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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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49話 帰還

 マリアとの面談は、十五分で終わった。


 バチカン市国。異端審問機関の会議室。長方形の机。クリスとマリア。窓のない部屋。証人なし。記録は形式的。実質的な処分が決まる場所。


 マリアが書類を机の上に置いた。


 「クリス・ヴァレンティン。京都での『境界の儀式』対応において、組織の指示を超えた個人判断による行動が確認されました。具体的には、『儀式破壊』作戦の独自実行。これは、機関の規則に違反します」


 クリスは正座していた。日本式に。京都で覚えた姿勢。日本人ではないが、日本にいた時間が長いから、自然にこの姿勢になる。マリアもそれを知って、特に咎めなかった。


 「処分は、機関本部での調査期間。最低三ヶ月。京都への再派遣は禁止。後任の異端審問官が、京都の儀式に対応します」


 処分。三ヶ月の調査期間。京都への再派遣禁止。


 クリスは、ゆっくりと首を横に振った。


 「お受けできません」


 マリアの目が、薄く動いた。瞳の温度が一段下がった。


 「組織の処分です。受けられないとは、どういう意味ですか」


 「組織の処分は受け入れます。三ヶ月の調査期間。記録に残してください。だが私は、京都に戻ります。明日にでも」


 「再派遣は禁止です」


 「派遣ではない。私個人の判断で戻ります。組織の業務としてではなく」


 マリアが息を吐いた。長い息。組織人として、こういう答えを予想していた。だが、確認のために面談したのだろう。クリスの最終判断を聞くために。



      *



 マリアが書類を別のフォルダに移した。「正式記録」から「非公式記録」へ。組織として処分するが、実質的に個人行動として扱う。これも組織の知恵だった。


 「分かりました。あなたが個人として京都に戻るなら、機関は止めません。だが」


 マリアの声が低くなった。


 「あなたが京都で個人として行動した結果、瀬川陽太に被害が出た場合、機関はあなたを排除します。組織の責任ではなく、機関個別の対応として。それは理解してください」


 排除。クリスを。


 クリスは頷いた。「理解しています」


 「四百年前のあなたの祖先の、マリア・ヴァレンティンの遺志を継ぎたい気持ちは、私にも理解できます。だが、あなたの祖先も結局、敗れた。同じ過ちを繰り返さないでください」


 マリアの声に、初めて、人間としての温度が混じった。職業的な笑みを脱いだ瞬間。クリスを、組織の異端審問官としてではなく、一人の同僚として見る瞬間。


 「私が祖先と同じ運命を辿るなら、それも、私の使命の一部です」


 クリスが答えた。声が静かだった。


 「あなたの祖先は、敗れたあと、彼岸に飲まれた。それを望むのですか」


 「望みません。だが、結果は受け入れます」


 マリアが目を閉じた。説得を諦めた瞬間。クリスを止められないと判断した。


 「……行ってください。私はあなたを止めません。だが、もう同僚ではないと思ってください。次に会うときは、敵か、客人として」


 マリアが手を伸ばした。最後の握手のために。クリスは応じた。冷たい手と、冷たい手の握手。両者とも温度がない。だが、力強かった。お互いに認め合っている握手。長年の同僚の最後の挨拶。


 マリアの手の感触が、クリスの記憶に残った。実務職の指。書類を扱い、報告書を書く指。だが指の関節がやや太い。何かを長く握ってきた手。マリアも、彼女なりの祈りを持っている。組織のために祈る祈り。クリスの家系のための祈りとは違う。だが、祈りには違いない。


 クリスは部屋を出た。マリアは振り返らなかった。書類を整理する音だけが、ドアの隙間から漏れてきた。


 異端審問機関の廊下を歩いた。石造りの古い廊下。バチカンの建物の中。ここで何百年もの間、何千人もの異端審問官が判断を下し、命令を出し、処分を受けてきた。その歴史の一部に、クリスもなった。「家系の使命を選んで組織を逸脱した男」として、記録に残る。


 不名誉ではない。クリスはそれを受け入れた。家系の四百年が、彼に「組織の不名誉」を背負う覚悟を与えていた。



      *



 ローマ・フィウミチーノ空港。


 クリスは関西国際空港行きの便に搭乗した。エコノミークラス。組織の出張ではないから、ビジネスクラスは使えない。彼は窓際の席を選んだ。日本までの十二時間。眠るつもりはなかった。


 飛行機が離陸した。ローマの夜景が下に流れていく。バチカン市国の小さな光が、遠ざかっていく。クリスはもう戻らないかもしれない。京都で死ぬかもしれない。あるいはマリアが言ったように、彼岸に飲まれるかもしれない。


 手記を開いた。コートの内ポケットから取り出して。四百年前のマリアの記録。何度も読んだ頁。だが今日は、別の角度から読む。彼女が「失敗した」と書いた最後の頁。「いつか、誰かが——この儀式を破壊するべき」。


 彼女は、誰に向けて書いたのか。


 子供の頃のクリスは、自分が宛先だと思っていた。「自分の子孫の中の、いつか実行できる者」と。だが今——別の解釈が浮かんだ。彼女は、誰でもいいから、この儀式を破壊する者に届くように、書いたのではないか。家系の縛りではなく、神に祈るように。


 もしそうなら——クリスが破壊しなくてもいい。誰かが破壊すれば、彼女の遺志は継がれる。瀬川陽太でも、御影凛花でも、葛城冬真でも、誰でもいい。


 クリスは、頁を閉じた。


 いや、と思い直した。マリア・ヴァレンティンは、明確に書いていた。「私は失敗した」と。彼女は、自分の子孫が継ぐと信じていた。クリスがそれを継ぐ。それが、彼女の遺志。


 考えすぎだ。彼の信仰が、揺らぎかけている。マリア——上司の——との面談で。京都で陽太と接触したことで。一般人の少年の率直な動機を見たことで。


 クリスは、目を閉じた。眠るためではなく、考えるために。十二時間の飛行時間で、彼は——自分の使命を、もう一度、確認しなければならなかった。



      *



 関西国際空港に降り立ったのは、翌日の午後だった。


 時差の関係で、ローマの夜から、京都の昼へ。クリスは一人だった。荷物は黒のスーツケース一つ。中にあるのは、最低限の衣類と、四百年前の手記。それだけ。彼の必要なものは、彼自身が持っている。信仰と、使命と、ロビン・フッドとの綱。


 空港から京都行きの電車に乗った。一時間半。窓の外を、関西の風景が流れていく。秋。紅葉。日本の秋。京都の街に近づくにつれて、紋が反応し始めた。手の甲の紋——マスターの証——が、京都の渡し場の力に近づいたことで、温かさを取り戻していく。


 四日ぶりの京都。


 京都駅に降りた。観光客の喧騒。修学旅行の学生たち。外国人観光客。普通の京都駅。だが——空気が前と違った。観測者の箱が傷ついた影響か、京都の渡し場の力が薄く膨張している。住民にも観光客にも、それは見えない。だが感じる人は感じる。クリスのような渡し場の力に敏感な者は、即座に分かる。


 京都が——揺れている。


 彼が四日離れていた間に、京都の状況が悪化していた。マリア——四百年前の祖先——の手記に、似た記述があった。「儀式の本格化前、京都が揺れる」。一五九五年のマリアの時代と、二〇XX年のクリスの時代。同じ揺れが起きている。


 クリスは——口元に、初めて笑みを浮かべた。穏やかな笑み。バチカンの屋上で、最後の涙を思い出した時には浮かべなかった笑み。京都に戻った瞬間、彼は——使命の場所に戻ってきた。それが、彼にとって、唯一の安らぎだった。


 ロビン・フッドが、霊体化したまま、彼の隣に現れた。


 四日ぶり。クリスがバチカンに行っている間、ロビン・フッドは京都に残っていた。霊体化したまま、潜んでいた。マスターから一定距離以上は離れられないが、京都の中なら自由に動ける。


 『……お帰りなさい、マスター』


 ロビン・フッドの声が、頭の中に響いた。緑のフードの下で、笑っているのが分かった。


 「ただいま、ロビン・フッド」


 クリスが答えた。


 「使命を、再開します」


 ロビン・フッドが軽く頷いた。霊体化したままの動作。緑のフードが微かに揺れた。彼はクリスの父も祖父も知らない。クリスの代に初めて呼ばれた英霊だ。だがマリア・ヴァレンティン——四百年前のマリアは——同じ義賊系統の英霊と組んでいたのかもしれない。手記には英霊の名前は書かれていない。だがロビン・フッドが「自分は二度目の召喚かもしれない」と、以前に呟いたことがあった。彼にも記憶の断片がある。何百年も前の召喚の。


 その英霊と一緒に、クリスは使命を完遂する。彼の代で。四百年の終わりに。



      *



 クリスが京都駅から、バチカンが京都に確保している隠れ家——四百年前から代々ヴァレンティン家が日本人の代理人を通じて維持してきた、古い京町家——に向かった。タクシーを使った。普通の観光客のように。


 車内で、彼は思考を整理していた。


 マリア——上司——は、瀬川陽太を支援している。陽太と組んで、クリスを排除する可能性がある。クリスは、それを織り込んで戦わなければならない。


 陽太は、橋道のマスター。本来の儀式の中心。観測者の知識をクリスは知っている。陽太が儀式を「整える」方向に進めば、クリスの「破壊」と衝突する。


 だが——もし、陽太が「整える」ことに失敗したら。陽太がクリスに敗れたら。そのとき、儀式は誰が破壊するか。クリスが完遂できる。それが——クリスの使命。


 彼は、陽太と戦わなければならない。倒したくない、と感じている。だが——使命が命じる。倒すべきだと。


 タクシーが町家に着いた。京都の古い町家。ヴァレンティン家が四百年前にマリアが日本人の信徒を通じて買い取らせた後、代々受け継いできた家。表向きは普通の町家。マリアの時代は隠れキリシタンの時代に近づいていた頃で、宣教師が直接所有することは難しかった。だから日本人の名義で買い、代々別の日本人の名義に書き換えながら、実質的にはヴァレンティン家のものとして維持してきた。バチカンの異端審問機関の知恵。


 クリスは、ここに到着するのが二度目だった。一度目は、半年前。京都の儀式が始まる前、調査のために来た時。


 今は、使命を完遂するために。


 彼は、町家に入った。格子の引き戸を開けて。中は普通の町家の作り。だが奥の蔵に、ヴァレンティン家代々の記録と、バチカンの装備が保管されている。儀式の最終局面が、近づいていた。

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