32話 出撃
朝が来た。
嵐山の社務所。窓から差し込む光が畳の上に四角い影を作っている。紅葉の影。赤い光。昨日までと同じ朝。だが——今日は違う。今日は戦いに行く。
四人が社務所の縁側に揃っていた。俺と男。凛花と武蔵。誰も座っていない。全員が立っている。
凛花が地図を広げた。京都の地形図。凛花の文字で書き込みがしてある。赤い印。青い印。黒い線。
「葛城の屋敷は東山の裾。清水寺の北。——境界石が四つ、屋敷の周囲に埋め込まれてる。前回の結界は一つの境界石で張られたものだった。屋敷の周りには四つ。結界の密度が違う」
四つ。前回は一つで六〜七割しか凌げなかった。四つなら——。
「正面から突っ込んだら結界で閉じ込められて終わりよ。だから——先に境界石を壊す」
凛花が地図の四点を指した。屋敷の東西南北に一つずつ。
「どうやって壊す。結界の外側からでないと壊せないんだろう」
「武蔵の二天一流で」
凛花が武蔵を見た。武蔵が微かに頷いた。
「二天一流の同時二撃は、二つの異なる方向に力を放てる。一撃は敵に。もう一撃は——地面に。境界石に。結界が張られる前に、武蔵が先行して境界石を斬る。四つ全部は無理でも——二つ壊せば結界の密度が半分になる。穴ができる。逃げ道ができる」
なるほど。武蔵が先行して境界石を壊す。結界に穴を開ける。その穴から——橋の戦士が突入する。盾が前に出て、剣が後ろから斬る。今までの「盾と剣」の応用。だが役割が逆転している。武蔵が先に動き、橋の戦士が後から入る。
「それで結界は弱められる。——だが世界征途はどうする」
凛花が俺を見た。きつい目。
「それは——あんたの仕事でしょ」
綱の逆流。マスターの覚悟で英霊の弱体化を相殺する。俺にしかできないこと。凛花はそれを知らない。詳細は話していない。「方法がある」とだけ言った。凛花は——聞かなかった。「あるならいい」と言った。信じているのか。それとも——どうでもいいのか。凛花の計算の中で、俺の「方法」がどう位置づけられているのか。分からない。
だが凛花も自分の仕事をした。境界石の破壊法を見つけた。武蔵の二天一流を攻撃だけでなく「破壊工作」に使う発想。凛花の頭が回っている。——あの女は怖い。計算で言えば、葛城に近い。だが葛城にはない「怒り」がある。弟を取り戻すための怒りが、凛花の計算を研ぎ澄ませている。
「作戦を整理するわ」
凛花が地図に線を引いた。
「第一段階。武蔵が先行。屋敷の東と南の境界石を破壊する。結界に穴を開ける。第二段階。穴から四人で突入。世界征途が展開されたら——瀬川、あんたの出番。第三段階。弱体化を相殺した状態で、アレクサンドロスと正面からやり合う。盾と剣の完成形で」
整理された。三段階。明確。凛花の頭は——戦場指揮官の頭だ。
「……ああ。俺がやる」
答えた。それ以上は言わなかった。
*
東山に向かって歩いた。四人で。
鴨川を渡り、東に向かう。秋の京都。観光客が増えている。紅葉のシーズン。清水寺に向かう人の波の中を、四人が逆方向に歩いている。人混みの中に、英霊が二人——霊体化して——混じっている。誰にも見えない。
歩きながら——考えていた。少女の言葉。「一瞬も揺らいではならぬ」。覚悟を維持し続ける。世界征途の中で。あの金色の荒野の中で。あの王の圧の中で。一瞬も。
怖い。正直に言えば。あの荒野のことを思い出すと、膝が震える。不退橋が砕けた音。武蔵が蹴り飛ばされた光景。金色の砂。熱い風。王の笑み。「ようこそ、我が領土へ」。あの声が、耳の奥に残っている。
試してみた。歩きながら。覚悟を——維持する練習。
手の甲の紋に意識を集中した。綱を感じる。男との繋がりを。温かい脈動。——ここに力を込める。恐怖ではなく、覚悟を。「壊れてもいい。この男のために」。
紋が——微かに光った。赤い光。一瞬。
すぐに消えた。集中が途切れたから。歩きながら、人混みの中で、覚悟を維持し続けるのは——難しい。雑念が入る。「本当にできるのか」「壊れたらどうする」「母親に帰ると約束したのに」。
雑念。恐怖。不安。——全部、覚悟の敵だ。あの荒野では、これらが百倍の密度で襲ってくる。世界征途の圧がそれを増幅する。
だが——やるしかない。
もう一度、紋に集中した。光った。二秒。消えた。
短い。まだ足りない。戦闘中に——何分間も維持しなければならない。二秒では話にならない。
だが——ゼロではない。二秒は、ゼロではない。
隣を男が歩いている。霊体化していない。実体のまま。一般人には見えないはずだが——たまに、すれ違う人が「大きい人」と呟いて振り返る。完全には隠しきれていない。男の存在感が大きすぎるのだ。
「坊主」
男が言った。前を見たまま。
「さっき凛花が言ってたな。『あんたの仕事でしょ』と。——お前、何をする気だ」
「綱を逆流させる。俺の覚悟を、お前の力に変える」
男が足を止めなかった。歩き続けた。だが——目が動いた。俺を見た。横目で。
「聞いた。少女から。代償があるんだろう」
「ああ。体が壊れるかもしれない」
「……」
沈黙。数歩分。
「お前がそれでいいなら——俺は止めねえ」
飄々とした声。だが——少しだけ、硬い。この男なりの心配。言葉にしない心配。止めたいが止めない。マスターの決断を尊重する。あの朝——人質になると決めたときと同じ。「俺が決める」と言ったときと同じ。この男は——俺の決断を止めたことがない。反対しても、最後は認める。
「ただし——壊れるなよ」
「ああ。壊れない」
「嘘つくな。壊れるかもしれねえんだろう」
男が俺を見た。横目ではなく、正面から。足を止めて。あの薄い笑みが消えている。真剣な目。
「壊れるかもしれねえが——壊れても、死ぬなよ。死ぬのと壊れるのは違う。壊れても生きてりゃ——なんとかなる。俺は頑丈だ。お前も——頑丈でいろ」
俺は頑丈なんだ。あの男の台詞。力技の男の台詞。——それを、俺に向けて言っている。お前も頑丈でいろ、と。
「……ああ。頑丈でいる」
嘘かもしれない。壊れるかもしれない。だが——壊れても死なない。壊れても生きる。帰る。母親のところに。この男と一緒に。
男が笑った。いつもの薄い笑み。——戻ってきた。硬さが消えた。飄々さが戻った。
鴨川を渡った。五条大橋ではなく、四条大橋。五条大橋は——あの夜の場所だ。あの覚醒の場所。堂島が消えた場所。今日は別の橋を渡る。別の戦いに向かうために。
凛花が隣に来た。歩きながら。男と武蔵は少し後ろを歩いている。
「……瀬川」
凛花が名前で呼んだ。珍しい。いつもは「あんた」だ。
「何」
「あんたの母親——まだ待ってるの」
「ああ。待ってる。ずっと」
凛花が前を見たまま言った。
「蓮も——待ってるわ。彼岸で。あたしが迎えに行くのを。——あの子は待つのが嫌いなのよ。凛花姉ちゃん遅い遅いって。いつも怒ってた」
声が——柔らかくなっていた。あの河原で弟の名前を教えてくれたときと同じ。きつい女の、柔らかい瞬間。
「だから——早く取り戻さなきゃいけないの。あの子が待ってる間に」
凛花が俺を見た。一瞬だけ。目がきつくなった。だが——きつさの下に、脆さがあった。初めて見た。凛花の脆さ。弟のことを話すときだけ——この女は脆くなる。
「……取り戻すわ。何があっても」
また、あの言葉。何があっても。——だが今の凛花の声には、決意だけではなく、祈りが混じっていた。
俺は何も言わなかった。凛花の願いを止める権利は俺にはない。弟を取り戻したい。それは——母親に帰りたいのと同じだ。構造が同じだ。
だが代償がある。凛花はそれを知っている。知った上で——取り戻す。代償を、誰かに押し付けて。
それでも——止められない。俺には。
*
凛花と武蔵が前を歩いている。少し離れて。
武蔵が——橋の戦士に声をかけた。振り返らずに。前を向いたまま。
「今度は——退くなよ」
静かな声。剣士の声。
橋の戦士が答えた。「橋の上じゃ退かねえ。——橋がなくても、退かねえよ」
武蔵が微かに笑った。あの静かな笑み。手合わせのとき。境界石戦のとき。——何度か見た笑み。だが今日のは——少しだけ深い。
「……いい答えだ。——巌流島でも、退かなかった。お前さんと同じだ」
英霊同士の言葉。戦士同士の言葉。退かない者同士の、出撃前の最後の確認。
凛花が隣で聞いていた。目がきつい。だが——口元が、微かに緩んでいた。一瞬だけ。すぐに戻した。
*
東山の裾に着いた。
葛城家の屋敷が見えた。門構え。瓦屋根。塀。庭木の紅葉が塀の上から覗いている。百年以上の歴史を持つ日本家屋。——だが今は、城だ。結界の城。境界石のネットワークで守られた、葛城冬真の城。
道の空気が変わった。東山の紅葉の匂いが——消えた。代わりに、乾いた風。熱い風。砂の匂い。あの匂い。マケドニアの荒野の匂い。
世界征途が——屋敷の中から漏れ出している。まだ完全には展開されていない。だが力が溜まっている。門の向こうで、アレクサンドロスが力を蓄えている。王が——待っている。俺たちが来るのを。
門の前で止まった。四人が並んだ。
紋が——灼けた。あの感覚。前回と同じ。手の甲が熱い。渡し場の力が外から圧迫されている。
門の向こうから——金色が滲んでいた。光が。門の隙間から。窓から。瓦の間から。屋敷全体が金色に光っている。日本家屋の黒い瓦と白い壁が、金色の光に染まっている。異質。この国の建物が、異国の王の力で染まっている。
世界征途が——もう発動しかけている。
葛城は知っている。俺たちが来ることを。待っている。計算通りに。対策を立てて。境界石を配置して。アレクサンドロスの力を蓄えて。——全て、計算通りに。
だが——俺たちは、計算に入っていないものを持ってきた。
「……来たわね」
凛花が呟いた。目がきつい。覚悟を決めた目。
「第一段階。武蔵——行って」
武蔵が消えた。影のように。一歩踏み出した瞬間に——姿が消えた。霊体化。東の境界石に向かって。結界が張られる前に。先手。凛花の計算の第一手。
橋の戦士が斧を構えた。重い音。戦斧の刃が空気を押した。不退橋がうっすらと発動している。まだ完全ではない。世界征途が展開されたら——弱体化する。そのとき、綱を光らせる。俺の仕事。
俺は——拳を握った。手の甲の紋が灼けている。熱い。だが痛みではない。覚悟の熱さ。
「行こう」
門に向かって、三人が歩き出した。金色の光の中に。




