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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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48話 先達

 クリス・ヴァレンティンは、夜のヴァチカン市国の屋上にいた。


 石造りの建物の屋上。サン・ピエトロ大聖堂の遠くに見える夜の時間。秋。十月の終わり。バチカン市国の小さな公園の上、サンタンジェロ城の近くの建物の屋上。クリスはここに、よく一人で来た。考え事をするときに。


 今、クリスは考え事をしていた。


 京都から戻ってきた。マリア・コルテーゼ上司の召喚で。「上司命令違反の調査」という名目で。実態は——彼を儀式から引き離すための強制送還。クリスはそれを知っていた。マリアの計画も、彼女が陽太に接触したことも。バチカンの内部情報は、クリスの家系には全て届く。四百年の系譜が築き上げた情報網。


 手に古い書物を持っていた。


 革製の表紙。金箔の十字架の刻印。中はラテン語と日本語の混合。一六〇〇年代に書かれたもの。彼の家系の祖先——四百年前、京都の儀式に関与し、敗れた女性の手記。


 名前は——マリア・ヴァレンティン。クリスと同じ姓。彼の家系の祖。


 偶然ではない。クリスの上司の名前も「マリア」。バチカンの異端審問機関は、クリスの家系を、四百年前の祖先と意図的に対比させて配置している。クリスの暴走を抑えるために、同じ名前の上司を置く。皮肉な配置。バチカンの組織的な賢さ。



      *



 クリスが手記の頁をめくった。


 読み慣れた頁。子供の頃から何度も読んできた。クリスは八歳の時に、初めてこの手記を読まされた。父親に。「お前の家系の使命を知れ」と。


 手記の最初の頁——マリア・ヴァレンティンが京都に到着した日の記録。一五九五年。豊臣秀吉の時代。キリスト教が禁教になる前夜。マリアは若い宣教師として、京都に派遣された。表向きの使命は——日本での布教活動。だが裏の使命は——京都の「境界の儀式」の調査。


 バチカンは、京都の儀式を知っていた。一三〇〇年代から。十字軍の派遣の遠征を通じて、東洋の境界の力を間接的に観測していた。日本の京都に「境界が薄い土地」があり、定期的に儀式が行われていることを把握していた。マリアは、その儀式に直接接触するために派遣された。


 マリアの記録によれば——彼女は儀式に関与してしまった。観察するだけのつもりが、ある英霊と契約してしまった。マスターになってしまった。意図せず。当時の儀式の召喚は、マスターを選ばない。渡し場が開いた瞬間、近くにいた者の中で、英霊が選んだ者がマスターになる。マリアは、それに巻き込まれた。


 マリアの英霊は——名前が記録されていない。彼女の手記には、英霊の名前は記されていない。なぜか分からない。不可解な空白。クリスは何度もその頁を読んできたが、答えを見つけられなかった。


 マリアは、儀式に参加した。だが彼女の信仰は、儀式そのものを「異端」と判断した。境界の力で人間を巻き込み殺し合う儀式は、神の意志に背く。彼女は儀式の途中で、儀式破壊を試みた。


 そして——敗れた。マリアの英霊が消え、マリアも此岸から消えた。彼岸に飲まれた。手記はそこで途切れている。最後の頁は、マリアが死の直前に書いた走り書き。「私は失敗した。だが、いつか、誰かが——この儀式を破壊するべき」。



      *



 クリスが頁を閉じた。


 夜風が吹いた。バチカンの石造りの屋上。秋の冷たい風。クリスは黒のロングコートを羽織っていた。京都にいた時と同じコート。


 マリア・ヴァレンティンの記録は、四百年の間、ヴァレンティン家に代々受け継がれてきた。クリスの父も、祖父も、曾祖父も、それを読んできた。「祖先の遺志を継げ」と教えられて。だが——クリスの代まで、誰も実行に移さなかった。


 なぜか。


 簡単な理由だった。儀式が起きていなかったから。何百年に一度の儀式。マリアの代から、クリスの代まで——四百年の間に、京都で儀式が開始されたのは、クリスが派遣された今回が初めて。


 四百年待った。クリスは待たされた。生まれる前から決まっていた。彼は——祖先の遺志を継ぐ者として、生まれたときから「儀式を破壊する」ために育てられた。


 子供の頃のクリスを、彼は思い出した。


 ヴァレンティン家のローマ郊外の屋敷。古い書斎。父が手記を読み聞かせた。八歳のクリス。理解できなかった。「儀式」「英霊」「彼岸」。何のことか分からない。だが父は厳しかった。「お前は、いつかこれを実行する者だ。覚悟せよ」。


 父の声を、今も覚えている。低い声。感情を抑えた声。だがその奥に——使命に縛られた者の苦しさがあった。父も、父の父も、それぞれ「もしかしたら自分の代で儀式が起きるかもしれない」と思って生きてきた。だが起きなかった。父は儀式を見ずに死んだ。祖父も。曾祖父も。代々のヴァレンティン家の男たちは、儀式を見ずに死んでいった。覚悟だけを継いで。


 クリスの代で、ようやく儀式が始まった。彼は——四百年で初めて、祖先の遺志を実行できる代の人間になった。それは彼の幸運か、不幸か。彼自身にも分からない。


 覚悟。八歳の少年に、覚悟を求める父。それが、ヴァレンティン家の流儀だった。子供の頃から覚悟を植え付ける。四百年の信仰の継承のために。


 その夜、クリスは泣いた。八歳のクリスが、書斎で一人、声を殺して泣いた。「儀式」も「英霊」も理解していないのに、自分の人生が決まってしまったことだけは分かった。普通の少年として生きられない。普通の青年として恋をすることもできない。普通の大人として家族を持つこともできない。彼は——使命の道具だった。生まれる前から。


 その夜が、クリスの最後の涙だった。それ以降、彼は泣かなかった。涙を消費するのは、使命に集中する妨げになるから。父がそう教えた。クリスは従った。三十二歳になった今まで。



      *



 クリスが屋上の縁に近づいた。


 下を見下ろした。バチカン市国の夜景。サン・ピエトロ広場の照明。観光客の最後の集団が、広場を歩いている。普通の夜。普通のバチカン。


 彼は、ここに帰ってきた。一週間前の予定だった京都の儀式破壊作戦は、半分しか進んでいない。最初の標的——西陣の観測者の箱を傷つけるところまでは、成功した。だがその後、マリアが介入した。瀬川陽太との接触。クリスの引き戻し。


 クリスは——陽太を「面白い」と感じていた。


 真実の矢で見た陽太の動機。複雑だった。「自分のため」「あの男と離れたくない」「母親のところに帰りたい」「凛花を連れ戻したい」「渡し場を閉じたい」「壊れたくない」「死にたくない」「左耳を取り戻したい」。一般人の少年の、率直な動機。混ざり合った願い。一つに絞れない複雑さ。


 クリスは、その複雑さに——感心した。葛城のような計算ではない。少女のような長い時間をかけた執念でもない。一般人の若者の、率直な「全部欲しい」という願い。それが——クリスにとって、新鮮だった。


 四百年の家系の重さを背負ったクリスには、率直さがない。生まれる前から決まっていた使命。八歳から植え付けられた覚悟。彼の信仰は、彼自身のものではなく、家系の蓄積。だから揺るがない。だから——率直さもない。


 陽太は、率直だった。それが、クリスを揺さぶった。


 マリア——上司のマリア——が、それを見抜いた。「あなたは陽太を倒したくないと思っています」と陽太に伝えた。クリスは反論しなかった。マリアの言うことは正しい。クリスは陽太を倒したくない。だが——使命が命じる。倒すべきだと。


 四百年前の祖先のマリアの遺志。「儀式を破壊するべき」。それが彼の使命。彼の率直な気持ちは、関係ない。



      *



 屋上の縁から、クリスは下を見続けた。


 飛び降りたら、彼は死ぬ。バチカンの建物は高い。下の石畳に落ちれば、即死。考えたことがあった。何度か。子供の頃から。「死ねば使命から逃れられる」と。だが——逃れなかった。彼の家系の血は、彼を立ち止まらせた。


 四百年の祖先たちが、彼の中で叫んでいる。「使命を果たせ」「儀式を破壊しろ」「マリアの遺志を継げ」。それが、彼を生かしている。逃げ場がない。彼は、儀式の破壊を完遂する以外に、生きる道がない。


 夜風が、また吹いた。


 クリスは縁から離れた。屋上の中央に戻った。手記をコートの内ポケットに戻した。


 明日、上司のマリアと面談がある。京都での「命令違反」について、説明する義務。クリスは答えるつもりだった。「私は使命を果たすために行動した。命令違反ではない」と。家系の使命と、組織の指示が衝突したら、彼は家系を選ぶ。それは決まっている。四百年前から。


 マリアは、クリスの家系の使命を理解しているはずだ。彼女もまた異端審問機関の中で、長い系譜を持つ家の出身。だが彼女は、家系の使命より組織の規律を選んだ。クリスとは逆の選択。


 二人の異端審問官。同じ「マリア」の名前を持つ女性に、二人とも縛られている。クリスは祖先のマリアに。上司のマリアは——たぶん、組織のマリア・テレジアの規律に。同じ名前。同じ縛り。だが選ぶ方向が逆。


 クリスは屋上を出た。階段を降りた。バチカンの石造りの建物の中を歩いた。


 彼は——京都に戻る。マリアが何を言おうと。組織が何を命じようと。彼の使命は、京都の儀式の破壊。その完遂のために、彼は戻る。


 四百年の祖先のマリアの遺志を、彼の代で果たす。


 たとえ——陽太を倒すことになっても。

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