43話 地下
深夜二時。
西陣の焼け跡。消防は撤収していた。警察は立入禁止のテープを張って、夜間警備に二人だけ残していた。報道陣も野次馬も、いつの間にかいなくなっている。サイレンも消えた。京都の夜の静けさが戻っていた。
陽太と男は、焼けた京町家の裏手に回った。狭い路地。京都の住宅街の典型的な細い道。隣家との間に、人一人が通れるだけの隙間。その隙間から、焼け跡の敷地に入った。
立入禁止のテープが、夜風に揺れていた。黄色いテープに「立入禁止」の黒い文字。それを跨いで、焼け跡に踏み込んだ。
黒い瓦の破片。焼けた木材。崩れた壁土。煤の匂い。火事から数時間経っても、焼けた家屋特有の匂いが残っていた。木が炭になった匂い。畳が燃えた匂い。生活の匂いが焼かれた残滓。
男が霊体化を解いて、実体になった。斧を肩に担いで。陽太の隣を歩く。瓦の破片を踏まないように足を運んでいる。千年前の戦士が、現代の住宅街の焼け跡を慎重に歩いている。
「地下への入口を探す」
陽太が言った。声を低く。警察に気づかれないように。
京町家の伝統的な構造を思い出していた。土間の下に「地下の蔵」がある家がある。古い家ほど多い。明治以前の家には、貴重品や食料を保存する地下室があった。あの京町家も、それがあるはずだ。だが住民の話では、あの家の地下は「絶対に改装させない」場所だった。何かを守るために。
夜風が焼け跡を吹き抜けていた。冷たい。秋の深夜の京都の風。焦げた木材の匂いと、湿った煤の匂いが混じって運ばれてくる。月明かりがあった。十一月の月。半月。それが焼け跡を青く照らしていた。
警察官の声が遠くで聞こえた。立入禁止のテープの向こう側。「異常なし」「定時連絡終了」。男が陽太に目で合図した。声を出すなと。陽太が頷いた。スマホのライトはまだつけていない。月明かりで歩く。
土間のあった場所を探した。崩れた壁の中。台所だった場所の床。そこに——焼けた板が積み重なっていた。木の床板。だが、その下に何かある気配。陽太の紋が微かに反応していた。あの「機械みたいな」気配が、ここから漏れている。
「ここだ」
陽太が言った。声を低く。
男が斧で、焼けた板を持ち上げた。簡単に。男の力では、こんなものは紙のように軽い。板を退けた下に——石の蓋があった。古い。重そうな。火事で表面が黒ずんでいるが、原型は留めている。何百年も前に作られた蓋。
石の蓋に、文字が彫ってあった。風化していて読みにくいが——一字だけ読めた。「封」。
封じ込めのための蓋。何かを地下に封じるための。
*
男が石の蓋を持ち上げた。両腕で。重い音がした。男の腕が——揺らがない。千年の英霊にとって、この程度の重さは何でもない。蓋が動いた。地下への階段が現れた。
冷たい空気が、地下から吹き上げてきた。
その冷たさが——あの「機械みたいな」気配と一致した。地下から漏れている。もう間違いない。あの家屋の地下に、それがある。
男が先に降りた。斧を構えて。陽太が後に続いた。スマホのライトをつけて。階段は石造り。古い。一段ずつ降りていく。十段。十五段。二十段。地上の家屋の床下より深い。京町家の通常の地下室の深さを超えている。
二十五段目で、地下の空間に出た。
石造りの部屋。十畳ほどの広さ。天井は低く、男の頭が天井近くにあった。壁は古い石を積んだもの。何百年前のものか。鎌倉時代か、それ以前か。京都の街の地下に、こんな古い構造物があった。
空気が違った。地上とは。湿気がある。だが嫌な湿気ではない。古い書庫のような匂い。紙と石と、何百年もの時間の匂い。誰も入っていない場所の匂い。陽太たちの足音が、石の壁に反響していた。
石の床に、薄く埃が積もっていた。だが——足跡がなかった。誰も入っていない。最近どころか、何十年も。あの京町家の代々の住人も、この地下には降りていなかったのだ。「触れるべからず、語るべからず」を、徹底的に守っていた。守り続けることが、彼らの「使命」だった。
部屋の中央に——何かがあった。
石の台座。その上に——黒い箱。一辺が三十センチほど。黒い。だが普通の黒ではない。光を吸い込む黒。表面に微細な紋様が彫ってある。文字でも絵でもない、幾何学的な紋様。見ていると目が眩む。
「これか……」
陽太が呟いた。
箱の表面に——光の柱が落ちた跡があった。クリスの攻撃の痕跡。地上を貫通して、ここまで届いていた。だが箱は壊れていない。傷ついた程度。光の柱でも、この箱を破壊できなかった。
箱の表面の紋様の一部が——ひび割れていた。光の柱の衝撃で。封印が一部、傷ついている。だから「もう一つの気配」が漏れ出ていた。封じ込められていたものが、外に染み出していた。
*
箱の周囲を見回した。
壁に、石板が嵌め込まれていた。文字が彫られている。古い書体。読めるか分からないが——目を凝らすと、いくつか読めた。
「封ぜし者ども、知るべし」「我らが守りしは、京の都の根幹なり」「触れるべからず、語るべからず」
京の都の根幹。
石板の文字が、地下の闇の中で薄く光っている。蛍光塗料ではない。石自体が光っているのか、渡し場の力が文字を光らせているのか。何百年前の石板が、今も生きている。
「観測者だな」
男が呟いた。
「観測者?」
「ああ。儀式の参加者じゃねえ。だが渡し場のことを知ってる連中がいる、ってことだ。何百年も前から。京都の地下を守ってる」
観測者。儀式の七陣営とは別の存在。京都の地下を、何百年も守ってきた者たち。あの京町家の住人は、その末裔だったのか。「代々の使命」とは、この箱を守ることだった。
住人は知っていたのだろうか。それとも、ただ「家を守れ」と先祖から教えられていただけで、何を守っているかは知らなかったのか。「地下から声が聞こえる」と言っていたのは、この箱の中身が漏れ出していたのか。
箱の中身——「機械みたいな」気配。意思があるかも分からない存在。だが渡し場の力に触れている。
箱に近づいた。表面のひび割れが——少し広がっている。地下に降りた陽太と男の存在が、箱に何かの影響を与えているのか。儀式の参加者の紋に反応している。
「下がれ、坊主」
男が陽太を後ろに引いた。斧を構え直した。
箱から——何かが滲み出てきた。黒い煙。いや、煙ではない。形のないエネルギー。冷たくて、無機質で、意思があるか分からない。だが渡し場の力に近い。同じ系統の何か。
*
黒いエネルギーが——形を取り始めた。
最初は煙のようだった。だが煙が固まって、人の形になった。輪郭がぼやけているが、人型。背の高さも陽太と同じくらい。男ほど大きくない。
それが立ち上がる過程を、陽太は見ていた。怖いと思うべきだったかもしれない。だが——怖くなかった。あの幻道のマスターのときに感じた「危険だ」という感覚がない。脅威ではない。ただ——古い。古くて、消えかけている存在。
顔が——曖昧だった。
あの幻道のマスターの顔と、似ている。輪郭が記憶できない顔。見ているのに思い出せない。だが幻道のマスターが「意図的に隠している」感じだったのに対して、この存在は「もう自分の顔を思い出せない」感じだった。何百年も封じられて、自分が誰だったかを忘れた者の顔。
「……幻道?」
陽太が呟いた。
「いや」
男が首を振った。「幻道のマスターとは違う。もっと——薄い。意思が薄い。だが——敵意もねえ」
敵意がない。男の感覚は鋭い。千年の戦士は、敵意の有無を瞬時に判断できる。この存在には敵意がない。攻撃してくる気配がない。
形を取った何かが、口を開いた。声が出た。だが言葉ではなかった。音の羅列。意味のある単語が混じっているような気もするが、聞き取れない。意味を成さない。何百年も話していなかった声が、初めて発音を試みている。錆びた声。
ただ一つ、聞き取れた言葉があった。
「……継ぐ……者……」
継ぐ者。
男が斧を構え直した。
「攻撃してくるか?」
男が陽太に聞いた。だが陽太も判断がつかない。
「分からない。でも——警戒する」
陽太が答えた。声を低く。男が頷いた。陽太を背中に庇う位置に立った。
形を取った何かが、陽太を見た。曖昧な顔で。だが視線がある。陽太の方向を向いている。何かを「認識」している。
左耳が聞こえないのに、なぜか——耳の奥で声が響いた。直接、頭の中に。
『……あなたが、橋道のマスターですか』
声に温度がない。あの幻道のマスターと同じ。だが少し違う。もっと——古い。何百年も前の声。
「俺だ」
陽太が答えた。
『……ようやく……継ぐ者が、来た』
継ぐ者。再び、その言葉。
『私は、観測者の一人。封じられた者の一人。あなたに……伝えるべきことが、ある』
観測者。やはり。男の予測通り。京都の地下に、儀式とは別の系統の存在がいた。そして——陽太に伝えるべきことがあると言う。
箱から漏れ出ていた何かが、陽太と接触するために形を取った。クリスの光の柱が箱を傷つけたから、漏れ出ることができた。封印が解け始めている。封印が解けたら——他に何が出てくるのか。
あるいは、京都の地下には、こういう箱が他にもあるのか。何百年も前から封じられてきた観測者たちが、京都の街のあちこちに眠っているのか。あの京町家だけが特別なのではなく、京都中の古い家の地下に、似たような秘密があるのかもしれない。
ここまで考えて、陽太は息を整えた。情報が多すぎる。一度に処理しきれない。今は、目の前の観測者の言うことを聞くしかない。
陽太は、唾を飲んだ。
「……何を伝えたいんだ」
声が掠れた。だが出た。男が陽太の隣で斧を構えたまま、警戒を続けている。観測者は敵意がないと言うが、男は念のために構えを解かない。千年の戦士の習慣。
観測者が、ゆっくりと頭を下げた。動作が緩慢。何百年ぶりに体を動かしているような硬さ。
戦いが、想像を超えて広がり始めている。儀式の七陣営の枠組みが、もう収まりきらない。観測者という第三者がいた。京都の地下に何百年も。陽太の知らない場所で、知らない時間で、儀式が見つめられ続けていた。
観測者が、口を開いた。声を頭の中に響かせた。次の言葉を発する準備をしていた。




