけが耳に届く。
「渡し場を閉じるまでは、止まらない」
*
コンビニを出て、嵐山の住宅街を歩いた。
十字路。信号。横断歩道を小学生の集団が渡っていく。黄色い帽子。ランドセル。押し合いながら笑っている。一人が転んで、隣の子が手を引っ張って起こした。先生が後ろから「走らない!」と叫んでいる。
足が止まった。
あの子たちが消えるかもしれない。
夜になったら。渡し場の力が漏れて、あの影が街に滲み出したら。あの冷たい手が肩に触れたら——あの子たちには綱の紋がない。守るものがない。触れられたら、そのまま消える。十二人と同じように。
堂島のことを考えていた。戦うことの意味を考えていた。迷っていた。答えが出なくて、天井を見て、一晩中ぐるぐる回っていた。
だがその間にも、この街では人が消えている。五人増えた。数日で。俺が迷っている間に。俺が天井を見ている間に。誰かの娘が、誰かの息子が、誰かの親が——彼岸に引きずり込まれている。
堂島の娘もそうだったのだろう。あの男の娘も、ある日突然消えたのだ。あの男はそれを何年も抱えて生きてきた。俺を殺してでも取り戻したいと思うほどの——長い年月。
堂島を倒すことの意味は、まだ分からない。あの男の娘を永遠に失わせることの重さは、消えない。あの目を見たら、簡単に「倒す」とは言えない。
でも。
渡し場を閉じなければ、もっと多くの人が消える。十二人が二十人になる。五十人になる。百人になる。あの小学生たちが。コンビニの店員が。商店街のおばちゃんが。この街で暮らしている、名前も顔も知らない人たちが。堂島の娘と同じように、ある日突然消えて、二度と戻らない。
自分のためじゃない。この男のためだけでもない。
この街のために——勝たなきゃいけない。
迷いは消えなかった。堂島の目は忘れられない。でも足は動いた。迷いながら。
「……行こう。訓練の続き」
男を見た。男が笑った。いつもの薄い笑み。
「悪くないな」
何度も聞いた言葉。だが今日の「悪くないな」は、少しだけ違った。声に、温度がある気がした。
*
夕方。五条大橋で二度目の訓練を終えた。
喉が枯れている。足が重い。だが昨日より反応が速くなっている。男が「半拍遅い」と言わなくなった。代わりに「まあ、使えるな」と言った。それが褒め言葉なのかどうかは分からないが、悪い気はしなかった。
帰り道。鴨川沿い。夕暮れの空が赤い。
川沿いの柳の下に、人が立っていた。
女。二十代。和装の上に黒い革のジャケットを羽織っている。腕を組んで、柳の幹に背中を預けて、こちらを見ていた。目がきつい。唇が薄い。きれいな顔だが、笑顔がない。刃物みたいな目つきをしている。
その隣に——影。
人の形をした影。だが分身体とは違った。もっと明確な輪郭。背筋がまっすぐ伸びた、痩せた男の影。肩幅は橋の戦士ほど広くない。だが纏っている空気が鋭い。研ぎ澄まされた刃のような気配。腰に二本——長いものが差してある。刀。二本。二刀。
手の甲の紋が脈打った。速い。だが冷たくはない。警戒の脈動。殺意は感じない。敵意は——ある。だが殺す気はない。こちらを測っている。品定めしている。
橋の戦士が足を止めた。戦斧に手をかけた。だが振り上げなかった。男も分かっているのだろう。この気配は、斬り合いに来たものじゃない。
橋の戦士と、二刀の影が、一瞬だけ視線を交わした——ように見えた。英霊同士の間に、何かが通った。言葉にならない何か。戦士と戦士の間にだけある、値踏みと敬意が混じったもの。
女が口を開いた。
「——あんたが橋道のマスター?」
きつい声。だが敵意の奥に、何かを見定めようとする色がある。
新しい顔が、この街に現れた。味方か敵かは、まだ分からない。




