41話 予兆
朝が来た。
嵐山の社務所。畳の上で目を覚ました。窓から差し込む光が、いつもと違う色をしていた。秋の朝日のはずが、少し白っぽい。聖なる光が混じっている。空気そのものに。
紋が脈打っていた。冷たい。だが昨日までの幻道の冷たさとは違う。混じっている。幻道の冷たさと、何か別のもの。聖なる気配。クリスの。
社務所の縁側に出ると、男が既に外にいた。斧を肩に担いで。空を見上げて。
「……始まったな」
声が低い。
「葛城じゃない。少女でもない。凛花でもない。あの曖昧な男でもない。クリスだ」
クリス・ヴァレンティン。約束通り。三日後の朝。今日。
空を見上げた。京都の秋の空。雲がある。だが——雲の隙間から薄い光の筋が地上に伸びている。普通の太陽光ではない。聖なる光。バチカンの祈祷術。京都の上空に、薄く広がっている。
スマホを取り出した。SNSを見る。
「京都の空が変じゃない?」「鴨川の水が逆流してる動画」「気分が悪くて朝から吐きそう」「うちの猫が朝から鳴き止まない」。
京都の住民たちが、渡し場の力の異常を感じ始めている。理由は分からないが、不安。それが拡散している。一般市民が——巻き込まれ始めている。これまでは見えない場所で起きていた儀式が、街全体の問題になっている。
クリスの戦い方は——個別撃破ではない。京都全体に薄く広がる。住みにくくする。観光客が来なくなる。儀式の参加者が孤立する。そして処理する。
「……街に出るぞ」
陽太が言った。
男が頷いた。「待つだけじゃ消耗する。動こう」
*
嵐山駅から市街地へ。
電車に乗った。男が霊体化して隣に座っている。一般人には見えない。だが車両の空気が——少し冷たい。男の存在感が車両に影響している。
途中の駅で、外国人観光客が降りる前に十字を切った。京都に来ているキリスト教徒。普段は観光中に十字を切る場面なんてない。だが今日は——無意識に切っている。何かを感じて。クリスのバチカンの術が、彼らの信仰心を増幅しているのか。京都に来た外国人が、自分でも気づかずに祈り始めている。
恐ろしいのは——ロビン・フッドの矢のような直接攻撃ではないということだ。クリスは京都全体の信仰の質を変えている。空気を変えている。それが——徐々に儀式の参加者を追い詰めていく。
二条城前で降りた。京都の中心部。観光客が多い。だがいつもより少ない。修学旅行の集団が引率の先生に「気持ち悪い」と訴えている。先生が困った顔で「もう少しだけ」と宥めている。
駅の前のニュースサイネージで、ローカルニュースが流れていた。「京都市内で原因不明の体調不良が相次いでいます。京都府は調査を開始しました」。アナウンサーの声が無機質に流れていく。原因不明。それはそうだ。渡し場の力の影響を、現代医学は説明できない。
観光客の一人が立ち止まって、空を見上げていた。三十代くらいの男性。一眼レフを持っている。空を撮ろうとして、撮らずに首をかしげていた。「変な光が見えるな」と呟いて、また歩き出した。
見える人間と、見えない人間がいる。渡し場の力に敏感な人間が、薄く感じ始めている。クリスの影響が広がるほど、見える人間が増えていく。やがて——京都の住民の半分が、空の異変を視認できるようになるだろう。
「街全体が、薄く異常になってる」
男が呟いた。隣で。
「ああ。これがクリスの戦い方か」
広範囲で、緩やかに、確実に。物理的な攻撃ではなく、街全体の信仰心と渡し場の力に作用する。観光客が減れば、京都の経済が傷む。住民が不安になれば、街が機能しなくなる。儀式の参加者が孤立する。そして——一番孤立した参加者から、順番に処理される。
「俺たちが最初の標的だな」
男が言った。
「ああ。一番孤立してる」
凛花がいない。武蔵もいない。盾と剣のうち剣がない。攻撃手段が薄い。クリスは合理的な順番で標的を選ぶ。一番弱いところから。葛城は強敵。少女は杭林から動けない。凛花は少女と組んだ。陽太は——一人と一体だけ。最も弱い。最初に潰す。
それが分かっていても、逃げ場はない。京都を出られない。儀式が陽太を京都に縛り付けている。紋が京都の渡し場と繋がっているから。京都を出れば、紋が薄れて、男との綱が弱まる。男が消えるかもしれない。
京都の中で戦うしかない。クリスに追い詰められながら。
*
二条城の堀沿いを歩いていた。紅葉の堀。秋の京都の名所。観光客が紅葉の写真を撮っている。普通の風景——のはずだった。
紋が、別の冷たさで脈打った。無機質な冷たさ。幻道。観察を続けている。クリスの攻撃と並行して、幻道も動いている。
陽太が立ち止まった。男が振り返った。
「いるな。あの曖昧な男」
「ああ」
昨日会った幻道のマスター。あの曖昧な顔の男。輪郭が記憶できない男。今、どこかにいる。観察している。陽太と男を。クリスの動きを。全てを。
陽太が周囲を見回した。観光客の中に紛れている可能性。あるいは堀の向こう。あるいは——上。空を見上げた。秋空。だが何かがいる感覚は消えない。
幻道の幻術が、どこにいるかを曖昧にしている。観察者の位置が、観察者の能力で隠されている。
「クリスは幻道を真の敵だと言った」
陽太が呟いた。
「俺たちもクリスにとっては敵だ。でも——クリスにとって、幻道はもっと厄介な敵らしい。なぜだ」
男が首をひねった。「分からねえな。あのバチカンの男の動機が」
クリスは儀式破壊を目論む。幻道は「別れを終わらせる」と言う。動機が違う。だがどう違うのか。「別れを終わらせる」が、儀式の続行と矛盾する場合もある。マスターと英霊が永遠に一緒にいるためには、儀式が終わらないか、別の形を取る必要がある。クリスにとって、幻道の動機は——儀式破壊以上に阻止すべきものなのか。
紋の冷たさが、距離を取った。幻道のマスターが移動した。観察を続けながら。一定の距離を保ちながら。
誰もが、誰かを観察している。クリスは京都全体を。幻道は儀式の参加者全員を。陽太は——男と二人で、それぞれの動きを追いかけている。儀式が、観察と推理のゲームに変わっている。
*
夕方。鴨川の河原。
陽太と男が河原に座っていた。一日歩いて、状況を把握した。だがクリスは直接攻撃してこなかった。広範囲の影響を京都全体に広げているだけ。
「攻撃を待つしかないのか」
陽太が呟いた。
「いや。あいつは三日後と言った。今日は『開始』の日。だから今日中に何か起きる。たぶん夜だ」
夜。京都の渡し場の力が活発になる時間。クリスはそれを利用する。
夕日が嵐山の方向に落ちていく。秋の夕暮れ。鴨川が橙色に染まる。観光客がカメラを構えている。普通の景色——のはずだった。
紋が——突然、灼けた。
赤い熱。激しい脈動。
空が——光った。
雲の隙間から。秋の夕日とは違う光。聖なる白い光。一筋。京都の上空に。
光の柱が、まっすぐ降りてきた。市街地のどこか。西陣の方角。
ドンッ、と音がした。地響き。鴨川の水面が揺れた。観光客が悲鳴を上げた。「何?」「地震?」「あれ何?」。何人かがその場に座り込んだ。子供が泣き始めた。母親が子供を抱きしめて立ち上がった。
河原のカップルが慌てて立ち上がり、街のほうに走り出した。観光客の集団がスマホで西陣の方向を撮影し始めた。動画をリアルタイムで配信する者もいる。京都で起きていることが、京都の外にも伝わり始めている。
光の柱が消えた。だが破壊の痕跡が残った。西陣の方向から煙が上がっている。何かが破壊された。秋の夕暮れの空に、黒い煙が立ち上っている。
遠くでサイレンが鳴り始めた。消防車。救急車。複数。京都市消防局が動き出している。一般人にとって——あれは火災と地震の同時発生。原因不明の災害。だが陽太と男には分かっている。クリスが攻撃した。京都の街中に。
陽太のスマホが震えた。SNSの速報。「西陣で火災」「原因不明」「複数の負傷者」。リアルタイムでツイートが増えている。動画が拡散されている。京都だけでなく、日本中、世界中に。
「……クリスか」
「ああ」
男が立ち上がった。斧を握り直した。
「だが——おかしい。あそこは陣営の拠点じゃない。ただの住宅街だ。なぜあそこを」
なぜ。クリスは合理的な男だ。標的を間違えない。なら、なぜ西陣を。
紋が——別の冷たさを感じた。幻道。あの男が西陣の方向にいたのか。クリスが幻道を狙った? 巻き込まれて住宅街が被害に?
可能性は二つ。一つ目、幻道のマスターが西陣にいた。クリスはそれを知って攻撃した。住宅街は巻き添え。二つ目、陽太たちがまだ知らない別の参加者が西陣にいた。
「行くぞ」
陽太が立ち上がった。
*
西陣に向かう。男が陽太を抱えて走った。市街地を通って。京都の街中を。
走りながら、考える。京都の街が変わっている。空気が変わっている。観光客が減っている。一般市民が不安を感じている。これは——儀式が街を侵食する最初の兆候だ。
これまでとは戦いの質が違う。
最初は——堂島との個別の戦い。橋の上で。一対一の戦い。陽太と男だけの世界。
次は——四人の共闘。盾と剣と綱。凛花と武蔵が加わって、戦いが大きくなった。だが、戦場はまだ「儀式の参加者だけの世界」だった。
今は——京都全体を巻き込む戦い。一般市民が、観光客が、外国人が、誰もが影響を受ける戦い。儀式が、見えない場所から、見える場所に出始めている。
走りながら、左耳に指を当てた。聞こえない。半分の世界で走っている。だが目は見える。男の背中越しに、京都の街が流れていく。観光客が走り去る人影を見て怯えている。「あれ何?」「人?」と囁き合っている。
戦いが、見えない場所から、見える場所に出始めている。
「……始まりだな」
陽太が呟いた。男には聞こえなかったかもしれない。
西陣の煙が見えてきた。夕暮れの空に立ち上る黒い煙。京都の街並みの中に、不釣り合いな光景。
第三の戦いは、京都を変える。




