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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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37話 裏切

 朝。渡月橋。


 秋の京都。紅葉の嵐山が朝日に光っている。鴨川の水面が静か。観光客はまだ少ない。橋の上に、二つの影が立っていた。


 凛花と武蔵。


 凛花はいつもの和装に革ジャケット。だが何かが違った。いつもより身なりが整っている。髪が結われている。襟元に乱れがない。覚悟を決めた女の身だしなみ。戦場に行く前の身支度。


 武蔵は凛花の半歩後ろ。二刀は鞘に。腕を組んで。静かな目。だが、今日のは少しだけ翳っている。いつもの静寂が、曇っている。


 陽太が橋に近づいた。一人で。男は少し離れた場所に霊体化して潜んでいる。凛花からは見えないはずだが、あの女は気づいているかもしれない。計算に入れている。全てを。


 凛花が陽太を見た。


 「来たわね」


 声がいつもと同じ。だが距離がある。あの葛城戦の後の「瀬川」という呼び方ではなかった。「あんた」でもなかった。「来たわね」。主語がない。陽太に向けた言葉なのに、陽太を名指ししない。距離の取り方が変わっている。



      *



 凛花が単刀直入に切り出した。回りくどいことをしない。いつもの凛花だ。


 「同盟を解消するわ」


 陽太の胸が冷えた。分かっていた。少女から聞いた。武蔵から警告された。夜通し考えた。それでも直接聞くと、重い。胸の底に石が落ちたような重さ。


 「……なぜ」


 「あんたじゃ葛城に届かない」


 短い。しかし重い。あの女の声。あのきつい声。だがいつものきつさとは違った。感情がない。計算だけが残った声。


 「葛城戦で見えた。あんたは壊れる。壊れながら綱を逆流させて、英霊に力を送った。見事だった。でも」


 凛花が陽太の左耳を見た。聞こえない左耳を。


 「壊れた。あの戦闘一回で。左耳が聞こえない。体中が損傷してる。次は? 次はどこが壊れる? 内臓? 脳? 失明? 次に綱を逆流させたら、あんたは死ぬ」


 凛花の声が冷静だった。分析の声。感情を排除した声。それが残酷だった。感情がない分、論理だけが刺さる。


 「葛城は次も世界征途を使う。計算を入れ直して。前回より強くなって。あんたが前回と同じことをしても、もう足りない。もっと深く逆流させる必要がある。もっと深く壊れる必要がある」


 陽太が反論しようとした。だが——凛花の分析は正しい。次は同じじゃ勝てない。もっと強い逆流が要る。もっと深い代償が。それは陽太自身も、葛城戦の後に考えたことだ。


 「あんたは死ぬわ。次に葛城と戦えば。それはあたしにとって、問題じゃない。あんたの命があんたのものなら、あんたが決めること。でも」


 凛花が橋の欄干に寄りかかった。鴨川を見ながら。


 「あんたが死んだら、あたしも葛城に届かない。あんたの英霊も消える。綱が切れるから。四人が——二人になる。あたしと武蔵だけ。盾が消える。戦力が落ちる。あたしは葛城を倒せない。境界の力を得られない。蓮を取り戻せない」


 蓮。凛花の弟。八歳で消えた弟。凛花姉ちゃんと呼んだ子供。


 「だから——別の方法を探す」


 凛花の声が最後の一言だけ少し小さくなった。計算で固めた声の中で、その一言だけが——自分に言い聞かせているように聞こえた。「別の方法」と。自分でも完全には信じ切れていない方法を。


 陽太は気づいた。凛花はこの選択に自信を持っていない。論理的には正しい。だが感情では——迷っている。「別の方法を探す」と自分に言い聞かせている。


 だがそれでも凛花は進む。迷いながら。計算で迷いを覆い隠しながら。蓮のために。


 凛花が陽太を見ていなかった。鴨川を見ていた。陽太の顔を見られないのだろう。切り捨てる相手の顔を。



      *



 陽太が反論した。声が震えないように。


 「別の方法って何だ」


 「詳しくは言わない。あんたには関係ないから」


 「俺たちが組んでも届かないと言うなら、一人でどう届くんだ」


 凛花が言葉を濁した。珍しい。いつもはっきり言う凛花が。


 「たぶん」


 「たぶん?」


 「少女と組む。冥道と刃道で、葛城と戦う」


 少女と。あの四百年の少女と。冥道のヴラド・ツェペシュと、刃道の武蔵で。凛花の計算。陽太の代わりに少女を使う。


 「少女はそれを承諾したのか」


 「まだ話してない。これから行く」


 凛花の目がきつい。


 「少女は四百年生きてる。あたしと同じ境界の力を求めてる。説得できる。たぶん」


 たぶん。凛花が「たぶん」を二回言った。いつもの確信がない。覚悟は決めたが、計画はまだ完全じゃない。少女が説得に応じるかどうかも分からない。


 でも凛花は進む。進むしかないからだ。蓮のために。


 「……頭が良いと思ってるな、お前」


 陽太が言った。声が冷たくなっていた。自分でも驚くほど。


 「あたしは計算してるだけよ」


 「計算で俺を切り捨てるのか」


 「……そうよ」


 凛花が陽太を見た。目がきつい。だが奥に、あの脆さがある。少女が言った脆さ。覚悟を決めた者の脆さ。凛花は崩れないように、計算で自分を固めている。計算で固めないと——崩れる。


 陽太は何も言えなかった。言葉が出なかった。引き止める言葉も、罵る言葉も、納得する言葉も、どれも出てこなかった。


 ただ——悔しかった。裏切られた悔しさではなかった。凛花を止められない悔しさ。自分が弱いことへの悔しさ。凛花が言う通りだった。俺は壊れた。次はもっと壊れる。死ぬかもしれない。凛花の計算は正しい。正しすぎるから——反論できない。



      *



 武蔵が動いた。


 凛花の半歩後ろから、一歩前に出た。橋の戦士の方向を見た。男は霊体化を解いて、橋の向こうに姿を現していた。もう隠れる意味がなくなった。二刀の剣士と、斧の巨漢が、渡月橋を挟んで向かい合った。


 武蔵が橋の戦士を見た。静かな目。だが、目の奥に感情がある。あの剣士の目に。普段の静寂が揺れている。


 「……すまぬ」


 一言。短い。だが重い。


 橋の戦士が頷いた。「ああ」


 それだけ。英霊同士の言葉。二人の間に、武蔵の謝罪と、橋の戦士の受容が伝わった。英霊は主人の決定に従う。武蔵は凛花の選択に反対しない。選択を覆す力もない。だが——謝ることはできる。


 「次に会うときは、敵かもしれぬ」


 「ああ。——だが手合わせは面白かった」


 武蔵が微かに笑った。あの静かな笑み。


 「……俺も同じだ。巌流島以来、あれほど面白い打ち合いはなかった。お前さんと打ち合えたのは——剣士として、光栄だった」


 巌流島以来。佐々木小次郎以来。武蔵が名もなき戦士を、あの決闘と同等に扱っている。戦士としての最大の敬意。


 二人が見合った。一秒。二秒。それだけ。戦士同士の別れ。「相棒」と呼び合った二人の、一時的な別れ。


 橋の戦士が斧を肩に担ぎ直した。


 「……じゃあな、武蔵」


 「ああ。またな、橋の男」


 名を知らない。互いに。武蔵は橋の戦士の真名を知らず、橋の戦士は武蔵を名前で呼ばない。ただ「橋の男」と。それで十分だった。戦士同士には、それで十分な呼び方だった。



      *



 凛花が背を向けた。


 「……行くわ。あんたは——好きにして」


 好きにして。それだけ。最後の言葉。この数週間、一緒に戦ってきた凛花が残した最後の言葉。


 凛花が歩き出した。武蔵が続いた。渡月橋を渡って、向こう岸に向かう。紅葉の山のほうへ。和装の背中が歩いていく。朝の光の中を。


 陽太は橋の上に立っていた。動けなかった。声も出なかった。男が近づいてきた。霊体化を完全に解いて。斧を肩に担いで。隣に立った。


 凛花が橋の中央で、一瞬だけ、立ち止まった。


 振り返らなかった。だが立ち止まった。


 声が聞こえた。風に乗って。


 「……あんたは、壊れないで」


 小さい声。陽太への最後の言葉。切り捨てると言いながら——壊れないで、と。矛盾している。だがそれが凛花だ。計算と感情を同時に持てる女。きつい目の奥に脆さを隠した女。


 凛花が歩き出した。武蔵が続いた。渡月橋の向こうに消えていった。



      *



 渡月橋の上。陽太と男だけ。四人から二人に戻った。


 紅葉が風に舞っている。赤い葉が橋の上に落ちた。朝の光が川面を反射して、陽太の顔を照らしている。左耳は聞こえない。右耳で風の音を聞いている。


 男が隣に立っていた。何も言わない。ただ、隣にいる。斧を肩に担いで。あの笑みはない。今は笑みを浮かべる時ではない。男もそれを知っている。


 「……あの夜と、同じだな」


 陽太が言った。一条戻橋で最初に出会った夜。あの夜も二人だった。マスターと英霊。今日また、二人になった。一周した。


 「いや」


 男が答えた。


 「あの夜と、今日は違う。あの夜、お前は震えてた。今日は震えてねえ」


 震えていない。凛花に切り捨てられた。一人になった——いや、二人になった。男がいるから。それだけで震えていない。


 凛花の最後の言葉が、耳に残っている。「あんたは、壊れないで」。壊れない。凛花のためではない。自分のために。この男のために。母親のために。


 「……坊主」


 男が言った。前を見たまま。凛花が去った方向を。


 「これからどうする」


 「分からない」


 正直に答えた。昨夜の「分からない」と同じ。凛花への答えが出せなかったのと同じ。これからのことも——まだ答えが出ない。


 「でも——戦う。二人で」


 それだけは、言えた。戦う。何と戦うのか、誰のために戦うのか、まだ言葉にならない。でも戦う。この男と。


 男が微かに笑った。あの薄い笑み。久しぶりに。


 「悪くないな」


 ニュートラル。温度はない。戦いの前の笑み。だが——隣にあった。この男の笑みが、隣にあった。それで今は——十分だった。


 二人でも、戦う。

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