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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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34話 不退

 橋の戦士が走った。


 荒野の砂を蹴って。金色の砂が爆ぜた。大きな足跡が砂の上に刻まれていく。戦斧を右手に。不退橋が正面に張られたまま。十割の壁。世界征途の中で、弱体化を受けていない壁。


 アレクサンドロスに向かって。真っ直ぐに。


 王が迎え撃つ。金色の力を右手に集中する。光が凝縮していく。太陽を手の中に握り込んだような光。あの一撃。前回、不退橋を砕いた一撃。王の力の塊。世界を征した男の、全てを砕く一撃。


 放った。


 金色の光弾が荒野の空気を切り裂いて飛んだ。砂が巻き上がった。光が通過した跡の砂が、ガラスに変わっていた。熱で溶けて。それだけの力。それだけの密度。


 不退橋が——受け止めた。


 金色の光弾が、見えない壁にぶつかった。衝撃波が走った。荒野の砂が円形に吹き飛んだ。岩山の表面がひび割れた。空気が震えた。


 だが壁は微動だにしなかった。


 前回は砕けた。五割の壁を、王の一撃が突き破った。ガラスのように砕けて散った。


 今回は十割。完全な壁。綱の逆流で回復した「絶対」の壁。王の一撃が弾かれた。光が散った。金色の破片が荒野に降り注いだ。


 アレクサンドロスの目が見開かれた。


 初めて見た。王が驚く顔を。二十歳で世界を征した男が驚いている。自分の一撃が弾かれたことに。自分の領土の中で。世界征途の中で。


 「——弾いたか」


 声に怒りはなかった。驚きと歓喜。王は怒らない。強い敵に出会えば喜ぶ。あの金色の目が輝いている。


 橋の戦士が笑った。あの獰猛な笑み。歯を剥いて。血と汗にまみれてはいないが、あの覚醒の夜と同じ笑み。千年前の戦士の笑み。


 「橋の上じゃ——退かねえんだ」


 ここは橋の上ではない。マケドニアの荒野。だがこの男は「橋の上」に立っている。覚悟で。綱の力で。どこにいても。この男は橋の上に立っている。千年前から。今も。


 アレクサンドロスが二撃目を放った。今度は片手ではなく両手。力が倍になった。金色の光が膨張して、球ではなく壁になった。光の壁が荒野を横断して押し寄せてくる。津波のように。


 不退橋が受け止めた。


 衝撃が桁違いだった。橋の戦士の体が押された。足が砂の中にめり込んだ。膝まで。だが退かなかった。壁は砕けなかった。押されても砕けなかった。


 鳥肌が立った。俺の腕に。見ている。覚悟を維持しながら。鼻血を流しながら。あの男が王の全力を受け止めているのを。


 三撃目。アレクサンドロスが跳んだ。空中から。上からの一撃。落下の勢いを乗せた金色の拳。


 「12時!」


 俺が叫んだ。男が斧を頭上に。不退橋で受ける。衝撃波が放射状に広がった。砂が壁のように巻き上がった。荒野にクレーターができた。


 受け止めた。三撃全て。王の全力を。世界征途の中で。



      *



 武蔵が動いた。


 橋の戦士がアレクサンドロスの注意を引いている間に——側面から。影のように。あの静寂を纏って。


 二天一流。同時二撃。太刀と小太刀がアレクサンドロスに迫る。


 前回は弱体化で速度が落ちて、太刀を素手で受け止められた。小太刀を半身で避けられた。


 今回は綱の共鳴で回復している。本来の速度。巌流島の速度。一歩で間合いを消す踏み込み。空気を切る音すら遅れて届く。


 アレクサンドロスが太刀を受ける。右手で。前回のように素手で——だが今回は違った。太刀が王の手を押し込んだ。王の腕が後ろに撓った。受け止めきれていない。金色の指が刃の上で滑った。力が拮抗している。弱体化が消えた武蔵の二天一流は——王と拮抗する。


 小太刀が来る。左から。アレクサンドロスが体を回して避ける——避けきれない。小太刀が金色の鎧の表面を掠めた。火花が散った。金属が金属を擦る音が荒野に響いた。


 傷はついていない。掠めただけ。だが前回は触れることすらできなかった。


 「12時!」


 俺が叫んだ。鼻血が口に入る。鉄の味。だが声は出る。アレクサンドロスの上からの反撃——金色の光が上から降ってくる。橋の戦士が斧を頭上に。不退橋で弾く。衝撃が荒野の砂を巻き上げた。


 「武蔵、3時!」


 凛花が叫んだ。右からの追撃。武蔵が右に跳んで太刀を振る。アレクサンドロスの右腕を狙う。王が腕を引いて避ける。


 「6時!」


 俺が叫んだ。後ろ。アレクサンドロスが回り込もうとしている。橋の戦士が体を回す。正面を合わせ直す。不退橋が弾く。


 「左上!」


 凛花が叫んだ。武蔵が跳ぶ。空中で二刀を振る。アレクサンドロスの左肩を狙う。


 四人の声と動きが——完全に同期している。訓練で9割だった連携が——10割。いや、10割を超えている。綱の共鳴が四人を繋いでいる。陽太の覚悟が橋道の綱を光らせ、その光が刃道の綱に共鳴し、四人の動きを一つにしている。


 叫びが二人分。盾が一つ。剣が二本。四つの要素が一つの戦闘単位として動いている。盾が受け止めた瞬間に剣が斬る。剣が斬った瞬間に盾が次の攻撃を受ける。叫びがタイミングを合わせる。綱が力を分配する。——完成形。


 アレクサンドロスが攻撃を放つ。金色の光弾。橋の戦士が受ける。弾かれた光が散る。その隙に武蔵が横から斬りかかる。王が武蔵に対応する。その瞬間、橋の戦士が斧を振る。王が斧を受ける。その瞬間、武蔵がもう一撃。


 止まらない。切れ目がない。四人の攻撃が——波のように、途切れずに王を襲い続ける。一人が止まれば次が来る。一人が受ければ次が斬る。永続する攻撃。


 アレクサンドロスが——後退りした。


 一歩。たった一歩。だが——退いた。世界征途の中で。自分の領土の中で。王が——一歩退いた。あの金色の足が、砂の上で——下がった。一歩分。


 初めてだった。この戦いで。いや——この儀式で。アレクサンドロス大王が、一歩退いたのは。あの覇気が。あの太陽のような存在感が、一歩、下がった。



      *



 アレクサンドロスが本気を出した。


 一歩退いたことで、スイッチが入った。金色の目から笑みが消えた。いや、笑みは残っている。だが質が変わった。楽しさから——闘志に。王が本気で戦う。


 金色の力が膨張した。荒野の砂が巻き上がった。砂嵐が起きた。太陽がさらに明るくなった。世界征途の領域が強化された。圧が増す。弱体化の力がもう一段上がった。


 綱が軋んだ。陽太の覚悟が押し返されそうになった。圧が増した分、逆流の負荷も増える。鼻血が両方の鼻から溢れた。口の中にも血が溜まった。唾を吐いた。赤い。金色の砂の上に赤い唾。


 左耳が完全に聞こえなくなった。右耳だけで方向を聞いている。凛花の声が右からしか聞こえない。男の斧の音が右からしか聞こえない。半分の世界で戦っている。


 だが——揺らがない。


 不退橋が——軋んでいる。十割が——九割に。圧が増した分、回復が追いつかなくなっている。逆流の限界が近い。体が持たない。でも覚悟は持つ。


 凛花の目が光った。あの計算の目。


 アレクサンドロスが力を膨張させた瞬間を——凛花が見ていた。力を溜めるために体の制御が緩む。一瞬だけ。王が力を増幅する瞬間——防御の密度が薄くなる箇所がある。鎧の継ぎ目。左の脇腹。


 凛花が叫んだ。「武蔵——今! 左脇腹!」


 武蔵が踏み込んだ。全力の一歩。巌流島の一歩。佐々木小次郎を斬った一歩と同じ踏み込み。間合いが消えた。一歩で。王の懐に入った。


 太刀が——振り下ろされた。右からの斬撃。金色の鎧の継ぎ目。左の脇腹。凛花が見つけた隙。凛花の目。凛花の計算。凛花の怒り。弟を取り戻すための怒りが王の隙を見つけた。


 時間が遅くなった。そう感じた。武蔵の太刀が弧を描いて落ちていく。金色の鎧の表面に近づいていく。一ミリ。一ミリ。鎧の表面の光が太刀の刃に映っている。金色の光と銀色の刃が——触れる寸前。


 金色の鎧に、太刀が届いた。


 金属が金属を断つ音がした。荒野に響いた。空気が震えた。世界征途の荒野全体が——あの一撃の音で震えた。鎧の表面に一筋の傷が走った。浅い。深くはない。だが傷だ。アレクサンドロスの鎧に。二十歳で世界を征した王の鎧に。千年の戦士でもなく、暗殺の祖でもなく、巌流島の剣聖が——つけた傷。


 初めて。


 俺の目から涙が出た。鼻血ではなく。涙。なぜか分からない。あの覚醒の夜にも泣いた。あのときは畏怖の涙。今回は——何だ。喜びか。安堵か。分からない。だが——涙が出た。視界がさらにぼやけた。でも——見えた。鎧の傷が。あの一筋の線が。


 アレクサンドロスが——鎧の傷を見た。左の脇腹。金色の表面に走った一筋の線を。指で触れた。


 笑った。


 「——見事だ」


 王が笑っている。鎧に傷をつけられて怒るのではなく、笑っている。この男は——強い敵に出会えたことを、心から喜ぶ。堂島のように怒らない。葛城のように計算しない。ただ——喜ぶ。強い敵と戦えることを。


 「お前たちは——面白い」



      *



 代償が加速している。


 鼻血が止まらない。両方の鼻から。顎を伝って服に落ちている。口の中が血の味。左耳が聞こえない。右耳の耳鳴りが大きくなっている。視界が狭い。中心しか見えない。周辺が暗い。トンネルの中にいるようだ。


 体が震えている。覚悟は揺らいでいない。だが体が持たなくなっている。器がない。一般人の体。魔術師の器がない体に、英霊の力を流し込み続けている。血管が悲鳴を上げている。鼻血はその証拠。体の中で——何かが壊れ続けている。


 あとどれくらい持つ。体が。意識が。


 凛花が叫んだ。「瀬川! 体が持たないわよ!」


 分かっている。分かっている。体が限界に近い。意識が遠のき始めている。視界がさらに暗くなっている。男の背中がぼやけ始めている。


 「……持たせる」


 声が掠れている。血が鼻から流れている。鉄の味が口の中に広がっている。だが目は開いている。見えている。中心だけだが。男が見えている。斧を振っている。アレクサンドロスと打ち合っている。あの広い背中が見えている。


 あの背中を——見続ける。視界が狭くなっても。暗くなっても。あの背中だけ見えていれば覚悟は持つ。あの男がいれば。あの男のために。


 男がこちらを振り返った。一瞬。戦闘の合間に。血だらけの俺を見た。鼻血で顔が赤い俺を。


 目にあの色がある。止めたい。止めたいが止めない。何度目だ。この男が俺を止めたい目で見て、それでも止めないのは。


 「……頑丈でいろって言ったろ」


 声が小さかった。飄々さが薄い。心配が漏れている。千年の戦士が、少年の体を心配している。


 「頑丈で——いる」


 答えた。声が掠れた。視界がさらに暗くなった。トンネルが狭くなっていく。男の背中が——。


 膝が折れかけた。


 砂の上に。マケドニアの荒野の上に。意識が遠くなった。視界が暗くなった。トンネルが閉じていく。男の背中が消えていく。


 ——ここまでか。


 体が限界だった。覚悟は揺らいでいない。揺らいでいないのに——体が止まる。心は立っている。体が倒れる。心と体が乖離している。


 もう少し。あと少しだけ。あの男があの王にもう一撃。もう一撃入れるまで。——持ってくれ。俺の体。あと少しだけ。


 砂に手をついた。膝が砂にめり込んだ。倒れかけている。視界が暗くなる。


 男が振り返った。全身で。戦闘を中断して。アレクサンドロスに背を向けて。不退橋を捨てて。——俺を見た。


 「坊主——!」


 声が聞こえた。右耳だけで。遠い声。だが——あの声。あの飄々とした声が——初めて、叫んでいた。


 男が——叫んでいた。俺の名を。いや、名前じゃない。「坊主」。だがそれは——この男にとっての、俺の名前だ。

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