40話 橋
二日後の朝になった。
昨日一日は——動かなかった。クリスは「三日後から動く」と言った。一日目は宣言の日。二日目は今日。明日が三日目。明日からクリスが攻めてくる。だが今日は、まだ静かだ。
幻道の気配は遠くなったり近くなったりを繰り返している。観察を続けている。だが攻撃はしてこない。明日のクリスの攻撃を待っているのか。それとも別の目的があるのか。分からない。
社務所の縁側で、男が斧を磨いていた。
千年前のデーンアックス。鉄の刃。錆びていない。英霊の武器は時間で錆びない。だが磨くこと自体に意味がある。男にとって。戦いの前の儀式。心を整える儀式。
俺は隣で、左耳に指を当てていた。聞こえない。十日経った。少女が「完全には戻らぬかもしれぬ」と言っていた。たぶん戻らない。これからも左耳は聞こえない。半分の世界で生きる。
受け入れる。男が言ったように。「壊れたものが戻らねえなら、それはそれで受け入れろ」。受け入れて、生きる。戦士として。十七歳の戦士として。
「……一条戻橋に行くか」
陽太が言った。
男が手を止めた。斧を磨く手を。陽太を見た。
「あの場所か」
「ああ。明日からまた戦いだ。その前に——一度、行きたい」
始まりの場所。あの夜。陽太が泣いて震えていた橋。男と最初に出会った橋。あの場所に、戦いの前に戻りたかった。
男が頷いた。「いいだろう」
斧を肩に担いで、立ち上がった。
*
嵐山から市街地へ。鴨川沿いを歩いて。
京都の街は静かだった。秋の朝。観光客が紅葉を見に動き始めている。だが空気は普段より重い。クリスの宣言が、京都の住民の無意識に影響しているのかもしれない。何かが起きる予感。理由は分からないが、不安。そんな空気が街全体に薄く漂っている。
鴨川の流れも、まだ少し不自然だった。完全に逆流するわけではないが、流れが乱れる瞬間がある。渡し場の力の異常がまだ続いている。京都全体が、儀式の最終局面を察知している。
歩きながら、男が話しかけてきた。
「坊主。お前、母親に連絡したのか」
「したよ。昨日」
「何て送った」
「『明日、危険な戦いがある。でも必ず帰る』って」
「……そうか」
男が前を見たまま頷いた。
「『必ず』って言うな、お前」
「言う」
「壊れるかもしれねえのに」
「壊れても、生きてれば必ず帰る。お前が言ったろ」
「……ああ。そうだな」
男が薄く笑った。あの笑み。戦いの前の。
歩いた。鴨川沿いを北へ。三条大橋。四条大橋。五条大橋。あの場所。あの夜の場所。橋を見るたびに、思い出す。堂島との戦い。覚醒。男の千年分の一撃。あの夜から——遠くまで来た。
そして一条戻橋。
*
着いた。
一条戻橋。あの夜の場所。すべてが始まった場所。
小さな橋だった。観光ガイドにも載っているが、来てみると思ったより小さい。コンクリートで補強された欄干。橋の幅は数メートル。長さも短い。京都の他の大きな橋に比べれば——目立たない橋。
だが、千年の歴史がある。死者が蘇る伝説の橋。安倍晴明の式神が休んだ橋。そして——陽太の物語が始まった橋。
橋の上に立った。
男が隣に立った。
秋の朝。紅葉の葉が橋の上に落ちている。鴨川の支流の堀川の水面が静か。観光客はまだ少ない。橋の上に二つの影。マスターと英霊。あの夜と同じ構図。
「……始まりの場所だな」
陽太が言った。
「ああ。お前が倒れてた場所だ」
男が答えた。
「俺、泣いてたな」
「泣いてた。震えてた。膝つけてた。声も出てなかった」
覚えている。男も。あの夜の陽太を。
「お前は——飄々と笑ってた」
「ああ。なんとかなるだろうと思ってたからな」
「実際、なんとかなった」
「ああ。なんとかなった。一応、まだな」
まだ。完全には終わっていない。儀式は続いている。明日からクリスが攻めてくる。葛城が計算し直してきて、また来るだろう。幻道が姿を現すだろう。少女と凛花が、どこかで戦っている。全部、まだ続いている。
だがあの夜から、確かに何かが進んだ。
あの夜、男が初めて口にした「よう。起こされちまったみたいだ」。気だるい声だった。あの声が、最初に聞いた男の声だった。今は、男の声を毎日聞いている。「坊主」と呼ぶ声を。「悪くないな」と笑う声を。「壊れるなよ」と心配する声を。あの夜の一言から、何百回もの言葉を交わしてきた。
陽太は欄干に手を置いた。コンクリート。冷たい。十月末の朝の冷たさ。あの夜は雨が降っていた。今日は晴れている。それだけでも違う。
あの夜、陽太の血が橋の上に落ちていた。手の甲を切ったから。今日、陽太の手の甲には紋が刻まれている。あの夜の血の痕に重なるように。マスターの証。あの夜から、ずっと。
「……今は、震えてない」
陽太が言った。
「ああ」
男が頷いた。あの薄い笑み。深い笑み。
「成長したな、坊主」
成長。あの夜からここまで。一般人の少年が、英霊と一緒に、堂島を倒し、葛城を退かせ、覚悟の逆流を発動させ、孤立しても戦う決意を固めるまでに、成長した。代償を受けながら。壊れかけながら。それでも——立っている。
左耳は聞こえない。視界の周辺はまだ少し暗い。体中に逆流の痕が残っている。完全には戻らないかもしれない。だが、立っている。あの夜は膝をついていた。今は——立っている。それが成長だ。
*
橋の上で、しばらく黙っていた。
風が吹いた。秋の風。冷たい風。男の金髪が揺れた。陽太の制服の裾も。男が斧を肩から下ろして、橋の欄干に立てかけた。
「坊主」
「何」
「お前、これからどうする。明日からだ」
「決まってる。戦う。クリスを止める。葛城をまた退かせる。幻道を——倒す。凛花を連れ戻す。渡し場を閉じる」
「全部か」
「全部だ」
男が呆れた目をした。それから笑った。獰猛な笑み。あの覚醒の夜の笑み。あの五条大橋の笑み。
「……お前は欲張りだな、坊主」
「ああ。全部欲しい」
「いいぞ。——付き合ってやる」
付き合う。この男が陽太の願いに付き合う。最後まで。たとえそれが——綱を切る瞬間まで来たとしても。
その瞬間のことを、考えないようにした。今はまだ。今はまだ、考えるときじゃない。今は、明日のことだけ考える。
紋が——脈打った。
冷たい。あの冷たさ。無機質な冷たさ。幻道の気配が。近づいている。
男が振り向いた。斧を取った。構え直した。
「……来たな」
来た。観察ではなく。今度は——近づいてくる。一条戻橋に。
橋の向こう、堀川の遊歩道の上に——人影が立っていた。
最初は気づかなかった。気配が薄すぎて。だが目を凝らすと、見えた。一人。ただの一人。中肉中背。何の特徴もない服装。男か女かも、はっきりしない。年齢も分からない。顔が——曖昧だった。輪郭がぼやけて、覚えられない。見ているのに、思い出せない。
幻道のマスター。
その隣に——気配だけ。英霊が霊体化している。だが普通の霊体化ではない。完全に消えている。気配だけ。
マスターが——口を開いた。声が聞こえた。穏やかな声。だが温度がない。
「……あなたが、橋道のマスターですね」
声に感情がない。確認の声。
「そうだ」
陽太が答えた。
「私は——七陣営の最後の一人です。お会いできて、嬉しい」
嬉しい。だが声は嬉しくない。言葉と感情が一致していない。この男は——感情を演じている。本来は感情がない者が、感情のある言葉を選んでいる。違和感。
「明日、クリスが攻めてくる前に、あなたとお話したかった。——あなたの綱は、私が探していたものに、似ている」
俺の綱。
マスターが微かに笑った。だが目が笑っていない。表情筋を動かしただけの笑み。記号としての笑み。
「私は、別れを終わらせるために、ここにいます」
別れを終わらせる。
その言葉が、なぜか胸に刺さった。理由は分からない。だが——刺さった。「別れを終わらせる」。誰の別れを。何の別れを。この男は何を言っているのか。
マスターが続けた。声に温度がない。
「あなたは、英霊と綱で繋がっていますね。深い綱だ。とても深い。橋道らしい綱だ。——だがあなたは、いずれその英霊と別れる。儀式の勝者は、最後に綱を切らなければならない。お前は、それを知っていますか」
知っている。少女から聞いた。勝者の代償。英霊との別れ。最終的に、綱を切らなければならない。
「私は、そういう別れを、なくしたいんです。マスターと英霊が、永遠に一緒にいられるように。誰も別れずに済むように」
別れをなくす。永遠に一緒に。それは——魅力的な言葉だった。陽太も、男と別れたくない。いつか綱を切る瞬間が来ることを、考えたくない。だがこの男の声には温度がない。魅力的なことを言いながら、感情がない。
「明日、ご一緒に話しましょう。クリスの攻撃の後で。私の本当の目的を、お話します」
男が斧を構え直した。陽太を背中に。前に出た。
「……何者だ、お前」
陽太が男の背中越しに問いかけた。声が震えそうになるのを抑えて。
マスターが頭を下げた。丁寧に。
「明日、また会いましょう。クリスの攻撃の後で。——それまでは、観察に戻ります」
マスターが背を向けた。霊体化していた英霊の気配と一緒に。歩き出した。
「待て——!」
陽太が叫んだ。だが届かなかった。マスターが——曖昧になった。輪郭がぼやけて、消えた。気配も消えた。完全に。
幻道。幻術。変化の術。姿を見せた瞬間に、また消えた。
だがその一瞬で、陽太は分かった。あの男は——危険だ。葛城より。クリスより。あの言葉。「別れを終わらせるために」。あの動機が、分からない。だが、危険だ。葛城の冷徹さや、クリスの確信とは違う。あの男は何かが欠けている。人として欠けている。だからこそ、危険だ。
男が斧を下ろした。陽太を振り返った。
「……明日からだな」
「ああ。明日から、本当の戦いが始まる」
一条戻橋。始まりの場所。今、第二の始まりの場所になった。橋の上で、二人。あの夜と同じ構図。だが今は、震えていない。
あの夜、何も知らなかった。儀式のことも、英霊のことも、綱のことも、自分が戦えることも。今は、知っている。儀式の構造を。渡し場の力を。綱の逆流を。覚悟の代償を。そして——別れが待っていることを。
知っていて、立っている。震えずに。橋の上に。男と一緒に。
風が吹いた。秋の風。京都の風。一条戻橋を吹き抜けていく。紅葉の葉が舞った。赤い葉が。橋の上に落ちて、流れていった。堀川の水面に。
「……行くか、坊主」
男が言った。
「ああ」
二人で、橋を渡った。一条戻橋を。死者が蘇る伝説の橋を。あの夜は、橋の上で立ち止まった。今日は、渡る。前に進む。
明日、戦いが始まる。
二人で。最後まで。




