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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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39話 孤立

 朝が来ても、幻道の気配は消えていなかった。


 夜の間、ずっと続いていた。紋の冷たさが。無機質な冷たさが。近くにいる。姿は見えないが、いる。観察している。俺たちを。寝ている間も起きている間も。


 男は斧を構えたまま夜を過ごした。俺も寝られなかった。交代で見張ろうとしたが、男が「俺は眠らなくても平気だ」と言った。英霊の体。睡眠は必要ないらしい。


 朝。紅葉が朝日に光っている。嵐山の秋。観光客の声が遠くに聞こえる。だが——紋は冷たいまま。


 そして昼を過ぎた頃、気配が消えた。


 突然。あの無機質な冷たさが、ふっと消えた。紋の脈動が通常に戻った。


 「……引き下がったか」


 男が言った。斧を下ろした。


 「いや。距離を置いた、ってところか。観察は続けるつもりだろう」


 観察。昨日の幻道は攻撃してこなかった。ただ見ていた。値踏みしていた。二日後のクリスの攻撃の前に、各陣営を観察している。どの陣営が弱いか。どの陣営が強いか。どこから潰すのが効率的か。


 この敵の動機は分からない。強いのか弱いのか。善意か悪意か。クリスと同じ儀式破壊を目論むのか、別の目的があるのか。何も見えない。姿も。目的も。動機も。



      *



 昼。社務所の中で、俺と男は話していた。


 「……お前、降りてもいいんだぞ」


 男が突然言った。斧を床に置いて。縁側に座って。紅葉を見ながら。


 「降りる?」


 「儀式から降りる方法があるらしい。俺も詳しくは知らねえが。綱を早めに切れば——お前は助かる。俺は消えるが」


 綱を切る。クリスが宣言で言っていた選択肢。凛花が渡月橋で示した選択肢。少女が杭林で勧めた選択肢。——三度目。今度は男から。


 「そんなことしない」


 「……ああ。お前はそう言うと思ったよ」


 男が薄い笑み。だが目が遠かった。紅葉の向こうを見ている。


 「でもな、坊主。俺は——お前が降りる選択肢を持っていたほうがいい、と思ってるんだ」


 珍しい。この男がこういうことを言うのは。いつもなら「戦うしかねえだろう」と言う男が。


 「なんで」


 「俺は千年前に死んだ男だ。橋の上で一人で死んだ。それは決まってる。今更もう一度消えても、それは元に戻るだけだ。元に戻って、また呼び出されるまで眠る。——それだけだ」


 男が横顔を見せた。笑みが消えている。


 「だがお前は違う。十七歳だ。これから生きる。母親がいる。帰る場所がある。——俺のために、お前が全部なくすのは、筋が違うんだ」


 筋が違う。戦士の言葉。自分の死は自分のもの。他人の生を巻き込む筋合いはない。男は千年前にそれを選んだ。橋の上で一人で死ぬことを。誰も巻き込まずに。


 「……お前と俺は、綱で繋がってる」


 陽太が言った。


 「お前が消えれば俺が死ぬ。俺が死ねばお前が消える。どっちが選択肢を持ってるとかじゃない。二人で生きるか、二人で死ぬかしかない」


 男が振り返った。陽太を見た。少し驚いた顔で。それから、微かに笑った。あの薄い笑み。戻ってきた。


 「……そうか。——そうだな」


 短い答え。だが陽太の言葉を受け入れた。降りる選択肢は、もう口にされない。


 だが陽太は気づいていた。この男は、本気で陽太に降りてほしかったのだ。少しの間だけでも。千年間、誰にも「一緒にいてほしい」と言えなかった男が——十七歳の一般人の少年に、「生きてほしい」と思っている。それは嬉しいことだった。同時に、重かった。この男が俺の生を望んでいる。だから俺は——生きなければならない。壊れても。壊れたとしても。



      *



 夕方。陽太は少女の杭林に向かった。


 一人で、ではない。男と一緒に。昨日は一人で行ったが、今日は二人で。幻道の気配が消えたとはいえ、一人で動くのは危険だった。いつ気配が戻るか分からない。


 鳥辺野。杭林。少女が待っていた。いつもの姿。だが——背筋が少し伸びていた。クリスの宣言を受けて、少女も動き出す準備をしているのか。


 「来たか」


 「凛花は来たか」


 単刀直入に聞いた。凛花は「少女と組む」と言って去った。あれから一日半。凛花が少女に会いに来たはずだ。


 少女が頷いた。


 「来た。昨日の夜に」


 「……組んだのか」


 「組んだ。わらわと凛花、ヴラドと武蔵で。葛城を倒すために。——境界の力のために」


 「凛花はどんな様子だった」


 聞かずにはいられなかった。あの女がどんな顔で少女に会いに来たのか。


 少女が目を細めた。思い出しながら。


 「疲れておった。目の下に影があった。声は強かったが、体が重そうじゃった。——覚悟を決めた者の体じゃ。覚悟で体を支えておる。覚悟が切れたら、崩れるじゃろうな」


 崩れる。凛花が。少女が以前言った「覚悟を決めた者は脆い」の具体化。凛花は今、脆い。強く見えて、最も脆い。


 「あの女はな、わらわに会う前に——泣いておった」


 「泣いてた?」


 「目の下に涙の跡があった。拭ってはいたが、隠し切れぬ。あの女、泣きながらここに来たのじゃ」


 凛花が泣いていた。陽太を切り捨てた後に。渡月橋で「あんたは、壊れないで」と言った後に。一人で——泣いていた。覚悟を決めた女が。計算で固めた女が。


 陽太は何も言えなかった。凛花は冷酷ではない。冷酷を装っているだけだ。泣きながら決断している。それは分かっていた。だが、実際に泣いていたと聞くと——胸が痛かった。


 決まった。凛花の計画が。少女との同盟。四人で葛城を倒しに行く。


 複雑な気持ちだった。凛花の計画が成功すれば、葛城が倒れる。渡し場を閉じる方向に一歩進む。だが——陽太が関わっていない。陽太が壊れる可能性から外された代わりに、陽太が勝利から外された。


 少女が陽太を見た。


 「嫉妬しておるな」


 一言。鋭い。四百年の目は陽太の内面まで見透かす。


 「……してる」


 正直に答えた。嫉妬。凛花と少女が組んで葛城を倒しに行くことに。自分が外されたことに。


 「お前さんは強い。だが今の形では——凛花の目的には合わぬ。わらわと組んだほうが、凛花の計算に合う。それだけのことじゃ」


 それだけのこと。少女は冷静だった。四百年の目で、現実を見ている。


 「だがな、坊主」


 少女が続けた。


 「お前さんには——まだ戻れる場所がある」


 戻れる場所。


 「お前さんの母が待っておろう。綱を切って降りれば、元の生活に戻れる。嵐山の訓練も、葛城との戦闘も、全部なかったことに——はならぬが、元の生活には戻れる。わらわのようにならずに済む」


 わらわのように。四百年、此岸にしがみついている少女。英霊を失い、一人で生きている少女。陽太が同じ道を辿らないために、少女は「降りろ」と言う。


 四度目の「降りろ」。凛花、クリス、男、そして少女。四人が同じことを言っている。


 「降りない」


 陽太が答えた。声が掠れなかった。


 「お前さんのためにも言っておるのじゃぞ」


 「分かってる。——でも、降りない」


 少女が微かに笑った。薄い笑み。四百年越しの笑み。


 「……そう言うと思った。お前さんはやはりわらわに似ておるな。馬鹿なところが」


 馬鹿。少女が自分を「馬鹿」と呼んだ。四百年前の選択を。「生きたい」と願って此岸にしがみついた選択を。馬鹿だったのかもしれない。だが——後悔はしていない。そういう顔だった。



      *



 社務所に戻った。夜。


 紋の冷たさが戻っていた。幻道の気配が。また観察している。距離を置いて。


 男が斧を構え直した。


 「また来たな」


 「ああ」


 眠れない夜になる。また。だが昨日ほど怖くなかった。昨日は戸惑いがあった。今日は——決意がある。


 陽太は縁側に座って、星空を見上げた。秋の京都の星空。都会の光で星は少ないが、嵐山は山の中だから、そこそこ見える。


 何のために戦うのか。昨日まで分からなかった。凛花が去ってから、目的が見えなくなっていた。渡し場を閉じるため? 母親のところに帰るため? この男と最後まで戦うため? どれも当てはまるが、どれも決定的ではない。


 今、分かった。


 俺は自分のために戦う。自分が降りたくないから戦う。自分がこの男と別れたくないから戦う。自分が母親のところに帰りたいから戦う。自分が渡し場を閉じたいから戦う。


 全部、自分の願いだ。だが自分の願いに嘘はない。自分の願いのために戦う。それで、十分だ。


 凛花は弟のために戦う。クリスは信仰のために戦う。葛城は家のために戦う。少女は彼岸に行かないために戦う。俺は、自分のために戦う。孤立した、一般人の、十七歳の、自分のために。


 でもそれは、あの男のためでもある。自分のために戦うことが、この男のためになる。俺が生きれば男が生きる。俺が戦えば男が戦える。自分のためと、男のためは、分けられない。綱で繋がっている。


 孤立したが——孤独ではない。男が隣にいる。紋が脈打っている。綱が繋がっている。俺の願いのために、男が戦ってくれる。男の願いのために、俺が戦う。そして、俺たちの願いは同じだ。この戦いを、二人で最後まで戦いきること。別れ方がどうなるかは、分からない。だが最後まで一緒に戦う。それは決まっている。


 それで戦える。二日後。クリスが来ても。幻道が動いても。葛城が計算し直してきても。


 俺は最後まで戦う。この男と。渡し場を閉じる。クリスを止める。凛花を、連れ戻す。


 孤立したまま、戦う。


 紋の冷たさが、静かに脈打っていた。

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