36話 違和
左耳が聞こえなくなって、四日が経った。
嵐山の社務所。朝。縁側に座って、左耳に指を当てている。何も聞こえない。指を擦る音も、風の音も、鳥の鳴き声も。右耳では全部聞こえるが、左耳は——無音。
鼓膜が破れているのか、神経が損傷しているのか、分からない。少女が「完全には戻らぬかもしれぬ」と言っていた。逆流の代償の一部は、永続的に残る可能性がある。
視界は戻った。周辺が暗かったのが、ほぼ通常に戻っている。鼻血は止まった。体力も少しずつ戻っている。完全ではないが、歩ける。訓練もできるだろう。
男が横で寝ていた。壁に寄りかかって。いつもの姿勢。起きている。目は閉じているが、気配で分かる。この男の気配を読めるようになった。綱の共鳴のおかげか。それとも、一緒にいる時間の蓄積か。
「坊主」
男が目を開けた。
「お前、耳は」
「まだ聞こえない。左」
「……そうか」
間。男が何かを言おうとして、やめた。
「言いたいことがあるなら言え」
「いや。壊れたものが戻るなら、それでいい。戻らねえなら、それはそれで受け入れろ。戦士は——そうして生きる」
千年の戦士の言葉。受け入れろ。失ったものを。戻らないものを。この男も、千年前に何かを失ったのだろう。名前を。記憶を。仲間を。橋の上で死んだときに。それを受け入れて、今もここにいる。
俺も受け入れるのか。左耳を。聞こえないことを。
まだ分からない。だが少しずつ、そういう覚悟が必要なのかもしれない。戦いのたびに何かを失う。戻らないものが増える。その一つ一つを、受け入れて生きていく。
*
昼。コンビニでスマホを充電した。いつもの店。いつもの店員。もう常連扱いだ。
母親からのメッセージ。
「陽太。体に気をつけて。無理はしないで」
短い。だが——「無理」という言葉が引っかかった。母親は俺が何をしているか知らない。だが「無理」をしていることは、伝わっているのかもしれない。母親の直感。息子が何かをしていることを。何日も帰っていない息子が。
返信を打った。
「もうすぐ帰る」
六文字。前回は「大丈夫。必ず帰る」だった。今回は「もうすぐ」。時間の概念が入った。帰ることが、近づいている——はずだ。葛城を退かせた。クリスはまだいるが、少女は動かない。幻道は見えない。凛花は——。
凛花のことを考えると、胸が重くなった。何が起きているのか。何を準備しているのか。訓練に来なくなって三日。「別の準備がある」としか言わない。電話にも出ない。
送信した。画面を消した。「もうすぐ帰る」と送ったのに。本当にもうすぐなのか。自信がなくなっていた。
凛花のことを考え続けていた。コンビニを出て、嵐山の参道を歩きながら。三日間、電話に出ない。メッセージにも返信しない。訓練に来ない。あの葛城戦の後、四人で歩いて帰った夕暮れが、最後にまともに会話した時間だった。
あの夕暮れ、凛花は腕を組んで前を歩いていた。足取りが少しだけ重かった。綱の共鳴で凛花の体にも負荷がかかっていたから。——だが振り返らなかった。俺が倒れかけて、男に抱えられていたのに。一度も振り返らなかった。
あのときから——凛花は何かを決めていたのかもしれない。俺が倒れたのを見て。壊れかけたのを見て。「こいつじゃ届かない」と。
歩いているうちに、嵐山の竹林に着いた。男が後ろから追いついてくる。俺が考え事をしていたから、少し距離があった。
*
夕方。嵐山の竹林。陽太と男が並んで歩いていた。体を慣らすために。観光客が減った時間。紅葉の向こうに夕日が落ちかけている。竹の間から光が差し込んで、地面に縞模様を作っている。
武蔵が現れた。
竹林の奥から、音もなく。凛花はいない。だが——英霊は一定距離までマスターから離れられる。武蔵は凛花の屋敷から離れて、陽太たちのところに来た。一人で。
橋の戦士が斧を下ろした。武蔵が二刀を抜いていない。戦闘ではない。何かを話しに来た。
武蔵が橋の戦士を見た。静かな目。いつもの静寂。だが今日のは——硬い。
「……俺のマスターが、何かを隠している」
声が低かった。
「正確には、俺にも教えてくれぬのだ。『あんたには言わない』と。武蔵の意志で動いてほしくないのだろう。あの女は賢い」
橋の戦士が腕を組んだ。
「何を隠してる」
「分からぬ。だが——良いものではない。あの女の綱が、歪んでおる。覚悟を決めた者の綱だ。それも、何かを犠牲にする覚悟」
犠牲。誰の。何の。
武蔵が陽太を見た。
「お前に警告しておく。あの女の次の動きは、お前にとって良くないものかもしれぬ。俺は主人の決定には従う。だが——警告することはできる」
英霊は主人の決定に従う。武蔵は凛花の選択に反対しない。選択を覆す力はない。だが陽太に警告することは——できる。これは武蔵のプライド。剣士のプライド。卑怯な手で倒すのは本意ではない。警告があるべきだ。
あの手合わせ以来の関係。橋の戦士と武蔵の「相棒」関係。その関係が、この警告を生ませた。
「……教えてくれて、すまん」
陽太が言った。声が掠れた。
武蔵が微かに頷いた。それから去っていった。二刀を鞘に収めたまま。竹林の奥に消えていった。音もなく。来たときと同じように。
*
陽太が一人で少女の杭林に行った。男は「一人で行きたい」という陽太の言葉を尊重して、社務所に残った。
鳥辺野。杭林。少女が座っている。いつもの姿。白い着物。長い黒髪。あの四百年の目。
「来たか」
「凛花のことを聞きたい」
少女が目を閉じた。渡し場の力の流れを読んでいる。この少女は京都の渡し場の力を全て感じ取れる。マスターと英霊の綱も見える。
「……あの女の綱が、歪んでおる」
少女が目を開けた。古い目で陽太を見た。
「橋道のお前さんの綱とは違う方向に。真っ直ぐではない。ねじれておる。覚悟を決めた者の綱だ。だが——その覚悟が、お前さんを切り捨てる覚悟じゃ」
切り捨てる覚悟。
言葉が頭の中で反響した。切り捨てる。俺を。凛花が。
「凛花は——俺を切り捨てるのか」
「おそらくな。あの女なりの計算の結果じゃろう。お前さんと組んでは葛城に届かない。届かなければ境界の力は得られない。弟は取り戻せぬ。——だからあの女は、別の道を選んだ」
別の道。俺を切り捨てる道。
「止められないか」
「止められぬ。あの女は覚悟を決めておる。覚悟を決めた者を止める方法はない。——ただ、受け入れるか、戦うかじゃ」
受け入れるか、戦うか。
この儀式で、俺は選択を迫られ続けている。降りるか戦うか。助けるか見捨てるか。壊れるか立つか。——そして今度は、凛花を受け入れるか戦うか。
少女が陽太を見た。古い目で。だが、その奥に微かな温かさがあった。
「だがな、坊主。覚悟を決めた者は、壊れやすい。ひとつ計算が狂えば、全てが崩れる。あの女は今、脆いのじゃ。強く見えて、最も脆い。覚えておくといい」
脆い。最も脆い。凛花が。あのきつい女が、最も脆い。
覚悟を決めた者は壊れやすい。葛城戦で陽太がそうだった。覚悟を決めて、綱を逆流させて、壊れかけた。凛花も今、同じ場所にいる。覚悟の代償を、これから払うのか。
*
社務所に戻った。夕暮れ。男が待っていた。縁側で。いつもの場所で。
「……どうだった」
「凛花は、俺を切り捨てる覚悟を決めてる。少女がそう言った」
男が目を閉じた。長く。深く。
「……そうか」
驚いていなかった。この男も薄々気づいていたのかもしれない。武蔵からの警告の前から。綱の共鳴が弱くなっていたのかもしれない。俺が気づかなかっただけで。
スマホが震えた。コンビニで充電したばかりのスマホ。画面が光った。
凛花からのメッセージ。
「明日、話があるわ。嵐山の渡月橋で。朝。——一人で来て」
一人で来て。男と一緒にではなく。陽太一人で。
男が画面を覗き込んだ。
「……行くのか」
「行く」
男が薄く笑った。あの笑み。だが目は真剣だった。
「俺も行くぞ。陰から見てる。お前に何かあれば出る。それでいいか」
頷いた。凛花が何を言うか分からない。覚悟を決めた凛花が、何をするか分からない。少女が「脆い」と言った。脆い者が、ひとつ崩れたら——何をするか分からない。
夜が深くなった。社務所の中で寝ようとしたが、眠れなかった。明日のことを考えていた。凛花の顔。あのきつい目。葛城戦の前の「瀬川」という呼び方。渡月橋の紅葉。——全部が混ざって、頭の中を回っていた。
男も起きていた。壁に寄りかかって。目を閉じているが、気配で分かる。この男も、眠れないのかもしれない。
「……坊主」
「何」
「お前、明日——どうするつもりだ」
「聞く。凛花が何を言うか」
「聞いてどうする」
「……分からない」
分からなかった。凛花が「同盟を解消する」と言ったら、どう答えるのか。「一人でやる」と言ったら、どう応じるのか。止めるのか。受け入れるのか。戦うのか。
「お前は、お前の答えを出せ」
男が言った。目を閉じたまま。
「俺は——お前の答えに従う。何があっても」
従う。マスターの決定に。英霊は従う。武蔵が凛花の決定に従ったように。男も——俺の決定に従う。
だから、明日の答えは——俺が出さなければならない。
明日、渡月橋で、凛花が俺を切り捨てる。




