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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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50話 再襲

 クリスが京都に戻った日、陽太もそれを感じた。


 午後二時。嵐山の社務所。畳の上で、陽太は紋を見つめていた。脈動が変わっていた。聖なる気配が——京都に戻っている。マリアがクリスを引き戻したはずだった。少なくとも数日間は。だが——あの聖なる気配が、京都に近づいてくる。


 昨日の段階では、紋は穏やかだった。クリスがイタリアにいる間、京都の渡し場の力が落ち着いていた。観光客の数も少しずつ戻り始めていた。京都府の専門家チームは継続して動いていたが、街全体の不安は薄まっていた。


 今、それが——再び乱れている。


 「……戻ってきたな」


 男が壁から離れた。斧を肩に担いだ。


 「ああ」


 陽太のスマホが振動した。マリアからのメッセージだった。彼女の連絡先を聞いていた。緊急時のためだけに使う、と互いに約束していた。


 メッセージは短かった。


 「クリスは独自判断で京都に戻りました。バチカンの正式処分を拒否。今後、彼は私の管理下にありません。注意してください。M」


 最後の「M」。マリアのイニシャル。短い、業務的なメッセージ。


 陽太は息を吐いた。マリアの計画は——失敗した。クリスは戻ってきた。バチカンの組織から外れて。完全に個人として。それは、最も危険な状態だった。組織の制約がない。誰の命令にも従わない。彼自身の信仰だけで動く。


 「……どうする、坊主」


 男が聞いた。


 「逃げない。会いに行く」



      *



 会いに行く、と陽太は決めた。


 マリアから町家の場所を聞いていた。ヴァレンティン家が四百年前から代々受け継いできた京町家。京都市内の古い住宅街。マリアは「クリスがそこに戻ったら、私が連絡します」と言っていた。今、まさにその連絡が来た。


 陽太と男が嵐山を出た。市街地に向かう電車に乗った。


 窓の外を、京都の秋が流れていく。紅葉。観光客。修学旅行の集団。普通の京都の昼。だが陽太の紋は熱くなっている。クリスとの距離が縮まるたびに。聖なる気配が、強くなる。


 「お前——会ってどうする」


 男が聞いた。霊体化していたが、陽太の隣に座っているように見えた。陽太にだけ見える形で。


 「分からない」


 正直に答えた。


 「戦うかもしれない。話すかもしれない。クリスがどう出るかで、決まる」


 「お前は、戦いたくないのか」


 男の声に、微かな驚きがあった。


 陽太は首を傾げた。自分の気持ちを、整理しようとした。


 「クリスは敵だ。儀式を破壊しようとしている。俺たちを倒そうとしている。でも——クリスの背景を知った今、戦いたくない気持ちが出てきてる」


 観測者の啓示で、儀式の本来の目的を知った。マリアの話で、クリスの家系の四百年を知った。クリスは——使命に縛られた男。本人の選択ではなく、生まれる前から決まっていた運命。クリスを倒しても、彼の使命を背負った別の誰かが、いずれ来るかもしれない。


 「倒したくないんだ。あの男を」


 陽太が呟いた。


 男が頷いた。「分かる」


 「お前も、そう感じるのか」


 「ああ。あの男は——筋の通った男だ。理由を持って戦ってる。葛城の計算とは違う、あの女の弟への執念とも違う、別の種類の覚悟だ。戦士同士なら、敬意を払う相手だ」


 戦士同士の敬意。男がクリスをそう見ている。それは——武蔵の時と似ている。武蔵に対しても、男は戦士としての敬意を持っていた。


 「だが、戦わなきゃいけねえなら、戦う」


 男が続けた。


 「お前を守るためになら、誰でも斬る。それは変わらねえ」


 誰でも斬る。男のこの言葉が、陽太を揺さぶった。男は、陽太を守るためなら、敬意を払う相手でも斬る。それが、英霊と組んだマスターの責任だった。男に、人を斬らせる責任。



      *



 京都駅で電車を降りた。


 マリアから聞いた住所に向かう。京都市内の古い住宅街。観光地ではない。住民の生活の場。京町家が並ぶ路地。タクシーは使わなかった。歩いて向かった。男と一緒に。クリスに気付かれる前に、町家を見ておきたかった。


 町家が見えてきた。


 古い京町家。表向きは普通の住宅。表札はない。空き家のように見える。だが——紋の脈動が、ここで最大になった。クリスがここにいる。中に。


 陽太が立ち止まった。男が斧を握り直した。


 「……入るのか」


 「入る前に、声をかける。襲撃じゃなくて、訪問にする」


 マリアと同じやり方。日本式の挨拶。襲撃ではないことを示す。クリスが応じるかどうかは——彼次第。


 陽太が町家の格子戸の前に立った。深呼吸した。鼓動が早い。緊張している。だが——震えていない。声を上げた。


 「ごめんください。瀬川陽太です」


 名乗った。クリスは陽太の名前を知っている。隠す理由はない。


 しばらく、応答がなかった。


 それから、格子戸が——開いた。


 内側から。クリスが立っていた。白いシャツに黒のズボン。ロングコートは着ていない。室内着。京都に戻った直後の、休んでいた姿。


 クリスが、微かに笑った。穏やかな笑み。バチカンの屋上で浮かべなかった笑みを、京都に戻ってから取り戻している。


 「……瀬川さん。早いですね」


 「マリアさんから連絡があった」


 「そうですか。彼女は手早いですね」


 クリスが格子戸を大きく開けた。


 「お入りください。お話があるなら、お受けします」


 招き入れた。襲撃ではなく、客として。クリスは——戦闘ではなく、対話を選んだ。少なくとも、最初は。



      *



 町家の奥の座敷。畳の上で、陽太とクリスが向かい合った。男が陽太の後ろに立っている。霊体化していない。実体で。斧を肩に担いだまま。クリスのロビン・フッドも、霊体化したまま、クリスの後ろにいた。だが完全な無形ではなかった。微かに気配が滲んでいる。緑のフードの輪郭が、空気の中に薄く揺れている。男にも見えているはずだった。英霊同士は互いを認識する。


 部屋の空気が、四つの存在で満たされていた。陽太の体温。男の千年の重さ。クリスの祈りの冷たさ。ロビン・フッドの森の風のような気配。畳の上の四つの場所が、四つの異なる温度で占められていた。風が吹いた。庭から。気配が一斉に揺れた。風で——ではなく、互いを認識して。


 四人の戦闘単位が、座敷で対峙していた。だが、まだ、戦闘は始まっていない。


 座敷は古い造りだった。床の間に掛軸が掛かっている。漢詩。読めない。だが筆遣いから古いものだと分かる。床柱は黒光りしている。何百年もの間、人の手で磨かれてきた木の艶。畳は新しい。最近替えられたものだ。クリスが半年前に来た時、または今回戻った時に、業者を呼んで替えたのだろう。


 部屋には、何百年もの時間が積み重なっていた。マリア・ヴァレンティンが買った時から、代々の代理人を経て、クリスがここに座るまで。四百年間、この部屋で何人もの人がクリスのように座ってきた。日本人の代理人たち。バチカンから来た訪問者たち。陽太は——その歴史の中で、初めての日本人マスターとしてここに座っている。


 クリスが先に口を開いた。


 「あなたが来た理由を、推測できます」


 「言ってみてくれ」


 「私を止めに来た。あるいは、説得しに来た。儀式破壊を止めるように」


 陽太が頷いた。


 「半分は当たってる」


 「半分?」


 「もう半分は——あなたを倒したくないと、確かめに来た」


 クリスの目が、薄く動いた。穏やかな笑みが、一瞬だけ、緩んだ。彼にとって、予想外の答え。「倒しに来た」と言われると思っていた。「説得に来た」と言われると思っていた。「倒したくない」は——想定外。


 「私を倒したくない、と」


 「ああ。観測者の話を聞いた。マリアさんの話を聞いた。あなたの家系の四百年を知った。あなたは——生まれる前から使命に縛られていた。倒したくない」


 クリスが少し沈黙した。それから、静かに答えた。


 「あなたは——優しすぎますね」


 「優しさじゃない。倒しても解決しないと思ってるだけだ。あなたを倒しても、あなたの家系の遺志は、別の誰かに継がれるかもしれない」


 「……なるほど」


 クリスが微かに頷いた。


 「だが、それは正論ですが、現実的ではありません。私は、止まりません。家系の使命を完遂するために。あなたが私を倒さなければ、私があなたを倒します」


 冷静な声。揺るぎない声。だが——目に、微かな揺らぎがあった。バチカンで何かを思った跡が、京都に戻ってきても残っている。クリスは完全には揺るがないが、揺らぎ始めている。


 「だから、戦うしかない」


 クリスが続けた。


 「私を止める唯一の方法は、私を倒すことです。説得は無理です。私は——四百年の家系に縛られています。一人の男としての判断では、あなたを倒したくありません。だが、家系の男としての判断は、あなたを倒さなければならない」


 一人の男と、家系の男。クリスの中で、二人の男が対立している。クリスはそれを認めた。陽太の前で。



      *



 陽太が立ち上がった。


 「分かった。じゃあ——戦う。でも、約束する」


 「約束?」


 「戦うけど、できる限り、あなたを倒さないように戦う。あなたを止めるけど、殺さない。それで、何度でも戦う」


 クリスが目を見開いた。完全に予想外の提案。


 「……それは、不可能です。儀式の戦闘は、生死を賭ける。倒さなければ、倒される」


 「不可能でも、やる。倒したくないんだ、俺は」


 陽太の声が掠れた。だが揺るがなかった。


 男が陽太の隣で、薄く笑った。あの飄々とした笑み。陽太の判断を、男も支持している。


 「……分かりました」


 クリスが、ゆっくり立ち上がった。


 「あなたの覚悟を、受け入れます。私もできる限り、あなたを倒さないように戦います。だが——使命を阻まれたら、私は本気を出します。それは理解してください」


 「理解する」


 二人が——握手した。陽太とクリス。マスターとマスター。敵同士の握手。冷たい手と、温かい手。クリスの手は、本当に冷たかった。十月末の鴨川の水のような冷たさ。指が長い。骨ばっている。陽太の手をしっかりと握った。骨の感触が伝わってくるくらいの強さで。


 握手の感触は——マリアの握手と似ていた。冷たい手。だが力強い。指の関節が太い。何かを長く握ってきた手——祈りで。クリスもまた、祈ってきた男。家系のために。何百年もの祖先のために。


 だが陽太の手は温かい。十七歳の手。普通の高校生の手。何かを長く握ってきた跡はない。だが——男の斧の柄を握る紋がある。マスターの紋。これも、ある意味で「祈り」の跡だった。男との綱を維持するための。


 二人は違う祈りを持っている。だが、両方とも祈っている。クリスの手の温度が、握手の数秒間で、陽太の体温で少しだけ温かくなった。それから、また冷たさが戻った。クリスは温められない人間だ。少なくとも、握手の数秒では。


 「次の戦いは——明日の朝、一条戻橋で」


 クリスが提案した。


 「あなたの始まりの場所です。そこで、戦いましょう」


 陽太が頷いた。


 「分かった。明日の朝、一条戻橋で」


 約束された。明日の朝の戦い。倒さない戦い。だが——どちらかが折れるまで続く戦い。

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