57話 矢文
朝、目が覚めた。
社務所の畳。秋の冷気。澄んだ空気。昨日と同じ晴れの朝。だが、陽太の中の温度は、昨日と違った。
昨夜の決意——クリスを探す——が、頭の中で反芻されていた。
陽太は身を起こした。男が壁にもたれて立っていた。陽太を見て、薄く笑った。だが、いつもの笑みではなかった。陽太の決意を、男も感じ取っていた。
「眠れたか」
男が、短く問うた。
「あんまり」
陽太は答えた。
「お前、クリスを探すあて、ある?」
陽太が問うた。
「ねえな」
男が即答した。
「そうか」
陽太は考えた。クリスは京都のどこかの宿に滞在しているはずだった。だが、場所も連絡先も、陽太は知らなかった。
残された手段は、一条戻橋に行って待つことだけだった。クリスが昨日来なかったとしても、今日は来るかもしれない。あるいは——昨日と同じ異変が、また起きるかもしれない。
朝食を済ませて、出発の準備を整えた。リュックサックに箱を入れた。
昨日の朝の「いい朝だな」の空気は、もう、なかった。
*
駅。電車。降車。歩く。
車内、男は実体化を解いていた。陽太は箱を膝に置いた。マリアの祈りの温度を確かめた。ぬるい。今日は、普通。
昨日のような冷えはなかった。マリアの祈りは、今日は呼吸している。だが、陽太は安心しなかった。昨日の異変は、確かにあった。今日は、それが起きないだけかもしれなかった。
一条戻橋の手前に着いた。
*
今日は——観光客がいた。
普通に橋を渡る人がいた。学生。観光客。地元の人。昨日の無人状態とは違った。普通の昼の京都の風景だった。
陽太は緊張を緩めかけた。だが、緩めきれなかった。
橋の手前で待った。
クリスは、来なかった。
昨日と違って、橋の上には観光客が絶え間なく行き来していた。秋晴れの昼。学生が橋を渡って笑った。観光客がカメラを構えていた。その普通の風景の中で、陽太と男だけが、誰も来ない方向を見続けていた。
三十分が過ぎた。一時間が過ぎた。
昨日と同じ「来ない」が、二日続いていた。クリスに何かあった、という確信が、陽太の中で強くなっていた。
「やっぱり、来ねえか」
男が呟いた。
「ああ」
陽太は答えた。
橋を立ち去るしかなかった。陽太は、リュックサックを背負い直した。今日も無駄足だった、と思った。明日、もう一度来るか、あるいは——別の手段を考えるか。
その瞬間。
*
橋の上に、矢が落ちた。
陽太の足元の少し手前。橋の石に、深く刺さった。
硬い音が、橋の上に響いた。だが、周囲の観光客は誰も振り向かなかった。
陽太は息を飲んだ。男が瞬時に斧を構えた。
矢の先端には、何かが結ばれていた。布。羊皮紙。短い書状。糸で、丁寧に結ばれていた。
陽太は周囲を見回した。誰もいない。観光客は普通に橋を渡っていた。誰も、矢が落ちたことに気づいていない。陽太と男にだけ、矢が見えていた。聖なる気配が、矢から薄く立っていた。ロビン・フッドの矢だった。
陽太は矢に手を伸ばした。指先が、矢羽根に触れた。瞬間、わずかな温度が伝わった。手の温度ではない、別の何か。クリスが矢に込めた意志のような気配だった。
陽太は矢を抜いた。書状を取った。糸を解いた。
羊皮紙が広がった。クリスの筆跡だった。日本語で書かれていた。短かった。
『瀬川殿。
約束を破ったこと、お許しください。私は今、ある場所に拘束されています。私の意志ではありません。詳細は書けません。あなたを巻き込むことを恐れて、矢のみで伝えます。
どうか、橋から離れてください。今、橋の上にいることは、危険です。
もし生き延びたら、また会いましょう。
クリス・ヴァレンティン』
陽太は書状を読んだ。男も背中越しに読んだ。
「……どういうことだ」
陽太が呟いた。
書状を持つ手が、震えていた。
クリスが拘束されている。誰に。何のために。書状には書かれていない。「あなたを巻き込むことを恐れて」と書かれていた。クリスは、陽太を守ろうとしていた。
陽太は、昨日の橋の上のクリスを思い出した。眠っていない目をしていた。陽太は、それを「考え疲れた表情」だと思っていた。だが、違ったのかもしれない。クリスは、すでに何かを抱えていて、それを隠しながら、橋の上に立っていたのかもしれない。
陽太の手から、書状が滑り落ちかけた。男が、陽太の腕を支えた。
「落ち着け、坊主」
男の声が、低く、近かった。
「ああ……」
陽太は息を吐いた。
昨日、陽太も同じ判断をした。葛城のことを、クリスに伝えなかった。クリスを巻き込まないために。今、クリスは、同じことを陽太にしていた。
そして——「橋から離れてください。今、橋の上にいることは、危険です」。
陽太は男を見た。男はすでに警戒モードに入っていた。
「離れるぞ」
男が言った。
「ああ」
二人は橋を離れた。堀川通りに移動した。書状を畳んで、陽太は箱の中に納めた。
*
堀川通りを南へ歩いている途中、陽太は気づいた。
通行人の様子が——おかしい。
無人ではなかった。人はいた。だが、全員が、同じ方向を歩いていた。
北へ。
陽太と男は南へ歩いていた。だが、観光客も、地元の人も、学生も、全員が北へ向かっていた。それぞれの目的があるはずなのに、全員が同じ方向を向いていた。
陽太は通行人の顔を見た。普通の顔。何の異常もない。表情も普通。会話している人もいた。だが、足は全員、北へ向かっていた。
「……人が、引っ張られてる」
陽太が呟いた。
「ああ」
男も気づいていた。
昨日の異変は無人化だった。今日の異変は、これだった。人々が、何かに引き寄せられて、北へ向かっていた。
北に何があるのか、陽太には分からなかった。だが、昨日のもやと、同じ何かが関与している気がした。
陽太と男は、人の流れに逆らって、堀川通りを南へ歩き続けた。
*
しばらく歩いて、二人は鴨川沿いに着いた。
鴨川は普通だった。秋晴れの川。観光客が川沿いを歩いていた。北へ向かう人の流れは、堀川通り限定だったらしい。鴨川は影響を受けていなかった。
陽太は息を吐いた。
その瞬間、川沿いの遊歩道に、人影が立っていた。
葛城 冬真。
スーツ。アレクサンドロスは実体化していなかった。葛城は一人で、陽太を待っていた。
陽太は身構えた。だが葛城は、襲ってくる気配がなかった。
葛城が口を開いた。
「クリスから、何か届いたか」
陽太は息を止めた。
葛城が、矢文のことを知っていた。陽太と男にしか見えなかったはずの矢。橋の上に落ちた瞬間に、観光客は誰も気づかなかった。それを、葛城が知っている。
——監視されていたのか。
陽太の頭の中で、寒い疑念が走った。先日の朝、社務所の外に伝令が現れた時のように。今も、自分は見られているのか。
葛城が、陽太の表情を読んだ。
「監視しているわけではない」
葛城が短く言った。
「ロビン・フッドの矢が放たれれば、聖なる気配が動く。京都の中で、私の家系の感応者が、それを察知する。お前を見ているわけではない。矢が、勝手に知らせる」
淡々とした釈明だった。だが、陽太の不気味さは、完全には消えなかった。葛城の家系は、京都の聖なる気配を網のように張っている。陽太が直接見られていなくても、陽太の周辺で起きる超常の出来事は、葛城の網にかかる。
「……届きました」
陽太は短く答えた。葛城は頷いた。
「内容は、聞かない。だが、クリスは生きている。それは確かだな」
陽太は頷いた。
「クリスを拘束しているのは、誰だ」
葛城が問うた。
「……書かれていなかった」
陽太が答えた。
葛城が、わずかに目を細めた。
「お前は、知らないのか。あるいは、書かれていないのか」
陽太は答えられなかった。クリスは「詳細は書けません」と書いていた。書けない事情があった。葛城に伝えるかどうか、陽太は迷った。
御影の指のジェスチャーが、頭にあった。黙っていろ——あるいは、まだ、誰にも言うな。今日も、葛城には全てを伝えない。陽太の選択だった。
葛城が、続けた。
「今日、街で異変が起きている。お前も気づいているはずだ。これは、私の家系の予測の中にあった現象だ」
陽太は息を飲んだ。
「予測の中?」
「ああ。境界が薄くなる前兆だ。だが——本来、この時期に起きるはずではなかった。何かが、儀式の速度を早めている」
葛城が、ようやく一歩踏み込んだ情報を渡した。境界が薄くなる前兆。儀式の速度を早めている存在。だが、葛城はまだ核心は語らなかった。
「私の家系は、四百年にわたって儀式の周期を記録してきた。境界が薄くなる速度には、本来、決まった律動がある。今、その律動が、外から乱されている」
葛城の声は冷たく、淡々としていた。だが、その淡々さの中に、葛城自身が抱えている焦りのようなものが、わずかに混じっていた。
「乱しているのは、誰だ」
陽太が問うた。
葛城が、陽太を見据えた。
「それを、お前に教える義理はない」
短い拒絶。だが葛城は、続けた。
「だが——お前が知るべきタイミングが来たら、教える。それまでに、お前は自分の身を守れ。生き延びろ」
葛城が背を向けた。
歩き出してから、わずかに振り返って、付け加えた。
「クリスを助けたいなら、北を見ろ」
それだけ言って、葛城は去っていった。
陽太は呆然と立ち尽くした。北。堀川通りで人々が引っ張られていた方向。クリスは、北にいるのか。
*
葛城が去った後、陽太と男は、しばらく動けなかった。
葛城の言葉が、陽太の中で響いていた。
「クリスを助けたいなら、北を見ろ」
陽太は、北を見た。鴨川の上流方向。京都の北端。船岡山。建勲神社。あるいは、もっと先。
「行くか」
男が問うた。
「……今日は、無理だ」
陽太が答えた。
「準備ができていない。情報も少ない。それに——葛城が『今は、自分の身を守れ』と言った。葛城が言うなら、行くべきじゃない」
男が薄く笑った。
「お前、変わったな」
「そうかな」
「ああ。前なら、考えなしに飛び出した」
陽太は答えなかった。だが、男の言葉に頷く気持ちはあった。あの夜、葛城に完膚なきまでに叩きのめされた。その相手の言葉を、今、判断材料として受け入れている。それが、いいことなのか、悪いことなのか、陽太には分からない。だが、葛城が嘘をついていないことは、感覚として分かった。
*
夕方、陽太と男は嵐山に戻った。
電車。秋の夕日。窓の外の風景。京都の街は、普通に動いていた。北への人の流れも、いつの間にか止んでいた。
陽太は矢文を読み返した。何度も読んだ。
クリスは生きていた。だが、拘束されていた。誰に。何のために。書かれていなかった。だが、無関係ではない気がした。葛城が「儀式の速度を早めている」と言った存在と。
男が呟いた。
「ロビン・フッドの矢、よく届いたな」
「ああ」
ロビン・フッドの矢は、悪意を持つ者を自動追尾する力だと、いつかクリスが説明してくれた。だが今回は、陽太の足元に届けるために放たれた。クリスがロビン・フッドに細かい指示を出したのだろう。
「クリスは、何かと戦ってる」
陽太が呟いた。
「ああ」
クリスは拘束されながらも、陽太に情報を届けることを諦めていなかった。それは、クリスがまだ陽太の側にいるという証だった。
*
深夜、嵐山の社務所に戻った。
誰もいない社務所。陽太が灯りをつけた。畳。秋の夜気。
陽太は箱を畳に置いた。矢文も、箱の中にあった。マリアの祈りが、矢文を包んでいるような気がした。四百年前の祈りと、今日のクリスの言葉が、同じ箱に収まっていた。
明日、何をすべきか。
「クリスを探す」という昨夜の決意は、矢文によって部分的に達成された。クリスは生きていて、陽太に届く距離にいた。だが、陽太にできることはまだ少なかった。情報を集める。北の意味を考える。葛城の言葉の続きを待つ。御影が動くのを待つ。
探す、から、準備する、へ。陽太の決意が、形を変えていた。
男が壁にもたれて立っていた。
「明日は、どうする」
男が問うた。
「分からない」
陽太が答えた。
男が、薄く笑った。
「お前、まだ俺一人だと思ってないだろ」
陽太は、男を見た。
「今日、矢が飛んできた。葛城が話しに来た。お前が知らねえところで、人が動いてる」
男が、淡々と続けた。
陽太は、男の言葉を受け止めた。クリスの矢。葛城の情報。御影の視線。男の存在。マリアの祈り。それぞれが、それぞれの正しさで動いていて、その中に、陽太を生かそうとする力が、複数あった。
「……俺は、一人じゃないんだな」
陽太の声が、静かだった。
男が、薄く笑った。
「悪くない、坊主」
陽太は、頷いた。
窓の外、北の空が、暗く沈んでいた。




