52話 足跡
翌朝。
陽太と男は、嵐山の社務所で目を覚ました。一条戻橋での戦闘から一日。陽太の左手の甲には、紋の周りに薄く赤い跡が残っていた。聖なる粒子に触れた瞬間に灼けた跡。すぐ手を引いたから軽い火傷で済んだが、跡は一日経っても消えていない。代償の一つ。
男が斧を磨いていた。縁側で。秋の朝の光の中で。鈍い金属音が、規則正しく響いていた。
「……今日は、戦わねえのか」
男が聞いた。
「クリスとは午後から戦う。約束は朝じゃない。同じ時間でいいって言ったから」
昨日のクリスとの最後のやり取り。「明日も来てくれ。同じ時間で」と陽太は答えた。「同じ時間」が朝なのか午後なのか、はっきり指定しなかった。クリスは午後を指定するメッセージをマリア経由で送ってきた。クリスの調整。クリスも消耗している。回復の時間が必要。
「午前中、どうする」
「四百年前のマリアの足跡を辿る。クリスがバチカンで学んだ技は、四百年前のマリアの手記から取ったものだ。マリアの記録は、まだ俺たちが知らないことを含んでる可能性がある」
男が頷いた。「ああ、そうだな」
陽太は決めていた。クリスとの戦闘の間に、四百年前のマリアの記録を追う。クリスが見ている世界を、別の角度から見る。クリスを倒さないために、彼が信じている祖先の遺志の本質を、自分でも理解する必要がある。
*
京都には、隠れキリシタンの史跡が点在している。
陽太は、スマホで調べた。京都市内の隠れキリシタン関連の場所。多くはない。京都の隠れキリシタンは、長崎や大分のような大規模な歴史を残していない。だが、点在している。
元和キリシタン殉教の地。一六二二年、京都で五十二人のキリシタンが処刑された場所。マリア・ヴァレンティンが京都にいた一五九五年から二十七年後の事件。マリアは敗れた後、彼岸に飲まれていたから、この処刑には立ち会っていないはずだ。だが、彼女の系譜——日本人の信徒の中には、この処刑で死んだ者がいたかもしれない。
陽太と男は、その地に向かった。男は霊体化して、陽太の隣を歩いた。
地下鉄を使って、京都駅の北、東本願寺の近くまで来た。観光客が少ないエリア。地元の住民が普通に生活している場所。元和キリシタン殉教の地は、その住宅街の一角にある小さな碑。
石碑が立っていた。「元和キリシタン殉教之地」。簡素な石碑。観光地化されていない。地元の住民もあまり知らない場所。陽太が手を合わせた。男も隣で頭を下げた。千年の戦士が、四百年前の殉教者に頭を下げる。
石碑の前で、陽太は紋に意識を集中した。
何かが、ある。
石碑の根元から、薄い気配が漏れていた。マリアのお守りを取り出した。少女から渡された紅葉の葉。手のひらに乗せた。葉が、わずかに反応していた。京都の渡し場の力に近い、薄い気配を感知している。
四百年前、ここで処刑されたキリシタンたちの中に——マリアの系譜の信徒がいたのかもしれない。そしてその信徒たちが、何かを残した。あるいは、彼らの祈りが、この地に薄く積もっている。
「……何かいる」
男が呟いた。
「ああ。だが、敵意はない」
石碑の根元の気配は、攻撃的ではなかった。むしろ——優しい。守るような。観測者の気配とも違う。京町家の地下にいた観測者は無機質だった。ここの気配は、人間的だった。死者の念。四百年前に処刑された人々の。
*
陽太は、もう少し探した。
元和キリシタン殉教の地から、北に少し歩いた。京都の地理を頼りに。マリア・ヴァレンティンが京都にいた時代、彼女が活動していた場所はどこか。手記にはローマ字で「Kyoto」としか書かれていない。具体的な場所の記録は、消失している。だが、彼女が買った京町家——クリスが今いる町家——の場所と、当時の京都の町割りを考えると、彼女の活動範囲は推測できる。
京都駅の北、寺町通りの周辺。当時、宣教師たちが活動していた地区。今は普通の商店街。地元の住民が買い物をする場所。
その通りを歩いた。男と一緒に。陽太は紋に意識を集中していた。マリアの掌握範囲——四百年前の彼女が活動していた地区——には、聖なる気配の痕跡が残っているはずだった。クリスの町家ほど強くなくても、薄く積もった気配があるはず。
歩きながら、複数の場所で紋が反応した。元和キリシタン殉教の地と同じような薄い気配。宣教師が滞在していた跡。マリアだけでなく、当時の他の宣教師たちの活動の痕跡。点在している。
その中で、一箇所だけ——ほんの少し違う気配があった。聖なる気配とは別に、待っているような気配。「来訪者を待っている」という意志を持つ気配。他の場所は単なる「跡」だが、ここだけは「現在も生きている」気配。
古い喫茶店の前で、陽太が立ち止まった。建物が古い。明治期の洋風建築。だが——その隣の路地を見ると、もっと古い京町家がある。明治より古い建物。江戸時代から続いていそうな町家。気配は、その町家から来ていた。
「ここ、何か感じる」
陽太が言った。
路地の奥に向かった。古い町家の前で立ち止まった。表札はない。だが——空き家ではない。誰か住んでいる気配。だが住人の存在感は薄い。年配の人が一人、というところか。
町家の前で、紋が反応した。聖なる気配。微かな。だが確かに。クリスの町家ほど強くない。だが——同じ系統の気配。
「マリアの……関連の場所か」
陽太が呟いた。
誰かに見られている気配。陽太が振り返った。町家の格子戸が、わずかに開いていた。中から、人影が見えた。年配の女性。陽太と男を見ていた。だが顔は見えない。
女性が格子戸を完全に開けた。出てきた。八十代くらい。和装。白髪。京都の住民らしい話し方で、声をかけた。
「お若い方、何か御用ですやろか」
陽太が頭を下げた。
「すみません。突然。——この場所が、四百年前のキリシタン関連の場所かもしれないと聞いて」
女性が陽太を見つめた。鋭い目。年寄りらしくない、しっかりした目。
「……そう言われたんは、誰や」
女性が聞いた。日本語に少し古い言い回しが混じっていた。
陽太は——どう答えるか迷った。「クリス・ヴァレンティンから」とは言えない。「観測者から」とも言えない。
「自分で調べました」
陽太が答えた。
女性が頷いた。
「ええ勘やね。——うちは、四百年代々、ある人を待っとります」
ある人を、四百年代々、待っている。
陽太は息を飲んだ。佐倉という名前。京都の住民。一見、普通の年配の女性。だが——四百年代々、誰かを待っている家系。観測者の系譜と似ている。だが観測者は地下に封じられていた。佐倉家は地上で、一族として生きてきた。同じ「代々受け継ぐ」でも、形が違う。
*
女性が陽太を町家に招き入れた。
古い京町家。天井が低い。畳の間。床の間に、古い掛軸が掛かっていた。漢文ではない。アルファベット。ラテン語かもしれない。だが文字の周りが——擦り切れていた。何百年も人の目に晒されてきた跡。
「うちは、佐倉と申します」
女性が名乗った。
「四百年前から、ここでマリア様を待っとります。代々」
マリア。マリア・ヴァレンティン。
陽太の心臓が跳ねた。
「マリア・ヴァレンティンを? 四百年も?」
佐倉さんが頷いた。
「うちの先祖は、マリア様の信徒でした。マリア様が彼岸に飲まれた後、信徒たちが京都に残った。バチカンの正式な信徒ではない、隠れた信徒として。代々、マリア様の戻りを信じて、この場所を守っとります」
マリアの戻り。マリアが彼岸から戻ってくる、という信仰。少女のような立場の存在として。少女は四百年、彼岸から戻れずに京都にいる。マリアもまた——どこかに、戻れずにいる可能性がある。
「マリア様は、戻ってこないと思います」
陽太が言った。
佐倉さんが微かに笑った。
「分かっとります。でも、待つことが、うちの代々の使命や。来る人に、これを渡すこと。それが、うちの仕事や」
佐倉さんが、奥から古い箱を取り出した。木箱。鍵がかかっている。だが——彼女は鍵を開けなかった。陽太に箱を渡した。
陽太は受け取らなかった。手を引いた。
「……すみません。突然渡されても、受け取れません。あなたが本当に四百年代々の佐倉家の方なのか、この箱が本物なのか、俺には判断できない」
佐倉さんが頷いた。年寄りらしい、ゆっくりした頷き。
「ええ警戒や。最近の若い人は、すぐに信じる。あんたさんは違う。それも、マリア様の系譜の証拠やね」
佐倉さんが微かに笑った。皺が深い笑み。
「うちが何で証拠を出せるかと言うとな——」
佐倉さんが、奥の棚から古い帳面を取り出した。和紙の帳面。何冊もある。
「これは、佐倉家の代々の記録や。一六〇〇年から、毎代、当主が書いてきた。マリア様のこと、来訪者のこと、京都の渡し場の異変のこと」
陽太は帳面の最初の頁を見せてもらった。古い和紙。墨で書かれた文字。最初の頁には、一六〇〇年の年号と、「マリア様、彼岸に去り給ふ」という記述。それから代々の当主が、マリアを待つ家系として記録を残してきた。
四百年分の記録。これは——偽造できない量だった。紙の劣化、墨の質、筆跡の世代差——全て本物の四百年に見えた。陽太は紋にも意識を集中した。佐倉さんに敵意の気配はない。聖なる気配の痕跡があるが、攻撃的ではない。本物の信徒の家系。
「……分かりました。受け取ります」
陽太が箱に手を伸ばした。佐倉さんが箱を陽太の手に置いた。
「これを、お持ちなさい。マリア様の使徒の系譜の人に、四百年代々、引き継いできた箱や。今、あなたが——その人やと、うちは見ました」
箱を持った陽太の手に、佐倉さんが自分の手を重ねた。一瞬だけ。皺の多い、骨ばった手。だが温かい。
「うちの先祖は、こう言うとった。『この箱は、温度で開く。冷たい手では開かん』と。意味は分からんかった。でも、あんたさんが知る時が来ますやろ」
温度で開く。意味が分からない言葉。陽太は記憶した。佐倉さんが手を離した。
四百年代々、引き継いできた箱。マリアの系譜の人——クリスではなく、陽太に。佐倉さんは、陽太を「マリアの使徒」として認識した。なぜか。
陽太がそれを聞こうとした。佐倉さんが、聞かれる前に答えた。
「うちは、長く生きとるとな、人の中身が見えるようになるんよ。あんたさんの中に、マリア様と同じ気配がある。マリア様も、自分の使命を背負っとった。あんたさんも、何かを背負っとる。同じ系統の重みや」
佐倉さんが陽太の手を握った。年寄りらしい、骨ばった手。だが——温かい。マリアの祈りの冷たさではなく、四百年の家系の温かさ。
「あんたさんが、マリア様の系譜の本当の継承者や。あの異国の青年——たぶん、あんたさんがおっしゃる『クリス・ヴァレンティン』さん——は、血筋では継承者かもしれん。でも、心では違う、とうちは見ました」
血筋ではクリス。心では陽太。佐倉さんがそう判断した。
「俺じゃ、ないと思います。マリアの使徒の系譜は——クリス・ヴァレンティンのほうです」
「そうかもしれん。でも、うちは、あなたに渡したい。直感や」
直感。八十代の女性の、四百年の家系の直感。
陽太は、箱を受け取った。男が後ろで頷いた。受け取れ、と。
*
佐倉さんの町家を出た。
陽太は箱を持っていた。古い木箱。鍵がかかっている。鍵は、佐倉さんが持っていない。「箱を渡された人が、自分で開け方を見つける」という仕組みだった。
「……どうするか」
男が聞いた。
「クリスに渡すべきかもしれない。マリアの使徒の系譜だから」
「だが、佐倉さんは『お前に渡したい』と言った」
「ああ。佐倉さんの直感を信じるなら、俺が持ってる意味がある」
陽太は箱を持ったまま、立ち止まった。京都の路地で。秋の昼の光の中で。古い町家の並ぶ通り。観光客もいない。地元の住民がたまに通り過ぎる。
四百年。マリア・ヴァレンティンが京都に来てから。四百年代々、佐倉家が箱を守ってきた。今、陽太に渡された。
「箱の中身は——分からない。でも、マリアが残したものなら、儀式に関係する」
午後のクリスとの戦闘の前に、この箱の意味を考える時間がある。
午後の戦闘。一条戻橋。クリスとの長期戦。その前に、陽太は——マリアの遺品を、手にしている。




