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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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56話 来ない

 朝、目が覚めた。


 社務所の畳。秋の冷気は、昨日より弱かった。襖の隙間から流れ込む空気が、湿っていない。澄んでいる。陽太は身を起こして、外を見た。


 晴れていた。


 雲がない。青い空。秋らしい空。昨日までの曇天が、嘘のようだった。陽太は深く息を吸った。冷たくて、澄んだ空気が、肺に入った。


 箱を膝に乗せた。ぬるい。普通の温度。マリアの祈りも、今日は落ち着いている。


 男が壁にもたれて立っていた。陽太と目が合うと、薄く笑った。


 「いい朝だな」


 「ああ」


 短いやり取りだった。それで充分だった。昨日、橋の上で交わした言葉が、まだ二人の間に残っていた。あらためて何かを話す必要はなかった。


 朝食を済ませて、準備を整えた。リュックサックに箱を入れた。今日もクリスと会う約束だった。同じ時間、同じ場所。


 陽太の中に、わずかな期待があった。クリスが、どんな顔で現れるのか。一晩で何かが進んだのか。共闘か、別の選択か。クリスは「結論は出ていません」と言ったが、「考えました」とも言った。一晩は、長い。


 軽い期待だった。重さを伴わない期待。


 社務所を出た。境内の石畳の上に、朝日が落ちていた。



      *



 駅。電車。降車。歩く。


 車内、陽太は窓の外を見ていた。秋晴れの京都。観光客の声。学生の笑い声。普通の朝の風景。男は実体化を解いていた。陽太の肩のあたりに、薄い気配だけがあった。


 一条戻橋の手前に着いた。


 昼前。秋晴れ。気持ちのいい天気。だが——。


 陽太は立ち止まった。


 橋の周辺が、静かすぎた。


 昨日も観光客は少なかった。曇天で、湿った空気で、人が少なかった。それは理由のある静けさだった。だが今日は——快晴の秋の昼に、橋を渡る人が、誰もいなかった。観光客が少ない、ではなかった。いなかった。地元の通行人もいなかった。


 男の気配が、陽太の隣で濃くなった。実体化していた。陽太は男を見た。男も、橋を見ていた。


 「妙だな」


 男が呟いた。


 「ああ」


 二人が、橋の手前に立った。



      *



 待った。


 クリスは、来なかった。


 十分が過ぎた。


 陽太は橋の向こう側を見続けた。クリスが現れる方向を。だが、誰も現れなかった。橋の向こう側も、こちら側と同じく、人がいなかった。空気だけが、澄んだまま、流れていた。


 二十分が過ぎた。


 陽太の中の軽い期待が、少しずつ薄れていった。クリスは、儀礼を重んじる人物だった。これまで、約束の時間を一分でも違えたことがなかった。十分前には橋の向こう側に立っているのが、クリスの常だった。


 三十分が過ぎた。


 陽太は腕時計を見た。何度も見た。秒針が、いつもより遅く動いている気がした。


 四十分が過ぎた。


 違和感が、不安に変わった。クリスが時間を守らないことは、なかった。約束を破る理由がない。昨日、クリスは確かに言った。また、明日。同じ時間に、と。クリスがそれを破るのは、破れない事情があるからだ。


 何かが、起きている。


 一時間が、過ぎた。


 「……何かあったのか」


 陽太が呟いた。


 「分からん」


 男が短く答えた。


 男の口調が、いつもより低かった。男も、何かを感じていた。


 陽太は、リュックサックから箱を取り出した。マリアの祈りの温度を確かめた。


 箱が、いつもと違った。


 ぬるくない。熱くもない。冷えていた。葛城に会う直前と似た冷え方。だが、葛城のときよりも深い冷え方。マリアの祈りが、何かに抵抗しているような冷え方だった。


 陽太は息を飲んだ。


 「箱が、冷えてる」


 「ああ」


 男も答えた。男の手が、斧の柄に触れていた。男の戦闘本能が、警戒モードに入っていた。だが——敵が、見えなかった。



      *



 クリスを探すことにした。


 陽太と男は橋を離れた。堀川通りに沿って、北へ歩いた。


 通りには、誰もいなかった。


 晴れた秋の昼。京都の中心部。観光客のメッカ。誰もいないことが、ありえなかった。


 陽太は、気づき始めた。これは——普通の静けさではなかった。京都の街自体が、不自然に静まり返っていた。


 車が走っていなかった。タクシーも、バスも、自家用車も、通っていなかった。だが、信号は動いていた。赤、青、黄。誰も渡らない交差点で、信号だけが、決められた時間に色を変えていた。


 遠くで、踏切の音がした。だが、列車の走行音は聞こえなかった。鳴っているのに、何も通らない踏切。


 「街全体、変だ」


 陽太が呟いた。


 「ああ」


 男も、同じことを感じていた。


 歩きながら、陽太は通行人を探した。観光客でもよかった。地元の人でもよかった。誰でもいいから、生きている人間を見たかった。


 通りを曲がった。商店街に入った。シャッターが下りている店はなかった。営業中の店もあった。だが、客がいなかった。店員もいなかった。誰もいない店が、営業していた。


 陽太は震えた。


 これは——彼岸が、近づいているのか。


 いつだったか、少女が呟いた言葉が、頭の奥で蘇った。古風な言い回しだった。「渡し場が開かれるとき、生きた者は彼岸に引かれてゆく」。何百年も前の言葉のような響き方をしていた。だが、今は儀式の最終局面ではなかった。渡し場の本格開放ではなかった。


 なら、これは何だ。


 部分的な彼岸の漏出。何かが、京都の街に薄く干渉していた。陽太には、それが何かは分からなかった。だが、漠然と、自分が知らない領域の力が、街に染み出していることだけは分かった。



      *



 歩いていると、陽太の手の甲の紋が、薄く熱を持った。


 橋道の紋。陽太と男を繋ぐ綱の印。これまで、紋が熱を持つのは戦闘時か、男との強い感情の繋がりが生まれた瞬間だった。今、戦闘はしていなかった。男との間に、強い感情の動きもなかった。


 なのに——紋が、反応していた。


 陽太は紋を見た。薄く光っていた。男も気づいた。


 「綱が、揺れてる」


 男が呟いた。


 「何で」


 「分からん。だが——お前の橋道の紋は、境界に反応する」


 男が、初めて、陽太の紋について踏み込んだ説明をした。


 「橋道は、境界を渡る道だ。境界が薄くなれば、お前の紋が反応する」


 陽太は息を飲んだ。


 橋道の紋が、境界に反応する。京都の街全体が無人になっている異変。それが、境界の薄さに繋がっている。渡し場が、どこかで、薄く開きかけているのか。


 確証はなかった。男の説明も、推測の域を出なかった。だが、二人で「これは普通じゃない」と認識した。


 箱の冷たさが、続いていた。マリアの祈りが、抵抗し続けていた。



      *



 陽太と男は、足を止めた。


 通りには、人がいない。商店街にも、人がいない。クリスを探すと言っても、街全体が無人ならば、探すべき場所がなかった。クリスはこの街のどこかにいるかもしれないし、いないかもしれない。手がかりがなかった。


 「橋に、戻るか」


 男が呟いた。


 陽太は、紋を見た。橋道の紋が、薄く熱を持ち続けていた。境界に反応していた。境界が薄くなっているなら、源は——一条戻橋にあるはずだった。京都で最も境界が薄い場所。マリアと、四百年前の男が、儀式に挑んだ場所。


 「戻ろう」


 陽太が答えた。


 異変の源が、橋にあるかもしれなかった。クリスが来ない理由も、橋に答えがあるかもしれなかった。確証はなかった。だが、街を闇雲に歩くよりは、橋に戻る方が筋が通った。


 戻り道、陽太は箱を抱えていた。冷えた箱を、両腕で抱えていた。マリアの祈りが、陽太の腕の中で、何かと戦っていた。


 橋の手前に戻った。


 クリスは、来ていなかった。橋の上にも、向こう側にも、誰もいなかった。


 陽太は橋を見た。


 橋の上に、薄いもやが出ていた。


 霧ではなかった。秋の昼に、自然発生する霧ではなかった。橋の石の上に、わずかな白い気配が、漂っていた。視覚というより、空気の歪みのような、薄い何か。


 男が斧を構えた。


 「何かが、橋にいる」


 陽太は紋を見た。手の甲の紋が、強く熱を持っていた。明らかな反応だった。


 「敵か」


 「分からん。だが——気配だけだ。実体はない」


 男が橋に一歩進んだ。


 陽太も、男に続いた。橋の手前に立っていることが、できなかった。男一人を、橋の上の何かと向き合わせることが、できなかった。


 男の足が、橋の石を踏んだ。


 その瞬間、男の周りのもやが、わずかに後退した。


 男の橋道の力が、境界に立つときに発動する力。それが、もやを押し返していた。だが、もやは消えなかった。橋の中央から少しずつ後退するだけで、橋そのものから去ろうとしなかった。


 陽太は、男の隣で、もやを見ていた。


 近づくと、もやは、ただの白い気配ではなかった。何かの形を、わずかに持っていた。輪郭が、定まらないまま、揺らいでいた。人の形に見える瞬間もあった。獣の形に見える瞬間もあった。だが、すぐに崩れて、また白い気配に戻った。


 あれは、何かの残骸だ、と陽太は思った。


 昔、何かだったもの。今は、形を保てなくなったもの。橋の上に、形を取り戻そうとして、留まっていた。


 箱の冷えが、陽太の腕の中で、いっそう深くなった。マリアの祈りが、その残骸を、押し返そうとしていた。マリアの祈りと、男の橋道の力。二つが、もやを橋の中央から押し出していた。


 しばらく、男と陽太は橋の上に立っていた。


 もやは、男の周囲から離れた位置で、留まっていた。それから——理由なく、消えた。


 風が吹いたわけではなかった。男が何かを斬ったわけでもなかった。ただ、満足したかのように、もやは消えた。


 あるいは——観察し終わったかのように。


 陽太は、その感覚を打ち消そうとした。だが、打ち消せなかった。もやは、ここに何かを試しに来ていた。試して、結果を得て、去った。そう感じられた。


 橋が、元の状態に戻った。



      *



 橋の異変が消えた瞬間に、街にも変化が起きた。


 陽太と男が橋から離れて、堀川通りに戻ると——人が、いた。


 観光客。地元の人。通行人。普通の秋の昼の京都の風景。誰も、先ほどの異変に気づいていなかった。商店街に客が入っていた。店員が話していた。何事もなかったかのように、街が動いていた。


 陽太は呆然と立ち尽くした。


 「……戻った」


 「ああ」


 男も呟いた。


 異変は、確かにあった。だが、痕跡が残らない。誰の記憶にも残らない。陽太と男だけが、それを経験した。


 陽太は紋を見た。熱が引いていた。橋道の紋が、平常の温度に戻っていた。箱を確認した。冷えていた温度が、ぬるい温度に戻っていた。マリアの祈りが、再び呼吸していた。


 これは——警告だったのか。それとも、誰かが、街に何かを試したのか。試して、その効果を確認して、満足して去ったのか。


 陽太には、分からなかった。


 クリスは、結局、来なかった。



      *



 夕方が近づいた。


 クリスを待つことに、意味がないと判断した。陽太と男は嵐山に戻ることにした。


 電車。秋の夕日。窓の外の風景。京都の街は、普通に動いていた。観光客が笑っていた。学生が話していた。何事もない夕方。


 だが、陽太の中で、何かが変わっていた。


 街の異変。橋の上のもや。紋の反応。箱の冷え。全てが、繋がっている気がした。何が、誰の仕業か、陽太には分からなかった。だが、繋がっていた。


 男が、ぽつりと呟いた。


 「坊主」


 「ああ」


 「儀式が、変わりつつある」


 陽太が男を見た。


 「どういう意味」


 「分からん。だが——今日の異変は、お前と俺が知ってる儀式の中の出来事じゃない」


 男の声が、低かった。


 「儀式の外側から、何かが押してきている」


 男の言葉が、陽太の中に残った。


 儀式の外側。それが何を意味するのか、陽太には分からなかった。だが、男の表情が、これまでで最も真剣だった。最初の戦闘の夜よりも、葛城に完敗した夜よりも、真剣だった。


 窓の外、秋の夕日が、京都の街を赤く染めていた。穏やかな風景。穏やかな夕方。だが、その穏やかさが、嘘のように見えた。



      *



 深夜、嵐山に戻った。


 社務所。誰もいない。陽太が灯りをつけた。畳の上の埃が、薄く照らされた。秋の夜気。澄んだ空気。


 陽太は箱を畳に置いた。マリアの祈りは、いつもの温度に戻っていた。ぬるい。普通。だが——陽太の中の感覚は、戻らなかった。


 クリスは、なぜ来なかったのか。


 街の異変と、クリスの不在は、繋がっているのか。


 葛城か。御影か。あるいは——誰でもないのか。


 明日、もう一度、橋に行く。クリスが来るかどうか確認する。来なければ、クリスを探す必要がある。陽太は、そう考えた。


 男が壁にもたれて立っていた。


 「明日も、橋か」


 「ああ」


 「もし、明日もクリスが来なかったら」


 男が問うた。


 「探す」


 陽太が即答した。


 「クリスがどこにいるか、分からないけど。それでも、探す」


 男が、薄く笑った。


 「分かった」


 それだけだった。


 陽太は布団に入った。灯りを消した。


 闇の中で、陽太は、橋の上のもやを思い出した。あれは何だったのか。境界が薄くなった、と男は言った。境界の向こうに、何がいるのか。陽太は、それを知らなかった。


 知らないものが、近づいている。

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