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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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35/39

35話 答え

 砂の上に崩れ落ちた。


 膝が折れた。手をついた。金色の砂が指の間から零れた。視界がほぼ暗い。トンネルの先にある小さな光だけが見えている。右耳の耳鳴りだけが聞こえる。意識が遠い。体が動かない。


 男の声が聞こえた。遠い。遠い声。


 「坊主! おい!」


 飄々さが完全に消えた声。剥き出しの声。千年の間で一度も出したことがない声かもしれない。男が駆け寄ってくる。アレクサンドロスに背を向けたまま。不退橋が消えている。この退かない男が——敵の前で防御を捨てた。陽太のために。


 腕が俺の体を支えた。大きな腕。太い腕。斧を振る腕が、俺の背中を支えている。温かかった。男の体温。英霊にも体温があるのだと——初めて知った。


 意識が途切れかける。だが綱が脈打っている。まだ繋がっている。切れていない。覚悟は途切れていない。体が止まっただけだ。心はまだ——立っている。


 だが力を送り続けられない。体が動かないから。綱の光が弱くなっていく。逆流が止まりかけている。不退橋が再び薄くなり始める。弱体化が戻ってくる。


 アレクサンドロスが見ている。金色の目で。背を向けた橋の戦士と、倒れた少年を。


 追撃するなら今だ。不退橋が消えた。背中が無防備。一撃で終わる。


 だが王は動かなかった。立ったまま。荒野の砂の上に。腕を組んで。見ていた。ここで終わらせることを——望んでいなかった。



      *



 葛城の声がした。


 荒野の向こうから。冷徹な声。だがいつもの声と微かに違った。温度が混じっている。何の温度か、分からなかったが。


 「……撤退しろ」


 アレクサンドロスが振り返った。眉が上がっている。驚き。この儀式で王が二度驚いた。一度目は不退橋に弾かれたとき。二度目は今。


 「退くのか。今、面白くなってきたところだ」


 「あの少年の体が限界だ。これ以上戦えば、あの少年が壊れる。少年が壊れれば英霊も消える」


 計算。葛城の計算。陽太の体が限界であることを見抜いている。このまま戦えば陽太が壊れ、綱が切れ、橋の戦士が消える。葛城の「勝ち」になる。計算上は。


 だが。


 「それは、俺が計算で勝ったことにはならない」


 間があった。荒野に風が吹いた。熱い風。マケドニアの風。葛城の藍色の和装の裾が揺れた。


 「あの少年は自分の体を犠牲にして英霊の力を引き出した。綱の逆流。俺の計算に入っていなかった変数だ。入っていなかったものを、計算に入らないまま勝っても意味がない」


 葛城が一歩前に出た。荒野の砂を踏んで。陽太を見ている。倒れている陽太を。鼻血だらけの顔を。男の腕に支えられている体を。


 「あの少年は一般人だ。魔術の素養がない。体力もない。戦闘能力もない。本来なら、この儀式で最初に死ぬはずの人間だ」


 声が静かだった。分析。だが分析だけではない。


 「だがあの少年は、自分の体を壊してでも英霊の力を引き出した。計算ではそうならない。一般人は自分の身を守ることを最優先にする。それが合理的だからだ。あの少年は合理的ではない。計算に入らない」


 合理的ではない。葛城の計算は合理性を前提にしている。マスターは自分の身を守る。英霊は戦う。それが合理的な役割分担。陽太はその前提を壊した。自分の身を壊してでも英霊に力を送る。合理的ではない。だから計算に入らない。


 葛城の顔に感情が浮かんでいた。冷徹でもなく虚無でもなく。あの書斎で秋明菊を活けていた男の顔でもない。父の恐怖の顔でもない。


 初めて見る表情。


 興味。


 計算を超えるものへの、純粋な興味。この男の人生で初めて、計算に入らないものに出会った。怒るでもなく、恐れるでもなく、それを面白いと感じている。葛城冬真が——面白いと感じている。義務と虚無の男が。父の恐怖を背負った男が。初めて「面白い」を知った。


 「計算に入らないものを、計算に入れ直す。それが俺のやり方だ」


 アレクサンドロスが葛城を見た。金色の目。あの問いを発した目。「計算を超えるものに出会ったとき、お前はどうする」。


 答えが返ってきた。退く。だが敗北ではない。学習する。次に会うとき、綱の逆流も、代償も、限界値も、全てを計算に入れてくる。葛城冬真は——敗北しない。学習して戻ってくる。それがこの男の恐ろしさだ。


 アレクサンドロスが笑った。「悪くない答えだ。王としては物足りないが、将としては正しい」


 葛城が背を向けた。


 「次は計算通りにいく」


 冷徹な声。だが声の底に、あの興味が残っていた。



      *



 世界征途が解除された。


 金色の荒野が縮んでいく。砂が消える。岩山が消える。マケドニアの空が消える。代わりに京都が戻ってくる。東山の紅葉。葛城家の屋敷。枯山水の白砂。瓦屋根。障子。畳。庭石。


 金色が消えて、秋の色が戻る。赤。橙。黄色。京都の秋。


 冷たい空気が肺に流れ込んだ。秋の空気。澄んだ空気。マケドニアの熱い風ではなく、京都の冷たい風。生きている。この空気を吸えている。


 体の重さが消えた。弱体化が解けた。だが陽太の体は動かない。弱体化のせいではなく、逆流の代償。体そのものが損傷している。


 男が陽太を抱えている。庭の白砂の上に座って。大きな腕で。斧は横に置いてある。両腕で支えている。


 この男が斧を手放すのを、初めて見た。あの夜から——最初の夜から、この男は常に斧を持っていた。寝るときも。食うときも。訓練のときも。斧を手放さなかった。千年前からそうなのだろう。橋の上で斧を握って死んだ男。斧が——この男の体の一部だった。


 その斧を手放して、両腕で俺を支えている。斧より大事なものが——できたのだ。


 葛城が去っていく。屋敷の奥へ。藍色の和装の背中が廊下を歩いていく。アレクサンドロスがその隣を歩いている。赤いマントが風に揺れている。


 去り際に、アレクサンドロスが振り返った。金色の目で、橋の戦士を見た。


 「また会おう。次は、もっと楽しませてくれ」


 王の声。嬉しそうな声。敵なのに。殺し合いなのに。この男は本気で再戦を楽しみにしている。


 葛城は振り返らなかった。だが声だけが残った。廊下の奥から。


 「面白い。計算に入れ直すには、時間がかかる」


 二つの影が屋敷の奥に消えた。



      *



 四人が残された。葛城家の庭に。秋の夕日が枯山水を染めている。白砂が橙色に光っている。


 陽太は男の腕の中にいた。意識が朦朧としている。鼻血は止まりかけている。左耳は聞こえない。右耳の耳鳴りが残っている。視界は戻りかけているが、まだ暗い。体中が痛い。鈍い痛み。骨の奥の痛み。


 凛花が駆け寄ってきた。


 「瀬川! 大丈夫!?」


 名前で呼んでいる。「あんた」ではなく。葛城の拠点に向かう道中でもそうだった。戦いを経て、呼び方が変わっている。


 「……大丈夫。壊れてない。たぶん」


 声が掠れている。だが出た。


 「壊れてない。頑丈だから」


 男の言葉を借りた。あの男のキャッチフレーズを。「俺は頑丈なんだ」を。今度は俺が使った。男が横で微かに笑った。


 凛花が陽太の顔を見た。鼻血の跡。蒼白い肌。目の下のクマ。体中が軋んでいるのが、見て分かる。一般人の体で英霊の力を受け止めた代償が、顔に出ている。


 「……馬鹿ね。本当に壊れたらどうするの」


 声がきつい。だが震えていた。凛花の声が。あのきつい女の声が。震えていた。


 怒っているのか。心配しているのか。たぶん両方だ。凛花は怒りと心配を同時に持てる女だ。弟に対してもそうだったのだろう。「鬱陶しかった。でもいなくなったら静かすぎた」。


 凛花が俺の手を見た。手の甲の紋。赤い線。逆流の痕が残っている。紋の周囲の皮膚が赤く腫れていた。火傷のように。力が通過した痕。


 「左耳は」


 「聞こえない」


 「視界は」


 「周辺がまだ暗い。中心は見える」


 凛花が唇を噛んだ。きつい目の奥に、あの色がある。脆さ。弟を失ったときと同じ色。もう一人失うかもしれないという恐怖。


 だが凛花はそれを飲み込んだ。目をきつくした。いつもの凛花に戻した。


 「次は……もっとうまくやりなさい。壊れない方法を見つけなさい」


 きつい言葉。だが要求だった。「もっと強くなれ」と。あの敗北の後にも同じことを言った。凛花は突き放すように見えて、実は引き上げようとしている。たぶん。


 だが凛花の目の奥に——あの色がちらついた。計算の色。凛花は今、何を計算しているのか。弟を取り戻すための計算。境界の力を使うための計算。その計算の中で、俺は——どこに位置づけられているのか。


 考えたくなかった。今は。今だけは。


 武蔵が凛花の傍に立っている。静かな目で。何も言わない。だが刀を鞘に納める音がした。金属が鞘の中に滑り込む音。戦闘が終わったことを示す音。


 勝ったのか。


 葛城は撤退した。倒してはいない。アレクサンドロスは無傷に近い。鎧に傷はついたが致命傷ではない。


 だが退かせた。世界征途の中で。王の領土の中で。四人で。盾と剣で。綱の力で。


 前回は逃げた。今回は退かせた。完全な勝利ではない。だが完全な敗北でもない。その差は大きい。



      *



 夕方。葛城家の庭を出て、東山を降りる。


 紅葉が風に舞っている。赤い葉が、夕日に照らされて光っている。京都の秋。戦いの後の秋。


 陽太は男に肩を借りている。自分では歩けない。体が重い。逆流の代償。左耳が聞こえない。右耳の耳鳴りが残っている。視界はほぼ戻ったが、周辺がまだ暗い。


 「お前、無茶しやがって」


 男が言った。肩を貸しながら。声は飄々としている。戻っている。あの声が。あの笑みが。世界征途の中で消えかけた飄々さが、戻っている。


 「壊れるなって言ったろ」


 「壊れてない」


 「嘘つくな。左耳聞こえてないだろ」


 「……そのうち戻る。たぶん」


 「たぶん、って何だ」


 男が呆れた声を出した。だが笑っている。あの薄い笑み。いや、今日のは薄くない。深い。温かい。


 「悪くないな、坊主」


 何度も聞いた。何度も。最初の夜から。あの言葉。同じ言葉。だが毎回温度が違う。毎回少しずつ深くなる。


 今日のは、あの五条大橋の夕暮れと同じだけ温かかった。「お前と一緒に戦う」と言ったあの日と。同じか、それ以上。


 俺は笑った。鼻血の跡が残った顔で。左耳が聞こえない顔で。蒼白い顔で。


 だが笑った。笑えた。


 「お前こそ無茶だろ。アレクサンドロスに背中向けて。不退橋捨てて」


 「ああ」


 「退かない男が、敵に背中向けたんだぞ」


 「退いたんじゃねえ。お前のほうを向いただけだ」


 俺のほうを向いた。敵から退いたのではなく、マスターのほうを向いた。この男にとって——正面は敵ではなく俺だった。不退橋は「正面からの攻撃を絶対に防ぐ」。正面を俺に向けたなら——俺を守ったのだ。敵に背を向けることが。俺を守ることだった。


 泣きそうになった。泣かなかった。もう十分泣いた。この儀式で。


 勝ったわけじゃない。退かせただけだ。葛城はまだ健在。「次は計算通りにいく」と言った。また来る。もっと強くなって。もっと計算を詰めて。


 だが今日は。今日だけは。退かなかった。退かせた。四人で。


 それで今は十分だ。


 凛花が前を歩いている。腕を組んで。背筋がまっすぐ。だが足取りが少しだけ重い。綱の共鳴で凛花の体にも負荷がかかっている。それでも振り返らない。前を見て歩いている。あのきつい目で。


 武蔵が凛花の隣を歩いている。二刀を鞘に収めて。静かな目。あの巌流島の剣聖が、京都の紅葉の中を歩いている。風流な光景だった。戦いの後でなければ。


 男が俺の肩を支えている。大きな手。温かい手。さっき斧を手放した手。俺を支えるために。


 四人で歩いている。帰り道。嵐山に向かって。鴨川沿いの道を。夕暮れの京都を。


 母親のことを思った。「大丈夫。必ず帰る」と送った。帰る。帰れる。今日も生きている。左耳は聞こえないが。鼻血は止まったが。体は軋んでいるが。生きている。帰れる。


 いつか。もう少ししたら。


 東山の紅葉の中を、四人が歩いていく。一人は肩を借りて。一人は肩を貸して。一人は腕を組んで。一人は二刀を鞘に収めて。


 秋の京都。夕暮れ。紅葉が風に舞っている。

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