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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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31話 綱

 鳥辺野に、また来た。


 今度は二人で。俺と男だけ。凛花と武蔵は別行動だった。「あたしはあたしで準備がある」と凛花は言った。何の準備かは聞かなかった。聞いても答えないだろう。


 東山の山中。苔むした石塔の間を歩く。前回と同じ道。だが季節が少し進んでいる。紅葉が深くなっている。山全体が赤い。地面にも赤い葉が積もっている。落ち葉を踏む音だけが、山の静寂の中に響いていた。


 男が隣を歩いている。斧を肩に担いで。笑みが——戻っていた。敗北の直後に消えかけていた飄々さが、ほぼ元に戻っている。だが完全ではない。目の奥に——まだ、あの荒野の記憶が残っている。不退橋が砕けた瞬間の。


 「もう一度あの少女に会いに行くのか」


 男が聞いた。


 「ああ。聞きたいことがある」


 「綱のことか」


 「ああ」


 男が少し笑った。「お前は考えるのが得意だな。俺は殴るほうが得意だが」


 考えること。走りながら考えること。それが俺の武器だ。時計の方向を叫ぶことと、綱の冷たさで方向を感じ取ることと——そして、考えること。ハサンの見えない刃には「綱の冷たさ」で対処した。ロビン・フッドの矢には「悪意を持たない」で対処した。境界石は男が力技で壊した。世界征途には——まだ対処法がない。だが手がかりはある。綱。俺と男を繋ぐもの。葛城の計算に入っていないもの。


 杭林が見えた。白い杭が木々の間に並んでいる。あの骨のような素材。あの死の匂い。



      *



 少女が待っていた。


 杭林の中。空き地の中央。白い着物。長い黒髪。あの古い目。


 前回と同じ場所に、同じ姿で座っていた。四百年間——きっと、ずっとこうやって座っている。動かない。歳を取らない。待っている。何を待っているのか——本人にも分からないのかもしれない。


 だが前回と——一つだけ違うことがあった。ヴラドの目が開いていた。前回は薄く開いていただけだった。今回は——完全に開いている。赤い目が、俺と男を見ている。警戒ではない。観察。こちらの変化を見ている。


 「また来たか」


 古い声。子供の声。だが——前回より少しだけ、声に色がある。興味。この少女が興味を持つのは——珍しいことなのだろう。四百年も同じ場所にいれば、たいていのことに興味はなくなる。


 「前とは顔が違うの。——負けたな」


 見抜かれた。一言で。


 「ああ。負けた。葛城に。アレクサンドロスの世界征途に」


 「知っておる。渡し場の力の揺れで分かった。あの王の領域が展開されたのを、ここからでも感じた。——お前さんたちが圧倒されたことも」


 少女は全てを感じている。四百年、渡し場の力の中に浸かり続けてきた少女は、京都で起きる渡し場の力の変動を——全て感じ取れる。


 「聞きたいことがある」


 少女の前に座った。男は杭の近くに立っている。ヴラドの赤い目が男を見ていた。英霊同士の無言の時間。だが敵意はない。前回来たときに確認済みだ。


 「綱のことだ」


 少女が微かに眉を動かした。興味。


 「綱の力は——絆の深さに比例する。不信感があれば細くなり、絆が深ければ太くなる。——その力で、世界征途の弱体化を相殺できるか」


 単刀直入に聞いた。回りくどいことをしている余裕はない。葛城は待ってくれない。あの男は今も計算している。次の手を。


 少女が目を閉じた。四百年分の記憶を辿っているのか。白い睫毛が頬に影を落とした。


 「……可能じゃ。理論上は」


 目を開けた。古い目。だが——光がある。微かな。


 「綱は此岸と彼岸の間に存在する力。マスターと英霊を繋ぐ。空間に依存する力ではない。世界征途は空間を書き換える能力じゃ。領域内の空気を、大地を、光を——全て王の領土に塗り替える。だが綱は空間の中にはない。二人の間にある。空間を書き換えても——二人の間の綱までは書き換えられぬ」


 やはり。仮説は正しかった。綱は空間に属さない。マスターと英霊の間にある。だから空間を書き換える世界征途でも、綱には手が届かない。


 「綱を最大に光らせれば——英霊の弱体化を内側から押し戻せる。世界征途による外からの制限を、綱の内からの増幅で相殺する。——覚醒と同じ条件じゃ」


 覚醒と同じ条件。覚悟。恐怖ではなく、覚悟。五条大橋で、自分の肩を切らせて人質から脱出したあの瞬間。あの覚悟が綱を最大に光らせた。


 「だが——」


 少女の目が曇った。古い目に、慈悲のような色が浮かんだ。


 「覚悟には代償がある」


 代償。またこの言葉。渡し場の力にも代償があった。境界の力にも。——綱の力にも。


 「綱を最大に光らせるということは——英霊の力を、マスターの体で受け止めるということじゃ。英霊から力を引き出すのではない。マスターから力を注ぎ込むのじゃ。逆流。通常、綱は英霊からマスターへ——消耗や傷が流れる。それを逆にする。マスターの覚悟を、英霊の力に変換する」


 逆流。今まで綱は一方通行だった。英霊が傷を負えば、マスターの体力が削られる。それが——逆になる。マスターの覚悟が、英霊の力になる。


 考えた。あの荒野で。俺が「まだ死ぬな」と叫んだとき——綱が一瞬光った。あれは逆流の始まりだったのか。恐怖の叫びでも、一瞬だけ力が流れた。覚悟なら——もっと。もっと長く。もっと強く。


 だが恐怖の叫びは一瞬で終わった。維持できなかった。覚悟は——維持できるのか。戦闘の間ずっと。世界征途が展開されている間ずっと。力を逆流させ続けられるのか。


 「維持できるかどうかは——お前さん次第じゃ」


 少女が俺の考えを読んだように言った。


 「覚悟が揺らげば、逆流は止まる。弱体化が戻る。英霊の力が落ちる。——戦闘の間、一瞬も揺らいではならぬ。恐怖が入り込む隙を、一瞬も作ってはならぬ」


 一瞬も。戦闘中に。あの王の圧の中で。一瞬も揺らがずに覚悟を維持する。


 できるのか——俺に。一般人の。十七歳の。怖がりの。


 「一般人の体では——耐えきれぬかもしれぬ」


 少女が俺を見た。あの古い目で。四百年分の目で。


 「魔術師の体なら、渡し場の力を受ける器がある。だが一般人のお前さんには——器がない。力がそのまま体に流れ込む。内臓が。骨が。血管が。——壊れるかもしれぬ」


 壊れる。俺の体が。力に耐えきれずに。


 沈黙。鳥辺野の木々が風に揺れている。赤い葉が一枚、杭林の中に舞い込んできた。少女の白い着物の上に落ちた。少女はそれを見て——何も言わなかった。


 壊れるかもしれない。鼻血が出るかもしれない。耳が聞こえなくなるかもしれない。目が見えなくなるかもしれない。内臓が壊れて、二度と元に戻らないかもしれない。——母親のところに帰れなくなるかもしれない。「大丈夫。必ず帰る」と送ったのに。


 だが。


 やらなければ——男が消える。葛城に勝てない。渡し場は閉じられない。人が消え続ける。凛花は弟を取り戻せない。この街は——終わらない。


 そして何より——あの荒野で何もできなかった自分が、悔しい。負けたことが。あの王の前で膝をついたことが。凛花に「足を引っ張ってる」と言われたことが。


 悔しさが——覚悟を作っている。


 「……やる」


 声が出た。


 少女が俺を見た。驚きではなかった。確認だった。「本当にやるのか」と。


 「やる。壊れるかもしれない。でも——やる」


 五条大橋での覚悟と同じ構造。あのときは肩を犠牲にした。今回は——体全体。リスクが桁違いに上がっている。だが構造は同じだ。自分の体を犠牲にして、男を守る。男の力を引き出す。


 男が杭の傍から言った。「坊主。無茶するな」


 「お前が言うか」


 男が——笑った。あの薄い笑み。だが目が真剣だった。


 「……壊れるなよ。壊れたら——俺も消えるんだからな」


 綱。二人の命を繋ぐ綱。俺が壊れれば男も消える。男が消えれば俺も死ぬ。運命共同体。だから——壊れるわけにはいかない。壊れるかもしれないが——壊れないと決める。


 少女が微かに笑った。あの薄い笑み。四百年ぶりの。


 「お前さんは——やはりわらわに似ておるな。無茶なところが」


 似ている。だが俺には——隣に男がいる。



      *



 杭林を出た。鳥辺野を降りる。東山の紅葉の中を歩いて帰る。


 手がかりを得た。綱の力で弱体化を相殺できる。代償はある。体が壊れるかもしれない。だが——やる。


 帰り道。男と並んで歩いている。落ち葉を踏む音が二人分。


 「坊主」


 男が言った。前を見たまま。


 「お前が考えたんだろ。綱の力。あの荒野で——叫んだとき、綱が光ったのを感じて。そこから逆算した」


 「ああ」


 「……お前の頭は、俺の斧より切れるかもしれねえな」


 褒めているのか冗談なのか分からない口調。だが——目が笑っていた。いつもの笑み。飄々とした笑み。あの荒野で消えかけた笑みが——今は、ちゃんと戻っている。


 「お前の斧のほうが百倍切れるだろ」


 「当たり前だ」


 男が笑った。俺も笑った。——戦いの前に笑えることが、少しだけ嬉しかった。


 社務所に戻ると、凛花が待っていた。腕を組んで。目がきつい。だが——何かが変わっていた。準備が終わった顔。覚悟を決めた顔。


 「準備はできたわ」


 「何の準備だ」


 凛花が俺を見た。少し間があった。


 「……葛城の結界を破る方法。境界石を外側から壊す方法を見つけたの。武蔵と二人で。——詳しくは明日話す」


 凛花なりの「あんたにしかできないことを考えなさい」への回答。俺は綱の力を見つけた。凛花は境界石の破壊法を見つけた。それぞれが、それぞれの方法で。


 「明日——葛城の拠点に行く」


 凛花が言った。目がきつい。だが迷いはなかった。


 「今度は——退かないわよ」


 退かない。あの荒野で退いた。世界征途の中から逃げ出した。二度目はない。今度は——退かない。


 四人が社務所にいた。朝の訓練で使った場所。橋の戦士の斧が壁に立てかけてある。武蔵の二刀が鞘に収まっている。凛花が腕を組んでいる。俺が拳を握っている。


 四人。盾と剣。マスターと英霊。共闘。——この四人で、あの王に挑む。


 怖い。怖くないと言ったら嘘だ。体が壊れるかもしれない。あの荒野でまた何もできないかもしれない。だが——悔しさのほうが大きい。怖さより悔しさのほうが大きい。あの王の前で膝をついた自分が——許せない。


 頷いた。今度は退かない。


 手の甲の紋が脈打っていた。温かかった。男の紋も脈打っている。同じ温度で。同じ速さで。


 明日——葛城冬真の拠点に、攻め込む。

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