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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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46話 訪問者

 社務所の入口の障子が、外から軽く叩かれた。


 「ごめんください」


 女性の声。日本語。穏やかな声。だが——日本人の発音ではない。微かに英語の響きが混じっている。クリスとも違う。クリスは流暢な日本語で、英語が滲むのは時折だった。この声の主は日本語そのものはきれいだが、響きが完全に日本人ではない。


 陽太と男が顔を見合わせた。男が入口の方向を見たまま、低く言った。


 「敵意は感じねえ。だが——軽くは見れねえ気配だ」


 陽太は社務所の奥から答えた。


 「どうぞ」


 障子が開いた。


 女性が立っていた。三十代くらい。白人。長身。黒のスーツ。襟元に小さな十字架。だが牧師の服装ではない。実務的な服装。バチカンの異端審問官——だが、クリスと同じ立場ではない。たぶん。


 彼女が頭を下げた。日本式に。低く。


 「失礼します。あなたが瀬川陽太さんですね」


 名前で呼ばれた。クリスの宣言で「瀬川陽太」と名指しされて以来、二度目。バチカンは陽太を完全に認識している。


 「そうだ」


 「私はマリア・コルテーゼ。バチカンの異端審問機関の所属です。クリス・ヴァレンティンの同僚——いえ、上司です」


 上司。クリスの。



      *



 マリアが社務所に入った。靴を脱いで。日本式に。靴の脱ぎ方が手慣れていた。日本に長くいる、あるいは何度も来日している様子。足袋ではなく黒のストッキング。畳の上に正座した。脚の置き方が日本式。練習した動作。


 彼女が両手を膝の上に置いた。指が長い。爪が短く整えられている。実務職の指。書類を扱い、報告書を書く指。武器を握る手ではない。だが指の関節がやや太い。何かを長く握ってきた手。たぶん祈りで。バチカンの異端審問官として。


 男が斧を握ったまま壁に寄りかかっている。マリアは男に視線を移した。視線の動きが速い。観察する目。クリスのような穏やかさではなく、情報を分析する目。男の体格、斧の形、立ち位置。一瞬で全てを記録した。


 「橋道の英霊ですね。お会いできて光栄です」


 穏やかな声。男に頭を下げた。男が眉を上げた。英霊が「光栄」と呼ばれる経験は、千年で初めてかもしれない。男は会釈だけ返した。言葉は出さなかった。


 マリアが陽太に向き直った。


 「お話する前に、一つだけ。私はクリスを止めるために、ここに来ました」


 止める。クリスを。


 陽太は息を飲んだ。バチカンの内部で、クリスは「止められるべき存在」になっている。それが意味することは——。


 「クリスの儀式破壊計画は、バチカンの公式な作戦ではないんですか」


 陽太が聞いた。


 「半分です」


 マリアが正確に答えた。


 「クリス・ヴァレンティンは、バチカンの異端審問機関の正規メンバーです。彼の使命は『境界の儀式の調査と監視』。それは公式な任務です。だが『儀式破壊』は、彼個人の判断です。バチカンは儀式破壊を命じていません」


 個人の判断。


 「彼は、暴走しているんですか」


 「暴走、と言うと違うかもしれません。彼は信仰に基づいて行動しています。バチカンの教義に忠実すぎるくらいに。だがバチカンの指揮系統からは、外れています」


 信仰に忠実すぎて、組織から外れた。


 陽太は座ったまま、マリアを見つめた。クリスというキャラクターの輪郭が、急に複雑になっていく。組織の一員ではなく、組織の中の独自行動者。背中にバチカンを背負っているが、命令には従わない。それは、ある意味で——葛城より厄介な相手だ。葛城は計算で動く。読める。クリスは信仰で動く。組織の論理を超える。読めない。


 「四百年前にも、同じことが起きました」


 マリアが続けた。


 陽太の心臓が跳ねた。四百年前。少女が言っていた、宣教師の話。


 「ご存知のようですね」


 マリアが微かに笑った。陽太の表情の変化を読んだのだろう。だがその笑みは、目に届いていなかった。口の端だけが上がる笑み。バチカンの組織で身につけた職業的な笑み。クリスの祈りに似た穏やかさはない。マリアは——もっと冷たい場所で訓練された人だ。


 「四百年前、京都の儀式に関与した宣教師がいました。バチカンが派遣した正規の宣教師ですが、彼女は儀式の破壊を試みました。バチカンの指示ではなく、個人の信仰の判断で。——そして敗れました」


 四百年前の女。少女が「美しかった」と言った女。


 「クリスは、その宣教師の系譜の最後の継承者です。彼の家系は四百年、京都の儀式に関与してきました。代々、バチカンの異端審問機関に属しながら。——そして代々、バチカンの正規の指示に従わない傾向を持っています」


 四百年の系譜。クリスの血。彼の信仰の確信は、彼個人のものではなく、四百年の家系の蓄積。だから——揺らがない。だから組織から外れる。



      *



 陽太は、頭の整理が追いつかなかった。


 観測者の啓示で、儀式の本来の目的を知った。今、マリアの話で、クリスの背景を知った。情報が一気に増えている。一日で。脳が処理しきれない。


 だが、聞かなければ。バチカンの女が、わざわざ嵐山の社務所まで来た。それは何か目的があるからだ。情報を提供するためか、協力を要請するためか、警告するためか。


 「マリアさん。なぜ、俺に話を?」


 マリアが正座のまま、姿勢を正した。


 「あなたとクリスを戦わせないためです」


 戦わせない。


 「クリスは、あなたを倒そうとしています。儀式破壊のために。だが——あなたは橋道のマスターです。橋道の英霊と組んでいる。橋道の組み合わせは、本来の儀式の中心です」


 マリアも知っている。観測者の啓示と同じ情報を。陽太の表情が変わった。


 「ご存知ですか。橋道のことを」


 「バチカンの古い文書に、記録があります。京都の儀式における橋道の役割について。本来の儀式が『境界の整え』であったこと。橋道のマスターと英霊が、その中心を担うこと。——これは、バチカンの一部の研究者の間でしか知られていない知識です」


 観測者の知識を、バチカンも持っている。何百年も前の文書で。たぶん、四百年前の宣教師が記録を残したのだろう。あの女性が書いたものが、バチカンの古文書庫に眠っていた。


 「クリスは、それを知らないんですか」


 「知っています。だが——彼の信仰は、それを否定します。彼にとって、儀式は『生贄の儀式』であり、破壊すべきもの。本来の目的があったとしても、現在は変質しているのだから、破壊するべき、というのが彼の判断です」


 クリスの確信。本来の目的を知った上で、それでも破壊するという判断。揺るぎない。


 「私は、違う判断をしています」


 マリアが言った。


 「儀式の本来の目的が『境界の整え』なら、それを担う橋道のマスターを支援するべき、というのが私の判断です。バチカンの中で、私のような立場の者は少数派です。だが、いる」



      *



 マリアが続けた。


 「あなたを支援したい。具体的には、クリスの動きを抑える。彼の暴走を止める。あなたが本来の儀式を完遂するまで、時間を稼ぐ」


 支援。


 「具体的にはどうやって」


 「クリスを、京都から引き離します。バチカンの本部に呼び戻す。命令違反の調査ということで。彼が応じるかどうかは——分かりません。応じなければ、強制送還の手段を取ります」


 強制送還。バチカンが、自分の異端審問官を強制的に引き戻す。それは内部の戦争に近い。


 「それで、儀式破壊は止まる」


 「クリスがいなくなれば、止まります。バチカンは儀式破壊を命じていない。クリスがいなくなれば、誰も命じない。あなたは——クリスとの戦闘を回避できます」


 戦闘を回避。それは陽太にとって、とても助かる申し出だった。クリスは強敵。一般人と一体だけで対峙するには重い相手。クリスがいなくなれば、陽太は他の敵——葛城、幻道、儀式そのもの——に集中できる。


 だが、と陽太は思った。


 「何が条件なんだ」


 マリアが微かに笑った。


 「察しがいいですね」


 「そっちが提供してくれるのは、こっちにも何か求めるからだ」


 マリアが頷いた。


 「条件は二つです。一つ目、儀式が完遂したら——その記録をバチカンに提供してください。本来の儀式の整え方、橋道の役割の実際、境界の整えの結果。これを記録として残す。次の儀式の参考にするために」


 次の儀式。観測者は「次は何百年後」と言った。マリアは、その時のためにバチカンに記録を残したい。長期的な視点。


 「二つ目」


 マリアが声を低くした。


 「もし儀式が成功しなければ——つまり、世界が終わる方向に進むなら——あなたを排除します」


 排除。陽太を。


 「私の派閥が支援しているのは、本来の儀式の完遂です。世界の救済です。それが達成できなくなった時点で、私たちは別の手段を取ります。それが何かは、まだ言えませんが——あなたが障害になるなら、排除します」


 冷静な声。マリアが陽太を真っ直ぐ見た。視線が逸れない。瞬きが少ない。瞳の色が薄い灰色だった。秋の朝の空のような色。だがその色の中に、温度がない。マリアは支援者であると同時に、最終的な判定者でもある。陽太がそれを見抜いた。


 「分かった」


 陽太が答えた。


 「条件を呑む。記録は提供する。失敗したら排除されるのも、受ける。でも——失敗するつもりはない」


 マリアが頷いた。


 「いい返事です。期待します、瀬川さん」



      *



 マリアが立ち上がった。社務所を出ようとした。


 「最後に一つ」


 マリアが振り返った。


 「クリスは——あなたを倒したくないと思っています。彼の信仰は儀式破壊を命じる。だが彼の人間としての心は、あなたを尊重しています。真実の矢で見たあなたの動機の複雑さに、彼は——感心していました」


 感心。クリスが。


 「彼を止めるのは、私の仕事です。あなたは、本来の役割に集中してください」


 マリアが社務所を出た。靴を履いて、嵐山の路を歩き去った。長身の背中が、紅葉の路の中に消えていく。観光客の中に紛れて、すぐに見えなくなった。バチカンの異端審問官が、京都の観光客の中に紛れる。違和感はない。長身の白人女性。京都には、こういう外国人観光客が多い。


 社務所に陽太と男が残された。秋の昼の光が、畳の上に四角く落ちている。マリアが座っていた場所に、誰もいない。だが言葉だけが残っている。「クリスを止める」「条件は二つ」「失敗したら排除します」。


 男が斧を肩に担ぎ直した。


 「……信じるか、あの女を」


 「半分は」


 陽太が答えた。


 「半分は信じる。クリスを止めてくれるなら助かる。でも——半分は警戒する。条件の二つ目は本気だ。失敗すれば俺は排除される」


 男が頷いた。「お前、判断が早いな、坊主」


 「観測者の話と矛盾しない。マリアの話は、たぶん本物だ。でも——彼女自身も別の目的を持ってる。バチカンの内部派閥の戦いに、俺たちが利用される面もある」


 利用される。それでも、クリスとの戦闘が回避できるなら、利用されてもいい。今の陽太には、それを呑む余裕がある。儀式の参加者だけでなく、バチカンの内部派閥、京都府の専門家チーム、観測者の系譜——複数の組織が、儀式の周りに集まり始めている。


 京都の街が動き始めている。観測者、京都府、バチカンの内部派閥。それぞれの思惑が、儀式の周りに集まり始めている。陽太は、その渦の中心にいる。一般人の高校生が、何百年も続く秘密の中心に。


 俺は、選ばれた。観測者がそう言った。


 その言葉が、また響いた。だが今は、選ばれたことを受け入れる余裕が、少しだけある。マリアという協力者が現れた。クリスとの戦闘が回避される可能性がある。少しだけ、楽になる。


 だが——警戒は続ける。マリアの条件二つ目を忘れてはならない。

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