33話 再戦
門を蹴り開けた。
金色の光が噴き出した。門の向こうから。目を灼く光。顔を覆った。だが止まらなかった。走った。門をくぐった。凛花が隣を走っている。男が後ろから——いや、横に並んだ。大きな影。斧の影。
屋敷の庭。枯山水。白砂の上に足跡がつく。静かな庭だった。朝の光が庭石に当たっている。紅葉が庭木の枝先で揺れている。——だが空気が金色に歪んでいる。世界征途がもう発動しかけている。時間がない。
遠くで——音がした。
金属が石を叩く音。二回。同時に。重なり合った二つの衝撃音。二天一流。武蔵が境界石を斬った。
地面が震えた。屋敷の東側——結界の一部が崩れた。光の壁が一面消えた。空気が変わった。結界の圧が弱まった。穴が開いた。武蔵の仕事。凛花の計算。第一段階。
続けてもう一つ。南側。二つ目の衝撃音。地面がもう一度震えた。二つ目の境界石が砕ける音が庭石の間を反響した。結界の密度が半分になった。四つのうち二つ。凛花の計算通り。第一段階——完了。
「穴が開いた——行くわよ!」
凛花が走った。庭を横切る。白砂を蹴り上げながら。俺と男がついていく。
武蔵が合流した。東の庭木の影から。二刀を構えたまま。息が上がっている。境界石を二つ壊した消耗。だが目は鋭い。あの静寂が——研がれている。
四人が揃った。屋敷の庭。枯山水の白砂の上。五つの庭石が配置された空間。百年の歴史を持つ日本庭園。
庭の向こうに——二つの影が立っていた。
藍色の和装。整った姿勢。冷徹な目。葛城冬真。腕を組んで、縁側に立っている。
その隣に——金色。金色の鎧。赤いマント。太陽のような存在感。アレクサンドロス大王。縁側の柱に寄りかかっている。あの金色の目が——こちらを見ている。
葛城が口を開いた。
「境界石を二つ壊したか。——計算の範囲内だ」
声に動揺はなかった。感情がなかった。全て計算通り。武蔵が先行することも、境界石が壊されることも、全て——葛城の計算に入っていた。
「残り二つで十分だ。——来い」
*
アレクサンドロスが縁側から降りた。一歩。庭石の上に。白砂の上に。
笑っていた。あの笑み。王の笑み。
「また来たか。——歓迎しよう」
世界征途が——展開された。
二度目。だが衝撃は変わらなかった。
枯山水の白砂が——金色の砂に変わった。じわじわと。白い砂粒が一つずつ金色に染まっていく。庭石が消えた。庭木が消えた。紅葉が消えた。屋敷の瓦屋根が消えた。障子が消えた。畳が消えた。葛城家の百年が——金色の砂に飲まれて消えた。
代わりに荒野が広がった。乾いた大地。茶色い砂。岩山。青い空。暴力的な太陽。熱い風。マケドニア。二千三百年前の世界。あの——悪夢。
体が重くなった。
前回と同じ速度で。同じ重さで。膝が折れそうになった。呼吸が苦しくなった。弱体化。
恐怖が来た。
前回の記憶が蘇った。不退橋が砕けた音。ガラスが割れるような音。武蔵が蹴り飛ばされた光景。砂の上を跳ねる体。綱が消えかけた感覚。男の輪郭がぼやけていく恐怖。「まだ死ぬな」と叫んだ声。——足りなかった声。
また同じことが起きる。また何もできない。また負ける。また——。
膝が震えた。
——揺らぐな。
少女の声が頭をよぎった。古い声。子供の声。「一瞬も揺らいではならぬ」。
恐怖が来ている。前回の記憶が恐怖を呼んでいる。世界征途の圧が恐怖を増幅している。体が重い。呼吸が苦しい。膝が震えている。
だが——前回と一つだけ違うものがある。
覚悟。
俺には覚悟がある。前回はなかった。前回は「まだ死ぬな」と叫んだ。恐怖の叫びだった。「死にたくない」と同じだった。守る覚悟ではなく、失う恐怖だった。
今回は違う。
少女に聞いた。綱の力を。逆流の仕組みを。代償を。全部聞いた上で——「やる」と決めた。壊れるかもしれないと知った上で。母親に帰れなくなるかもしれないと知った上で。
怖い。怖い。手が震えている。膝が震えている。あの荒野の記憶が体の奥から這い上がってくる。
だが覚悟は——怖くないことじゃない。怖いまま、やること。震えたまま、立つこと。あの男が——千年前に橋の上でそうしたように。怖くても。足が震えていても。退かなかったように。
俺も——退かない。
*
手の甲の紋に——意識を集中した。
綱を感じる。男との繋がりを。——冷たくなっている。弱体化で。光が弱くなっている。前回と同じだ。綱が細くなっていく。男の存在が揺らぎ始めている。半透明に——。
ここだ。ここで。今。
覚悟を——紋に込めた。
壊れてもいい。俺の体が。鼻血が出ても。耳が聞こえなくなっても。目が霞んでも。——この男を消させない。この男の力を、取り戻す。そのために俺の体を使う。全部使う。
「死にたくない」ではなく「死なせない」。「怖い」ではなく「守る」。受動ではなく能動。恐怖を覚悟で塗り潰す。
紋が——光った。
赤い光。あの覚醒のときと同じ色。だが今回は男の傷口からではない。陽太の紋から。マスターの手の甲が光っている。赤い光が手の甲から腕に走り、肩に走り、胸に走った。体の表面を赤い線が走っていく。綱の光が——マスターの体を流れている。
逆流。
力が流れている。陽太から男へ。マスターから英霊へ。覚悟が力に変換されて、綱を通じて。今まで一方通行だった流れが——逆転している。
綱が脈打った。強く。冷たさが消えた。温かさが溢れている。手の甲の紋が灼けるように熱い。だが痛みではない。力だ。覚悟が力になって流れている。
男の体が——変わった。
揺らいでいた輪郭が固まり始めた。半透明だった存在が実体化し直している。金髪が光を取り戻している。肌の色が戻っている。目の光が——戻っている。弱体化が——押し戻されている。内側から。
不退橋が——濃くなり始めた。
半透明だった壁が——不透明に近づいていく。五割が——六割に。六割が——七割に。じわじわと。覚悟が続く限り——回復し続ける。
代償が来た。
鼻から血が出た。温かいものが唇を伝って顎に落ちた。赤い。金色の砂の上に、赤い点が落ちた。マケドニアの荒野に、日本の少年の血が。
頭が痛い。耳が——キーンと鳴っている。高音の耳鳴り。視界の端が暗くなりかけている。
少女が言った通りだ。一般人の体には器がない。力がそのまま体を通過して、血管を、神経を、内臓を圧迫している。壊れ始めている。
——揺らぐな。
痛みで覚悟が揺らぎそうになる。体が「止めろ」と叫んでいる。鼻血が出ている。頭が割れそうだ。恐怖が戻ってこようとする。「壊れる」「死ぬ」「止めろ」。
——揺らぐな。
俺は頑丈でいる。あの男がそう言った。「壊れても死ぬなよ」。壊れてもいい。死ななければ。壊れても生きていれば——なんとかなる。
五秒。十秒。十五秒。覚悟を維持している。鼻血が流れている。耳鳴りが続いている。だが——覚悟は揺らいでいない。
二十秒。三十秒。——昨日の道中では二秒で消えた光が、三十秒を超えた。
不退橋が——八割に達した。九割に。
男の動きが戻っている。重さが。存在感が。あの夜の廃屋で影を斬ったときの。五条大橋でハサンを倒したときの。——あの男が、戻ってきている。
葛城が目を見開いた。あの冷徹な目が——初めて、動揺を見せた。
「——綱の出力が上がっている。弱体化を——相殺している? 計算外だ。この変数は——計算に入っていない」
計算外。葛城冬真の計算に初めて入っていない変数。綱の逆流。マスターの覚悟で英霊の力を押し戻す。アレクサンドロスが葛城に問うた「計算を超えるもの」。——それが今、目の前で起きている。
アレクサンドロスが笑った。
金色の目が光った。王の目。世界を征した男の目。楽しんでいる。待ち望んでいた。この瞬間を。
「来たな——計算を超えるものが」
*
覚悟を維持し続けている。四十秒。五十秒。一分。
鼻血が止まらない。耳鳴りが大きくなっている。左耳がほとんど聞こえない。視界が狭くなっている。体が——壊れ続けている。
だが覚悟は揺らいでいない。
「壊れてもいい」。その覚悟が力を生み続けている。矛盾している。壊れることを受け入れているから、力が出る。力が出るから壊れる。壊れるから覚悟が深まる。覚悟が深まるから力がさらに出る。——螺旋。上昇する螺旋。体が壊れるほど、覚悟が深まるほど、綱が光る。
武蔵も回復し始めた。
凛花が目を見開いた。「綱が——共鳴してる」。橋道の綱が光っている。その光が——刃道の綱にも波及している。陽太と男を繋ぐ綱の光が、凛花と武蔵を繋ぐ綱にまで届いている。
綱と綱が共鳴していた。
同じ戦場にいる。同じ敵に向かっている。同じ覚悟を持っている。——綱が、それを認識している。陽太の覚悟が橋道の綱を光らせ、その光が隣の綱に——刃道の綱に——伝染している。
武蔵の動きが戻り始めた。二刀の切っ先が——震えていない。鋭さが戻っている。あの静寂が——戻っている。巌流島の剣聖が——戻っている。
四人の力が回復していく。世界征途の中で。弱体化を受けながら。綱の力で。内側から。
凛花が立ち上がった。膝をついていた。蒼白い顔に——色が戻り始めている。綱の共鳴で、凛花の体力も回復し始めている。
「……信じられない。綱が——こんな使い方ができるなんて」
凛花が俺を見た。目がきつい——だが今のは、いつものきつさとは違う。驚き。純粋な驚き。凛花の計算にも入っていなかった。綱の共鳴。二つの綱が互いを増幅する。
四人が立っている。荒野の砂の上に。世界征途の中に。弱体化を受けながら——立っている。全員が。
不退橋が——十割に達した。
完全回復。
世界征途の弱体化を、綱の逆流が完全に相殺した。正面の壁が——不透明に戻った。向こう側が透けない。あの「絶対」が。あの荒野で砕けた壁が。五条大橋でハサンの全力を止めた壁が。千年分の一撃を放った男の壁が。——戻った。
世界征途の中で。アレクサンドロスの領土の中で。王の世界の中で——「絶対」が戻った。
男が俺を見た。血だらけの顔——いや、俺の顔が血だらけだ。鼻血で。男の顔は無傷。今回傷を負っているのは——マスターのほうだ。
あの覚醒の夜、男の傷口が光った。守るために受けた傷が、覚醒の光源になった。今回は——俺の鼻血が、逆流の証拠だ。マスターが壊れながら英霊に力を送っている。傷の方向が——逆転している。
男の目に——何かが浮かんでいた。止めたい。止めたいが、止めない。この男は俺の決断を止めたことがない。今回も。
男が——笑った。あの笑み。飄々とした笑み。だが今のは——もっと深い。もっと獰猛な。あの覚醒のときに近い。だがあのときとは違う。あのときは怒りだった。今のは——信頼。マスターへの信頼。「お前がそう決めたなら——俺はそれに応える」。
「……悪くないな、坊主」
温かかった。あの五条大橋の夕暮れに匹敵する温度。いや——超えているかもしれない。
不退橋が完全に戻った。世界征途の中で。
橋の戦士が斧を構え直した。荒野の砂の上で。金色の王に向かって。
今度は——退かない。




