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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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45話 夜明け

 夜明け前の京都の街を歩いた。


 西陣を抜けて、南へ。鴨川沿いを下る。空がゆっくりと青みを帯び始めている。明け方の冷たい空気。秋の終わりが近い。指が冷える。鼻の奥が冷える。生きている人間の感覚。地下の石室の中とは違う、地上の空気。


 男が隣を歩いていた。実体化したまま。霊体化していない。深夜だから人通りがない。見られても怪しまれにくい時間。それに——男は実体でいたいのだろう。地下で重い話を聞いた後、霊体化して気配だけになるのは、寂しい。陽太もそう思った。隣に体があるほうが、安心する。


 「……坊主」


 男が呼んだ。


 「何」


 「あの観測者の話、お前——どこまで信じてる」


 質問。普段の男なら飄々と「まあなんとかなるだろ」と言う場面で、今は問いかけている。男も観測者の話の重さに、戸惑っている。


 「分からない。全部本当かもしれないし、嘘が混じってるかもしれない」


 「嘘って、どんなだ」


 「あの観測者が、第三者を装った別の陣営だったら。クリスの工作とか、葛城の罠とか、幻道の幻術とか」


 ありえる。観測者という存在自体が、初めて出てきた要素。三十六代続いている、京都の地下に封じられている、儀式を観測している。全て観測者の自己申告。証拠はない。


 男が頷いた。「俺もそれを考えた」


 「でも——たぶん、本物だ」


 陽太が言った。


 「あの動作の硬さ。何百年も使ってない体の動き。あれは演技じゃない。それに、観測者の話は——筋が通ってる。儀式が変質してきたって話。本来は『境界の整え』だったって話。信じたくないが、たぶん本当だ」


 男が微かに笑った。「お前、判断が早くなったな」


 「……そうかな」


 「ああ。あの夜、お前は何も判断できなかった。今は——疑って、考えて、結論を出してる。マスターらしくなってきた」



      *



 四条大橋で立ち止まった。


 鴨川。秋の冷たい水が流れている。空が青みを増している。橋の上を、早朝のジョギング中の人がゆっくりと走っていた。普通の朝。普通の京都。儀式の話を地下で聞いた直後の街とは思えない。


 陽太は欄干に手を置いた。冷たい鉄。


 「……世界が終わる、って言われた」


 声に出して言った。男が隣で頷いた。


 「ああ」


 「俺たちが、それを止めなきゃいけないらしい。橋道のマスターと英霊だから」


 「ああ」


 「重いよな」


 「重い」


 男が短く答えた。それから、続けた。


 「だが、お前にしかできねえなら、お前がやるしかねえ。俺がついてる。それは変わらねえ」


 俺がついてる。あの観測者の最後の言葉。「橋道の組み合わせは、信頼を選ぶこと」。男はずっと、信頼を示してくれている。陽太は、男に信頼を返さなければならない。「信頼を選ぶ」は、両方からの行動。マスターが英霊を信じ、英霊がマスターを信じる。


 「……お前を信じる」


 陽太が言った。声が掠れた。


 「ああ」


 「俺の判断に、付き合ってくれ。最後まで」


 「ああ」


 短い答え。だが揺るぎない答え。男が陽太を見た。あの薄い笑み。だが目が真剣だった。


 「俺のほうも、お前を信じてる。最初から」


 最初から。あの夜から。一条戻橋で出会ったときから。男は陽太を信じていた。何の取り柄もない一般人を。震えていた高校生を。


 信頼が、綱を通じて流れている。陽太は感じた。紋の脈動が、温かい。逆流のときの灼ける熱ではなく、穏やかな温かさ。信頼の温度。



      *



 朝が完全に来た。


 太陽が昇り始めた。京都の街が朝の光で照らされる。観光地としての顔を取り戻していく。観光客の姿が増え始める。修学旅行の集団が、ホテルから出てくる。普通の朝。普通の街。


 だが——紋が脈打っている。冷たい。聖なる気配。クリスが動き出している。今日もまた、攻撃が来る。クリスは三日かけて全陣営を狙うと言った。今日が二日目。


 「……次の標的は、誰だろうな」


 男が呟いた。


 「読めない。だが、俺たちじゃないかもしれない」


 昨日、クリスは西陣を狙った。観測者の箱を狙ったのか、それともそこにいた幻道のマスターを狙ったのか。どちらにせよ、陽太たちが直接の標的ではなかった。今日はどうか。


 スマホを見た。SNSが騒いでいた。「西陣の事件は何だったのか」「政府は何を隠している」「外国メディアが取材に来ている」。京都の異変が、社会問題として拡大している。テレビのニュースが朝のワイドショーで繰り返し流れていた。


 京都府が公式声明を出していた。「原因不明の爆発について、引き続き調査中。市民の皆様には冷静な対応をお願いします」。形式的な文言。だがその下に——もう一つ動きがあった。「京都府は、特殊な現象に対応するため、専門家チームを編成」。


 専門家チーム。京都府が、儀式の異常を調査するための専門家を集めている。陰陽道の研究者か、宗教学者か、あるいは——もっと特殊な人材か。


 京都には、表向きには知られていない研究機関や宗派がいくつもある。神社本庁の特別部署。陰陽道の末裔を名乗る一族。修験道の研究者。あるいは公安が動いているかもしれない。何世紀にもわたって境界の力に近い場所にいた者たちが、京都府の要請で動き出している可能性がある。


 観測者は「介入できない」と言った。だが京都府はそれを知らないだろう。介入できる存在を呼び寄せて、儀式を止めようとするはずだ。それが——観測者の言う「儀式の中心」である陽太たちにとって、味方になるか敵になるかは、見えない。


 外国の動きもあった。スマホを下にスクロールすると、英語の見出しが目に入った。「Mysterious Explosion in Kyoto: Unexplained Phenomenon」。海外の通信社が報道している。バチカンが京都の異変を知るのは、もう時間の問題だ。クリスには上司がいるはずだ。バチカンの本部から、何かの指示か支援が来るかもしれない。あるいは——別の異端審問官が派遣されるかもしれない。


 「……京都の街自体が、動き始めてる」


 陽太が言った。


 「ああ。儀式が見える場所に出てきたから、こうなる」


 観測者が言った「世界が終わる」までは、まだ時間がある。だが京都の街は既に動き始めている。儀式の参加者だけの問題ではなくなっている。やがて——日本国家、国際社会まで、儀式に関与してくる。



      *



 昼。嵐山の社務所に戻った。


 社務所は無事だった。クリスの広域攻撃は社務所までは届いていない。一日空けただけだが、戻ってくると、ここが「家」のように感じられた。陽太の本当の家は京都の北部にある。だが今は、この社務所が住処だ。


 畳の上に座った。男が斧を壁に立てかけた。コンビニで買ってきたおにぎりを食べた。男は四個。陽太は二個。いつも通りの食事。いつも通りの時間。


 だが——観測者の言葉が、陽太の頭の中で反響し続けていた。


 世界が終わる。橋道のマスターが本来の儀式の中心。信頼を選ぶこと。


 大きすぎる。一般人の高校生が背負うには、大きすぎる話。母親に話したら——「冗談でしょう」と笑われるだろう。クラスメイトに話したら——病院を勧められるだろう。


 現実感がない。京都の地下に何百年も続く観測者がいて、儀式は本来「境界の整え」で、世界が終わりかけている。教科書には書いていない話。ニュースにも出ない話。陽太の脳が、これを「現実」として処理できない。だが現実なのだ。男が隣にいる。紋が脈打っている。鎌倉時代の石室を見てきた。観測者の声を聞いた。全部、現実。


 だが本当に、世界が終わるかもしれない。陽太の代の儀式が、世界の終わりに向かっている。それを止められるのは、橋道のマスターと英霊だけ。陽太と男だけ。


 責任が——重すぎる。


 陽太は畳の上に寝転がった。天井を見た。木の梁。古い社務所の天井。蜘蛛の巣が薄く張っている。秋の昼の光が、梁を照らしている。木目が見える。何百年前の木か、それとも数十年前のものか。京都の建物は層が深い。


 「……男」


 「何だ」


 「俺、できるかな」


 弱気な声が出た。一日、強がっていたが、ここまで来て弱気が漏れた。観測者の前では強がった。男の前でも強がった。一人になって、いや男と二人になって、ようやく素の声が出た。


 男が陽太の隣に寝転がった。同じように天井を見た。隣で。距離が近い。男の体温が伝わってくるくらい。


 「分からねえな」


 「……分からないのか」


 「ああ。だが——お前はここまで来た。あの夜は震えてた。今は震えてねえ。それは事実だ。明日のことは、明日のお前が決める。今日のお前が、明日のお前を心配しすぎるな」


 明日のことは、明日のお前が決める。今日のお前が、明日のお前を心配しすぎるな。


 千年の戦士の言葉。何度も戦場に立った男の言葉。一日一日を生きる戦士の言葉。明日の戦いは明日考える。今日は今日を生きる。それが戦士の知恵。


 「お前は——千年前、橋の上で死んだとき、怖かったか」


 陽太が聞いた。前から聞きたかった質問。だが聞けなかった。今、聞けた。


 男が少し沈黙した。それから答えた。


 「……それは、いつかちゃんと話す。今じゃねえ」


 いつか。男は陽太に、自分の生前を語ろうとしている。だが今ではない。観測者の話を消化する今は、ではない。男の死の話を、別の機会に話す。男が決めるタイミングで。


 「ああ。待ってる」


 陽太が答えた。


 陽太は目を閉じた。少し眠った。深夜から朝まで起きていたから、疲れていた。男の隣で。畳の上で。秋の昼の光の中で。


 眠りながら、紋が穏やかに脈打っていた。信頼の温度で。


 だが——夢の中で、紋が違う温度に変わった。


 冷たい。聖なる気配ではない。幻道の冷たさでもない。あの観測者の波長でもない。第四の何か。京都の中で、新しい力が動き始めている。陽太の眠りの中に、その気配が忍び込んでくる。


 夢の中で、男が陽太に呼びかけた。


 「坊主。——起きろ」


 目を開けた。秋の昼の光。男が壁際で斧を握っていた。社務所の入口を見ている。表情が硬い。


 「来た」


 男が低く言った。


 「誰だ」


 「分からん。だが——クリスじゃねえ。葛城でもねえ。あの曖昧な男でもねえ。少女でもねえ。凛花でもねえ。——知らねえ気配だ」


 知らない気配。京都府の専門家チームか、外国から来た誰かか、あるいは観測者が言わなかった別の存在か。


 社務所の外に、足音が聞こえた。一人。複数ではない。落ち着いた足音。襲撃ではない。訪問。だが招かれざる訪問。


 陽太と男が、立ち上がった。

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