38話 宣言
凛花が去った翌日。
朝起きると、嵐山の空気が変わっていた。
社務所の縁側に出た。いつもの朝。紅葉の嵐山。鴨川。だが何かが違った。空気が重い。秋の冷たさとは違う重さ。頭が痛い。紋が脈打っている。昨日までとは違う脈動。速い。熱い。灼けるような。
男が壁から離れて、庭に出ていた。斧を肩に担いで。空を見上げている。笑みが消えている。
「坊主」
「……空気が変だ」
「ああ。渡し場の力が膨張してる。京都中で」
京都中で。この嵐山だけではなく。
鴨川の方向を見た。川面が——歪んでいる。水が一瞬、逆流した。小さな渦ができた。すぐに消えたが、確かに逆流した。秋の鴨川が。普段の流れに逆らって。
空も歪んでいた。雲の形が不自然に引き延ばされている。飛行機雲でもない。風のいたずらでもない。空間そのものが軋んでいる。
渡し場が騒いでいる。京都全体の渡し場が。何かが近づいている。何かが起きようとしている。
*
紋が突然——熱くなった。
灼けるように。指で触れると指が赤くなるくらい。悲鳴を上げかけた。耐えた。紋が声を発しているように感じた。音ではなく、意味を。
頭の中に、声が響いた。
『全マスターへ』
聞いたことのある声。穏やかな声。丁寧な声。時折英語が混じる声。クリス・ヴァレンティン。
頭の中に、直接。紋を通じて。バチカンの術か。渡し場の力を利用した通信か。とにかく——全マスターに同時に届いている。陽太にも。凛花にも。葛城にも。少女にも。そして、見えない第七陣営にも。
『私は儀式そのものを破壊します。渡し場を永久に封じるために。全参加者を排除します』
宣戦布告。
『降りる者は降りてください。綱を自ら切り、儀式から離脱する者は追いません。神のご加護を』
降りる。綱を切る。陽太は一瞬、考えた。綱を切れば男は消えるが、陽太は助かる。儀式から離脱できる。母親のところに帰れる。
『戦う者は戦ってください。私は全員と戦います。葛城冬真。御影凛花。冥道の少女。見えない第七陣営。そして、瀬川陽太』
俺の名前が呼ばれた。
『三日後。全員、覚悟を決めてください。三日後から、私は動きます』
三日後。クリスの予告。儀式破壊の開始。三日後。
声が消えた。紋の熱が引いた。だが脈動は速いままだった。灼けるように速い。京都中の渡し場が反応している。クリスの宣言を、認識している。
陽太は膝をついた。縁側に。力が抜けた。頭の中に直接注がれた声が、まだ残響していた。
三日後。全員と戦う。その中に俺の名前があった。瀬川陽太。名前で。クリスは俺を認識している。倒すべき敵として。個別に。
降りる選択肢が提示された。二度目だ。一度目は渡月橋で凛花から。二度目はクリスから。「綱を切れば助かる。男は消えるが」。同じ選択肢。違う相手から。まるで儀式が陽太に問い続けているようだった。「本当に戦うのか。本当に壊れるまで戦うのか」。
答えはもう出ている。戦う。だが選択肢を提示されるたびに、一度考えてしまう。母親の顔が浮かぶ。「もうすぐ帰る」と送ったメッセージ。帰れなくなるかもしれない可能性。三日後に。
それでも——戦う。決めた。迷いはあるが、決めた。迷いながら決めることも、覚悟のうちだ。
*
男が空を見上げたままだった。あの声が男にも聞こえたはずだ。英霊も紋を共有している。
「……厄介なことになったな」
男が言った。低い声。
「三日後。クリスが攻めてくる。全員に。俺たちにも」
俺たちにも。孤立した俺と男にも。凛花がいない。武蔵もいない。盾と剣が欠けた。盾しかない。剣がない。防御はできるが攻撃できない。——クリスを倒すには悪意を持たずに戦う必要がある。攻撃できなくても、防御だけでは倒せない。
クリスは最強の敵だ。凛花が言っていた。「善意で戦える人間は迷わないから」。迷わない敵は隙がない。そして三日後——その敵が、全陣営に同時に攻めてくる。
葛城は強い。世界征途を使う。少女は杭林から離れられない。凛花は一人になった——少女と組むと言ったが、成功するかは分からない。第七陣営は見えない。誰がいるのかも分からない。
一番潰しやすいのは、孤立した俺たちだ。クリスがそう判断するはずだ。計算で考えれば。
「……どうする」
陽太が言った。
男が空から視線を落とした。陽太を見た。
「どうするも何も、戦うしかねえだろう」
飄々とした声。だが目は真剣だった。この男は——戦う以外の選択肢を考えない。千年前から。橋の上で立ったのと同じように。今も。
「逃げるか?」
「逃げない」
「降りるか? 綱を切るか?」
「切らない」
「ならやるしかねえな」
男が笑った。あの薄い笑み。戻ってきた。今朝はなかった笑みが、戻った。
「二人でやるしかねえ」
*
陽太は少女の杭林に向かった。一人で。男は社務所に残った。少女が陽太だけに話したいこともあるかもしれない。
鳥辺野。杭林。少女が座っている。いつもの姿——ではなかった。
少女の顔色が蒼い。あの四百年の目が動揺している。普段は動かない少女が、手を膝の上で握りしめている。
「……来たか」
「クリスが宣言した」
「聞いた。ここにも届いた」
少女が目を閉じた。深く。
「この時が来たか。——前回の儀式でも、こういう者が現れたのじゃ。儀式そのものを破壊しようとした者が。四百年前にも」
四百年前。少女が敗者になった儀式。あの儀式でも——儀式破壊を目論んだ者がいたのか。
「どうなったんだ、その人は」
「敗れた。儀式は続いた。あの者が失敗したから——わらわは今もここにいる。渡し場は何百年も開き続けておる」
「どんな人だったんだ」
少女が少し目を細めた。遠い記憶を辿るように。
「若い女じゃった。二十歳くらいだったかな。外つ国から来た宣教師。信仰が深くてな。『この儀式は神の意に背く』と言って、全陣営を敵に回した」
外つ国から来た宣教師。四百年前の京都。キリスト教が禁教になる前後か。クリスと——似ている。信仰に基づく確信。全陣営を敵に回す戦い方。四百年前の京都に、クリスの先達がいた。
「その女は、美しかったよ」
少女が微かに笑った。四百年越しの思い出に。
「美しくて、強くて、迷いがなかった。——だが敗れた。強くて迷わない者が、必ず勝つわけではない。儀式はそれほど甘くない」
クリスと同じ女がいて、敗れた。歴史は繰り返すのか。あるいはクリスは四百年前の女とは違う結末を迎えるのか。
クリスと同じことを試みて、失敗した者がいる。四百年前に。そして今、クリスが同じことを試みようとしている。
「クリスは失敗するのか」
少女が目を開けた。古い目で陽太を見た。
「分からぬ。前回の者とクリスは違う者じゃ。クリスのほうが強いかもしれぬ。弱いかもしれぬ。だが一つ確かなのは、この儀式が大きく動くことじゃ。三日後から。全てが変わる」
全てが変わる。儀式の形が。陣営の関係が。動機が。
「坊主」
少女が珍しく陽太の名前(呼称)を呼んだ。
「お前さんは、降りるか?」
降りる。三回目の選択。綱を切って離脱する。母親のところに帰る。男は消える。
「降りない」
「そう言うと思った。だが覚えておけ。今ならまだ降りられる。三日後、戦いが始まったら、降りる暇はなくなる。最後の機会じゃ」
最後の機会。降りる。いや、降りない。戦う。二人で。
少女が微かに笑った。あの薄い笑み。
「……お前さんは、やはりわらわに似ておるな」
*
嵐山に戻った。夕方。
紋が——また脈打った。違う脈動。クリスの宣言のときとは違う。熱くない。むしろ冷たい。深い冷たさ。底が見えない冷たさ。
男が社務所の外で待っていた。斧を構えている。笑みが消えている。
「……何かいる」
男が低い声で言った。
「クリスじゃねえ。葛城でもねえ。少女でもねえ。凛花でもねえ。見えねえ。だが、いる」
見えない敵。幻道。第七陣営。少女から聞いた。凛花から聞いた。「存在すら確認できてない」陣営。
その陣営が、ついに動き出した。
紋の冷たさが強くなった。何かが近づいている。姿を見せないまま。気配だけがにじみ出ている。
冷たさの質が——特殊だった。ハサンの「黒い穴」ではない。ヴラドの「冬の墓場の冷たさ」でもない。もっと——均質な冷たさ。温度がない。無機質な。感情の欠けた冷たさ。
夕日の中に、薄い影がちらついた。紅葉の奥に。人の形でもない、獣の形でもない、何とも形容できない影。実体がないように見える。霊体でもない。もっと薄い。存在そのものが薄い。
影が——複数あるように見えた。一つではなく、二つか、三つか。輪郭がぼやけて、数えられない。あるいは一つの影が重なって見えているのか。幻術か。変化の術か。
幻道。少女から聞いた「幻道」が、この形で現れている。幻術・変化。相手を撹乱する能力。影の数を曖昧にするのも、幻術のひとつなのかもしれない。
「——」
目を凝らすと、消えた。錯覚だったのか。それとも——。
だが紋の冷たさは消えない。確かにいる。姿は見えないが、いる。観察している。俺たちを。
男が斧を構え直した。
「坊主。来るぞ」
見えない敵が、ついに動き出した。
三日後、クリスが攻めてくる。その前に、もう一つ。見えない何かが。
二人で戦う。凛花がいない。武蔵もいない。だが二人で戦う。二人で、立ち向かう。
見えない敵に。




