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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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51話 戻橋

 翌朝。一条戻橋。


 夜明け前。空がまだ薄暗い。秋の冷たい空気。陽太は橋の手前で立ち止まった。男が斧を肩に担いで隣にいる。実体化したまま。霊体化していない。クリスの前で隠す必要がない。


 始まりの場所。何度目だろう、ここに来るのは。最初の夜に倒れていた場所。男と二人で第二の始まりとして立った場所。今、また来ている。新しい戦いのために。橋は変わらない。陽太だけが変わってきた。


 橋の向こう側に、クリスが立っていた。黒のロングコート。緑のフードの男——ロビン・フッドが、今度は実体化していた。弓を構えている。新しい矢。何の矢かは分からない。だが普通の矢ではない。


 二人が、橋を挟んで向かい合った。


 観光客はまだ来ない時間。早朝の散歩中の住民が一人、橋を通り抜けて行った。だが彼女には何も見えない。マスター同士、英霊同士の対峙が、彼女には認識できない。京都の住民が日常的に通る場所で、儀式の戦闘が始まろうとしている。


 クリスが声を上げた。橋の向こうから。


 「定刻通りですね、瀬川さん」


 「ああ」


 「約束通り、できる限りあなたを倒さないように戦います。あなたも、できる限り私を倒さないように戦ってください。だが——」


 クリスが手を上げた。


 「使命を阻まれたら、本気を出します」


 使命。クリスの儀式破壊の使命。陽太がそれを阻めば、クリスは本気を出す。陽太を倒す方向に。


 陽太が頷いた。「分かった」



      *



 ロビン・フッドが矢を構えた。


 弦が引かれる音。空気が張り詰める。男が斧を構え直した。陽太は紋に意識を集中した。逆流の準備。だがすぐには発動させない。葛城戦の代償が——まだ残っている。左耳は聞こえない。逆流を頻繁に使えば、もっと壊れる。


 今日の戦闘は、不退橋を中心にした守備戦になる。攻撃は、男の判断に任せる。陽太は逆流の温存を優先する。


 矢が放たれた。


 光る矢。聖なる光。だが今日のは——複数。三本同時。ロビン・フッドが三本の矢を一度に放った。普通の弓では不可能。聖なる力で複数の矢を同時に放つ技。


 不退橋が展開された。男が前に出た。橋の上で。陽太の前に。


 三本の矢が——不退橋にぶつかった。三本とも弾かれた。光が散った。だが——一本、おかしな動きをした。弾かれた後、空中で軌道を変えた。


 ロビン・フッドの新しい技。曲射。直線ではなく、曲線で攻撃する矢。普通の弓では物理的に不可能。聖なる力で軌道を曲げている。


 曲がった矢が、陽太の側面から襲ってきた。男の不退橋は正面のみ。側面はカバーしていない。


 陽太が反射的に飛び退いた。矢が髪をかすめた。冷たい風。間一髪。


 「……新しい矢だな」


 男が呟いた。


 「ああ。クリスが進化してる」


 今のクリスは、以前会った時より強い。バチカンに戻ってから、何かを学んだのか。あるいは——クリスの覚悟が深まったから、力が増しているのか。



      *



 クリスが前進してきた。橋の上を。歩いて。ロビン・フッドが矢を構えたまま、クリスの後ろから矢を放ち続ける。


 矢が連続で飛んできた。十本以上。曲射で。陽太の周囲を囲むように。逃げ場がない。男が全方向に不退橋を展開しようとした。だが——不退橋は正面の壁。全方向には展開できない。


 陽太は判断した。逆流を、ごく短時間だけ発動する。最低限。男の不退橋を、瞬間的に強化して、全方向に広げる。


 紋に意識を集中した。覚悟を。「壊れてもいい。男を消させない」。あの覚悟。


 紋が赤く光った。逆流が始まった。男の不退橋が——拡張された。正面だけでなく、左右にも。瞬間的に。三秒。それだけ。


 矢が、全部弾かれた。十数本の聖なる光が、男の周りで散った。


 陽太が紋から手を離した。逆流が止まった。代償——鼻血が一筋。少しだけ。三秒の逆流なら、軽い。


 「……上手くなったな」


 男が振り返って言った。


 「ああ。三秒なら、持つ」


 葛城戦は一分以上維持した。今は三秒。代償を抑えるために、短い時間で済ます。陽太の戦い方が、進化していた。長期戦に対応するために。



      *



 クリスが立ち止まった。橋の中ほどで。


 「……素晴らしい」


 穏やかな声。だが感心している。


 「逆流を瞬間的に使う。代償を最小限に抑える。あなたは葛城戦の経験を、戦い方に組み込んでいる。成長しています」


 成長。クリスが認めた。


 「クリスも進化してる」


 陽太が答えた。


 「曲射の矢。バチカンで何かを得たのか」


 「祖先の手記の中に、四百年前のマリアが使っていた技の記録があった。それを習得しました」


 四百年前のマリア。ヴァレンティンの祖先。彼女が使っていた技。クリスはそれを継承した。家系の蓄積。


 「あなたの英霊が——もしかしたら同じ系統だったのかもしれない」


 陽太が言った。


 クリスが目を見開いた。陽太が観測者の話を知っていることを、彼も既に把握している。マリアからの情報で。だが——「マリアの英霊が同じ系統」という仮説は、クリスも考えていなかったらしい。


 「……それは、考えていませんでした」


 クリスが手記を取り出した。コートの内ポケットから。古い革表紙の手記。


 「祖先の手記には、彼女の英霊の名前は記録されていません。なぜ書かなかったのか、理由が分からない。空白でした、ずっと」


 空白の理由。陽太は、それを推測できた。観測者の話と組み合わせれば。


 「もしかしたら——『無名の英霊』だったから、書けなかったんじゃないか」


 クリスが息を止めた。一瞬。


 「無名の英霊?」


 「俺の男も、無名だ。記録に残ってない。だから——マリアの英霊も、同じ系統だったかもしれない。橋道の系統」


 クリスが手記を見つめた。何百回も読んできた手記の、空白の頁を、初めて別の角度から見ている。


 「……それなら、彼女が橋道のマスターだった可能性が出てきます」


 四百年前のマリアが、橋道のマスター。彼女もまた、本来の儀式の中心だった。だが彼女は——儀式破壊を試みて、敗れた。本来の役割を果たさずに。


 「祖先は、自分の役割を知らずに死んだのかもしれない」


 クリスが呟いた。声に、何かが混じっていた。動揺。あるいは——後悔。彼の家系の四百年の前提が、揺らいでいる。マリアが橋道のマスターだったなら、儀式を破壊するのではなく、整える役割があった。なら彼女は——間違っていた。クリスが継いできた遺志は、間違った遺志。



      *



 クリスが手記を閉じた。


 「……戦いを、続けてもいいでしょうか」


 声が掠れていた。


 「あなたが提供してくれた解釈は、私には大きすぎる。今、戦いの中で考えるには、重すぎる。後で考えます。今は——使命を果たします」


 使命を、保留せずに果たす。クリスはそれを選んだ。揺らぎを認めながら、それでも戦う。彼の選択。


 陽太が頷いた。


 「分かった。続ける」


 ロビン・フッドが矢を構え直した。クリスが手を上げた。


 戦闘が再開した。


 矢が飛んできた。曲射で。男が斧を振った。陽太の周囲の不退橋を強化した。瞬間的に。陽太は逆流を使った。短時間で、何度も。代償を分散しながら。


 ロビン・フッドの矢が、新しい軌道で飛んでくる。直線、曲線、さらに——上空から落下する曲線。三段階の軌道。男の斧では、上から落ちてくる矢を弾きにくい。男が体勢を変える。斧を頭上に。陽太を背中で守る。落下する矢が斧で弾かれる。


 弾けた矢が、空中で青白い火花を散らした。聖なる矢の本質——光が粒子に分かれて橋の上に落ちる。その粒子に、陽太の左の手の甲が触れた。一瞬、紋が灼けた。皮膚が焼ける匂い。陽太は手を引いた。聖なる矢は、マスターの紋を焼く。物理的に避けるだけでなく、粒子からも逃げなければならない。


 空気の質が変わっていた。橋の上の空気が、聖なる粒子で満ちている。呼吸するたびに、肺の奥が冷たくなる。クリスの圧——あの祈りの冷たさ——が、橋の上を支配し始めている。葛城戦の世界征途とは違う。世界征途は領土。クリスのは領域ではなく、空気の質を変える。


 だが、ロビン・フッドが連射してくる。十秒に一本ではなく、三秒に一本のペースで。聖なる力の消費が増えるはずだが、ロビン・フッドは消費を気にしていない。長期戦を見据えて、出し惜しみしない。今日のうちに陽太を消耗させるつもりか。


 次の瞬間——ロビン・フッドが弓を構え直した。一本ではなく、十本同時。背中の矢筒から十本の矢を一気に抜いた。普通の弓では物理的に不可能。だが聖なる力で十本を同時に矢羽根に並べている。


 十本同時射撃。


 「来るぞ、坊主——避けろ」


 男が叫んだ。


 陽太が橋の欄干の影に飛び込んだ。男が斧を全方向に振り回す。十本の矢が一斉に飛んできた。曲射で。上から、下から、左右から。男が斧を風車のように回転させる。千年前のデーンアックスの本来の使い方。盾と剣を兼ねる斧。


 斧の刃が、矢を次々に弾いた。鈍い金属音が連続する。八本まで弾いた。だが——二本が抜けた。男の防御を抜けて、欄干の影の陽太に向かって。


 陽太が紋に意識を集中した。三秒の逆流。


 不退橋が瞬間的に陽太の周囲に展開された。二本の矢が、不退橋に弾かれた。陽太の鼻から、また血が出た。三秒の代償。だが軽い。前回の十分の一。


 「……お前、やるじゃねえか」


 男が振り返って言った。汗をかいていた。英霊が汗をかくのは、千年で稀なことだ。


 陽太が橋の上を後退した。男と一緒に。橋の片側に追い詰められないように。距離を保ちながら。


 「坊主。どうする」


 男が聞いた。


 「持久戦。クリスのほうが先に折れる」


 クリスの矢の数には限りがある。聖なる力の消費がある。陽太の逆流も代償がある。お互いに——折れるまでの時間勝負。だが陽太は、クリスのほうが先に折れると判断した。クリスは家系の四百年を背負って、揺らぎ始めている。陽太は男と二人で、揺らがずに立っている。心の強さで——持久戦に勝てる。


 男が頷いた。「分かった」


 戦闘が続いた。十分。二十分。三十分。早朝の一条戻橋で。観光客はまだ来ない時間。住民もこの時間は少ない。男が斧を振り、陽太が逆流を発動し、ロビン・フッドが矢を放ち、クリスが立っている。四つの存在が、橋の上で踊っている。秋の朝の冷たい空気の中で。


 決着はつかなかった。陽太は逆流の代償で、また鼻血を出していた。前回ほどではない。今日は分散していたから。男は何度も不退橋を展開した。クリスは矢を撃ち続けた。ロビン・フッドの聖なる力が——少しずつ消費されていく。


 太陽が完全に昇った頃、クリスが手を下ろした。


 「……今日はここまでにしましょう」


 「ああ」


 「明日も、来てもいいでしょうか」


 「来てくれ。同じ時間で」


 陽太とクリスが、再び橋の上で向かい合った。距離を保ったまま。今度は握手はしなかった。だが、視線で交わした。「明日も戦う」と。


 クリスが背を向けた。ロビン・フッドと一緒に、橋を渡って去って行った。陽太と男が残された。橋の上に。


 「……長くなるな、これは」


 男が言った。


 「ああ」


 毎日戦う。クリスを倒さないために。クリスが折れるまで。あるいは——陽太が折れるまで。


 長期戦が始まった。

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