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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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55話 橋の上で

 朝、目が覚めた。


 社務所の畳。秋の冷気は変わらない。だが、昨日のような胸騒ぎはなかった。陽太は身を起こして、襖の隙間から外を見た。曇り空。雨は降っていない。湿った空気が、境内の石畳を覆っている。


 箱を膝に乗せた。


 ぬるい。普通の温度。マリアの祈りは、今日は何にも反応していない。葛城が動いた朝のような熱もなく、御影に見られた瞬間のような熱もない。ただ——温かい。


 男が壁にもたれて立っていた。陽太を見ていた。


 陽太は、男に何かを言いたかった。だが、口を開けなかった。昨日の夜、一晩中考えていた言葉。男の四百年前の言葉のこと。クリスが翻訳した手紙の内容。それを男に直接伝えるかどうか。


 まだ、踏み切れなかった。


 箱を撫でた。


 「……昼に、橋に行く」


 ようやく、それだけ言った。


 男が短く答えた。


 「行くか」


 「ああ」


 それだけで、朝が終わった。



      *



 駅。電車。降車。歩く。


 一条戻橋の手前に着いた。


 昼前。曇り空が、京都の街並みを薄く覆っていた。観光客の姿が、いつもより少なかった。秋の平日。曇天。橋の周辺は、静かだった。


 男が、橋を見ていた。


 「橋ってのは、いいな」


 ぽつり、と男が呟いた。


 陽太は、男を見た。


 昨日まで、男は橋について自分から語ったことがなかった。「橋の上で戦う」と言ったことはある。「橋の戦士」と呼ばれることを受け入れている節もある。だが——「橋がいい」と、自分の感覚として呟いたのは、初めてだった。


 「お前、橋好きだよな」


 陽太は答えた。


 「ああ。立ってると、落ち着く」


 男が薄く笑った。それ以上は語らなかった。


 陽太は、橋の手前で立ち止まった。橋を渡らなかった。橋の上で待つこともできた。だが、今日はクリスが来てから、二人で橋に立ちたかった。陽太なりの選択だった。


 待った。



      *



 しばらくして、橋の向こう側に人影が現れた。


 黒のロングコート。クリス・ヴァレンティン。


 ロビン・フッドは——実体化していなかった。気配だけが、薄く付き従っている。クリスは戦う気がない。橋を渡って、陽太の側に歩いてきた。橋の手前で止まった。陽太との距離、三メートル。


 クリスの表情が、変わっていた。


 昨日の——マリアの手紙を読んだ直後の、震えた表情ではない。あの夜以来涙を抑え込んできた人間の、抑え込みが少し緩んでいる表情だった。疲れていた。眠っていない目をしていた。


 陽太は、何も言わなかった。


 クリスも、しばらく口を開かなかった。


 二人の間を、橋の下から登ってくる秋の湿った空気が、ゆっくり通り抜けた。堀川の水音。それだけが、聞こえていた。


 最初に口を開いたのは、クリス。


 「考えました」


 声が、いつもより低かった。


 「……何を」


 「私が、これからどうすべきか」


 クリスが続けた。


 「結論は、出ていません」


 陽太は息を吐いた。


 決着していない。だが——昨日までの「儀式破壊」一辺倒ではなかった。クリスは、揺れている。揺れていることを、陽太に伝えに来た。


 それが、今日の答えだった。



      *



 クリスが続けた。


 「マリアの遺言を読んで、儀式破壊が間違いだったと、頭では理解しました」


 クリスの声が、低いまま、続いた。


 「だが、私の家系の四百年は、儀式破壊のためにあった。父も、祖父も、曾祖父も、その使命のために生きて、死にました」


 陽太は黙って聞いていた。


 「私が今、儀式破壊を捨てれば——彼らの人生が、無意味になる」


 クリスの目が、橋の下の水面に落ちた。


 「あなたと共闘することが、正しい。それは分かっている。だが、共闘した瞬間、私の祖父たちが——浮かばれなくなる」


 陽太は、答えられなかった。


 マリアの遺言は「敵対せず共闘してください」だった。それが正しい。だが——クリスの祖父たちは、そのマリアの遺言を読まずに死んでいる。彼らは、自分たちが正しいと信じて、生涯をかけた。そして死んだ。クリスが今、共闘を選べば、祖父たちの人生が嘘になる。


 正しさを知ってしまった人間が、それでも前の正しさを捨てられない。陽太は、クリスの中で起きていることを、ようやく言葉にできた気がした。


 答えがないわけではない。答えはあった。マリアの遺言が、答えだった。だが——その答えが、四百年分の人生を否定する刃になる。クリスは、その刃を、自分の祖父たちに振り下ろせない。陽太には、それが分かった。


 分かるけれど——どうしてあげればいいのか、分からなかった。


 クリスが、続けた。


 「あなたに頼みがあります」


 「……何だ」


 「もう少し、時間をください。私が、自分で答えを出すまで」


 陽太は、頷いた。


 「分かった」


 クリスが、わずかに息を吐いた。安堵か、別の何かか。陽太には判別できなかった。


 クリスが、続けた。


 「ですが、儀式そのものは続いています。葛城も、御影も、第七陣営も、待ってくれない」


 陽太の体が、わずかに固まった。


 葛城の名前。御影の名前。クリスは知っている。バチカン系の情報網で、他陣営の動きを把握している。陽太が昨日、葛城に会ったことを——クリスは、知っているのか。


 判別できなかった。


 陽太は、葛城のことをクリスに伝えるか、迷った。「儀式の構造に関わる何かを、家系は知っている」という葛城の警告。それを伝えれば、クリスの判断材料になるかもしれない。


 だが——伝えなかった。


 御影が立てた指。黙っていろ——あるいは、まだ、誰にも言うな。意味は分からない。だが、まだ伏せておく方がいい気がした。陽太の勘だった。情報の取捨選択を、自分で決める。


 「……分かってる」


 陽太は短く答えた。


 クリスは、それ以上問わなかった。陽太の判断を尊重したのか、自分の方が情報を持っていると確信していたのか、どちらかだった。



      *



 クリスが背を向けた。


 「また、明日。同じ時間に」


 「ああ」


 クリスが、橋を渡って、向こう岸へ歩いていった。ロビン・フッドが薄く実体化して、後を追った。緑のフード。矢筒。だが、矢を構えていない。


 陽太と男が、橋の手前に残された。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 橋の下の堀川の水音だけが、聞こえていた。曇り空の下で、水の音だけが、時間を刻んでいた。


 陽太は、息を吐いた。


 クリスとの距離が、橋を一本、隔てた向こうに遠ざかっていく感覚があった。物理的な距離ではなく、互いに抱えているものの重さの距離。クリスの祖父たち四百年。陽太の隣にいる男の四百年。同じ四百年でも、まったく違う四百年だった。


 陽太の手の中で、箱が、薄くぬるんだ。マリアの祈り。それも、四百年前のものだった。


 箱を撫でながら、陽太は、男を見た。


 男は、橋の方を見ていた。クリスが歩き去った方向ではなく、橋そのものを。


 言うなら、今だ、と陽太は思った。


 昨日の夜、社務所で、伝えるべきか迷っていた言葉。今日の朝、踏み切れなかった言葉。橋に着くまでの間、ずっと胸の奥にあった言葉。それを、今、男に渡す。それが——今日、自分が橋に来た意味だった。



      *



 陽太が、口を開いた。


 「……お前さ」


 声が掠れた。


 男が、振り返った。陽太を見た。


 「四百年前、何を考えてた」


 男が、薄く笑った。


 「覚えてないって、言っただろ」


 いつもの飄々とした口調。だが、目の奥に、何かがあった。陽太は、それを見ていた。


 陽太は、橋の上の石を見下ろした。古い石。何百年も、人が踏んできた石。マリアも、四百年前、ここを踏んだのだろうか。男の——四百年前の男の——足音は、ここに残っていないだろうか。


 息を吸った。秋の湿った空気。


 言うべきか、迷った。


 男に直接伝えれば、何かが変わる。男との関係が、これまでとは違うものになる。陽太には、それが何になるのか、分からなかった。重くなるのか、軽くなるのか。良いものになるのか、戻れないものになるのか。


 だが——伝えなければ、自分の中に残った言葉が、いつまでも消えない。クリスが翻訳した手紙の言葉は、陽太の中で生きていた。生きたまま、男に届いていなかった。


 陽太は、リュックサックから箱を取り出した。蓋を開けなかった。マリアの手紙には触れなかった。ただ、箱を両手で持った。木の表面の温度が、指先に伝わった。マリアの祈りが、陽太の言葉を整えてくれる気がした。


 「クリスが翻訳した手紙の中で、お前が——マリアに、最後に言った言葉があった」


 男が、答えなかった。


 「『次に俺が呼ばれる時、もっと信じられるマスターと組めますように』」


 陽太の声が、震えた。


 「お前、それを言ったんだ。四百年前に」


 男は、答えなかった。


 長い沈黙が、橋の手前に落ちた。


 堀川の水音。秋の湿った空気。曇り空。男は、橋の方を向いていた。陽太は、男の横顔を見ていた。男の表情が、わずかに——揺れた。気のせいかもしれなかった。だが、陽太には、揺れたように見えた。


 箱が、陽太の手の中で、薄く熱を持った。


 マリアの祈りが、反応していた。四百年の時を超えて、彼女の言葉が、男の元へ届いた瞬間に。陽太には、そう感じられた。


 男が、ようやく口を開いた。


 「覚えてない、とは言ったが」


 男の口調が、いつもより低かった。


 「お前と組んで、最初に思ったことがある」


 「……何を」


 「『前にも、こんな感じだったか』」


 陽太は、息を止めた。


 男は、それ以上、語らなかった。


 陽太は、男の横顔を、もう一度見た。


 男の中に、四百年前の記憶はない。それは、初めて出会った夜に、男自身が言っていた。召喚されるたびに、過去の召喚の記憶は消える。そういうものだ、と男は言った。


 だが、男は今、「前にも」と言った。


 記憶ではなかった。男は、覚えていなかった。陽太に話した「四百年前のマリアへの言葉」を、自分が言ったとは認識していなかった。だが——感覚として、何かが残っていた。陽太と最初に組んだ夜、男の中に、説明のつかない既視感が走った。それが、四百年前の自分の願いと、繋がっていた。


 男は、それを、陽太に伝えた。


 断片だけ。記憶ではなく、感覚の欠片だけ。


 陽太は、目に何かが滲むのを感じた。だが、橋の手前で泣くことはしなかった。クリスが八歳以来涙を抑え込んでいるように、陽太も今日は泣かなかった。


 「……俺で、よかったか」


 声が、小さかった。


 男は、すぐには答えなかった。


 しばらく、男は橋を見ていた。秋の曇り空の下で、古い橋を。それから、陽太の方に視線を戻した。


 「ああ」


 即答だった。


 「悪くない、坊主」


 悪くない。男の口癖。出会った夜から、ずっと使ってきた言葉。「まあ、なんとかなるだろ」と並ぶ、男の決まり文句。


 その一言が、今、最大の重みを持っていた。


 男が、橋を見た。


 「橋の上で組めて、よかった」


 短く、それだけ言った。陽太は、それを聞いた。聞いて、何も答えなかった。答えるべき言葉が、見つからなかった。



      *



 陽太が、橋に足を踏み入れた。


 古い石橋。木と石が組み合わさった構造。足を一歩進めるごとに、わずかな軋みが、靴底から伝わってきた。


 これまで、陽太は橋の手前で立ち止まることが多かった。橋の上は男の領域、橋の手前は陽太の領域、という暗黙の分担があった。男が橋の上で戦い、陽太が橋の手前で支える。それで、ずっと、やってきた。


 今日、陽太は、橋に立った。


 男と並んで。


 橋の中央まで進んで、陽太は立ち止まった。男も、陽太の隣に立った。二人の影が、橋の石の上に、薄く落ちていた。曇り空の下の、淡い影。


 陽太は、堀川の水を見下ろした。秋の水。冷たそうだった。


 「俺、最初は逃げたかった」


 「知ってる」


 「今は、逃げたくない」


 「知ってる」


 男が、薄く笑った。


 「お前は、橋の上に立てる坊主だ」


 陽太は、男を見た。男は、前を見ていた。橋の向こう、クリスが歩き去った方向を。男の横顔には、見たことのない静けさがあった。陽太は、その横顔を、心に焼き付けた。


 「明日、クリスに会う」


 陽太が言った。


 「ああ」


 「葛城のことは、まだ言わない」


 「ああ」


 「御影のことも、まだ言わない」


 「ああ」


 男が、それぞれに頷いた。


 「だが、お前のことは、いつか言う」


 陽太の声が、低かった。


 「俺たちのことを、誰かに語る日が来る」


 男が、答えなかった。だが——薄く、笑った気配があった。



      *



 夕方が近づいた。


 曇り空が、わずかに赤く染まった。雲の隙間から、夕日が差し込んでいた。


 陽太と男は、橋の上に立っていた。


 「帰るか」


 陽太が言った。


 「ああ」


 二人が、橋を渡って、嵐山の方向に歩き出した。


 橋の下で、堀川の水が、静かに流れていた。


 四百年前の橋の下にも、同じように、水は流れていただろう。

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