29話 征途
紋が灼けた。
朝。嵐山の社務所。訓練に出ようとしていた。渡月橋に向かって。四人で。
手の甲の紋が、熱を持った。冷たさではない。初めての感覚。灼けるような脈動。渡し場の力が——外から押されている。何かが、渡し場そのものを圧迫している。
男が——顔色を変えた。
笑みが消えた。それだけではない。体が強張っている。この男が強張るのを、初めて見た。堂島のときも。ハサン本体のときも。クリスのときも。——この男は強張らなかった。今、強張っている。
「……来たな」
声が低い。掠れている。
武蔵が二刀を抜いた。無言で。刃が朝日を反射して光ったが——鈍い。いつもの鋭い光ではない。武蔵も感じている。何かが来る。今までとは違う何かが。
凛花が周囲を見回した。目がきつい。だが——目の下に影がある。恐怖。凛花が恐怖している。この女が恐怖するのを、初めて見た。
南から。嵐山の渡月橋の方角から。
空気が——金色に染まった。
*
金色が広がっている。
嵐山の風景が——変わり始めた。ゆっくりと。だが確実に。
紅葉の山が消えていく。赤と橙と黄色の木々が、金色の砂に飲まれていく。竹林が消える。緑の竹が、一本ずつ、砂に沈んでいく。渡月橋が消える。あの訓練で使った橋が。「3時!」と叫んだ橋が。武蔵が「いい橋だ」と言った橋が。——砂に飲まれて消えた。
社務所が消えた。鳥居が消えた。石畳が消えた。嵐山の全てが——金色の砂に覆われて、消えた。
代わりに現れたのは——荒野。
乾いた大地。茶色い砂。遠くに岩山が連なっている。空が広い。青い。雲がない。太陽が高い位置にある。京都の秋の朝日ではない。もっと白くて、もっと暴力的な光。熱い風が吹いている。乾燥した風。秋の京都の冷たい空気が——消えた。
古代マケドニア。二千三百年前。アレクサンドロスが征した世界。あの男の「領土」が——京都の嵐山を飲み込んだ。
「世界征途……!」
凛花が呻いた。膝が折れかけている。顔が蒼白い。
体が——重くなった。
急激に。膝が折れた。地面に手をついた。砂が指の間から零れた。熱い砂。京都の土ではない。マケドニアの砂。
立っているのがやっとだ。空気が重い。呼吸が苦しい。胸が潰されるような圧迫。領域内の弱体化。一般人のマスターが最も影響を受ける。体力が——吸い取られていく。荒野の砂が、俺の体力を飲んでいる。
凛花も膝をついた。魔術師であっても——この領域の中では、ただの人間以下。
男が——揺らいでいた。
不退橋が薄くなっている。正面の壁が——見えてしまう。半透明。向こう側が透けている。あの「絶対」の壁が。五条大橋でハサンの全力を弾いた壁が。千年分の一撃を放った男の壁が。——半透明。
武蔵の動きが鈍い。二刀を構えているが——あの鋭い静寂が曇っている。刃の切っ先が微かに震えている。弱体化。巌流島の剣聖が——震えている。
四人全員が弱体化している。領域の中。アレクサンドロスの世界の中。この世界では——王だけが強い。
荒野の向こうに——二つの影が立っていた。
金色の鎧。赤いマント。太陽のような存在感。あの「眩しい圧」が——もはや圧ではなかった。空間そのものだった。この荒野がアレクサンドロスの圧。世界そのものが、あの男の力の延長。
その隣に——藍色の和装。整った姿勢。冷徹な目。葛城冬真。腕を組んで、荒野の中に立っている。乱れのない姿勢。計算通りの表情。
王が——笑っていた。
「ようこそ、我が領土へ」
若い声。堂々とした声。二十歳で世界を征した男の声。楽しんでいる。ようやく戦場に出られたことを。
*
アレクサンドロスが歩いてきた。ゆっくりと。荒野の砂を踏みながら。足音が重い。一歩ごとに砂が沈む。大地が王に跪いているように見えた。
急がない。急ぐ必要がない。この領域の中では——逃げ場がない。
男が立ち上がった。砂の上で。膝が震えている。弱体化。だが——立った。斧を構えた。
不退橋——発動。
正面の壁が張られた。だが——薄い。半透明。向こう側にアレクサンドロスの金色が透けて見える。
アレクサンドロスが右手を上げた。金色の光が集中する。剣ではない。拳ですらない。ただ——力。王の力。世界を征した男の、純粋な力の塊。太陽を握りつぶしたような光。
放った。
不退橋が——砕けた。
音がした。ガラスが割れるような音。いや——もっと深い。もっと重い。「絶対」が砕ける音。五割の壁を、王の一撃が突き破った。壁がガラスのように砕けて散った。光の破片が荒野の砂の上にきらきらと降り注いだ。
男の体が吹き飛んだ。砂の上を転がった。三回。四回。砂埃が巻き上がる。
初めて見た。不退橋が——正面から破られるのを。
あの壁は「絶対防御」だった。五条大橋でハサンの全力を止めた。分身体を弾いた。矢を弾いた。境界石の光を弾いた。あの夜から——ずっと、あの壁の後ろにいれば安全だった。あの壁が——砕けた。
武蔵が動いた。二天一流。同時二撃。太刀と小太刀がアレクサンドロスに迫る。
遅い。
弱体化している。あの鋭い速度が三割落ちている。手合わせのときに見た「一歩で間合いを詰める」踏み込みが——二歩になっている。致命的な遅れ。
アレクサンドロスが——片手で太刀を受け止めた。素手で。金色の指が刃を掴んでいる。金属が肉に当たる音ではなかった。金属が壁に当たる音。アレクサンドロスの体そのものが城壁。
小太刀が来る。「片方防いでも必ず当たる」——だが速度が落ちている。アレクサンドロスが体を半身にして小太刀を避けた。避けた。あの同時二撃が——避けられた。巌流島の剣聖の刃を——二十歳の王が、半身で避けた。
武蔵の目が見開かれた。
アレクサンドロスが武蔵を蹴り飛ばした。一蹴り。武蔵の体が砂の上を跳ねた。二回。三回。砂煙が立った。凛花が叫んだ。「武蔵!」。綱を通じた痛みで凛花の顔が歪む。
二人の英霊が、荒野の砂の上に倒れている。不退橋を砕かれた男と、蹴り飛ばされた武蔵。
二十歳で世界を征した王が、悠然と立っている。傷一つない。汗一つかいていない。金色の鎧に砂一粒ついていない。
これが——格上の壁。覇道の英霊。アレクサンドロス大王。
*
男が起き上がろうとしている。砂の上で。腕が震えている。弱体化と衝撃。不退橋を砕かれた反動が体に残っている。
綱が——細くなっていた。
見えないはずの綱が。手の甲の紋を通じて——感じる。繋がりが薄くなっている。光が弱くなっている。いつもは温かかったり冷たかったりする脈動が——消えかけている。弱体化の影響で、綱そのものが衰えている。
男の存在が——揺らいでいる。半透明になりかけている。輪郭がぼやけている。あの金髪。あの巨体。あの斧。——全部が、薄くなっている。消えかけている。領域内の弱体化が、英霊の存在維持にまで及んでいる。
消える。このままでは——男が消える。
あの夜から、ずっと隣にいた男。おにぎりを食って「悪くないな」と笑った男。橋の上で「退かねえんだ」と言った男。俺のために血を流した男。千年分の一撃を放った男。「坊主」と呼んでくれた男。——消える。この荒野で。アレクサンドロスの世界の中で。
嫌だ。
消えるな。消えないでくれ。俺はまだ——お前に何も返せていない。お前が俺にくれたものの百分の一も返せていない。橋の上で血を流してくれた分を。路地で壁ごと敵を叩き割ってくれた分を。何も返せていない。だから——。
「——まだ死ぬなッ!!」
叫んだ。
体が動かない。膝が折れている。砂の上に座り込んでいる。立てない。だが——声は出る。声だけは。あの夜から。時計の方向を叫んだあの訓練から。声だけは——俺の武器だ。
叫びが荒野に反響した。マケドニアの乾いた空気に。日本の少年の声が。
紋が脈打った。一瞬。綱が——光を取り戻した。赤い光。あの覚醒のときの光。傷口から漏れる光と同じ色。
男の体が——実体化し直した。消えかけていた輪郭が、一瞬だけ戻った。男が顔を上げた。砂の上で。俺を見た。血だらけの顔で。笑みはなかった。
だが——足りない。
あのときのような覚醒にはならない。あのときは俺が人質から脱出した。自分の肩を切らせて鎖を断った。覚悟が覚醒のトリガーだった。今は——叫んだだけ。声だけ。覚悟ではなく、恐怖からの叫び。「死ぬな」は「死にたくない」と同じだ。守る覚悟ではなく、失う恐怖。
足りない。声だけでは足りない。
「撤退よ!」
凛花が叫んだ。声が裂けている。蒼白い顔。だが——判断は冷静だった。
「今は退く! 領域の外に出る!」
*
走った。四人で。荒野の中を。領域の外に向かって。
アレクサンドロスは追ってこなかった。荒野の中央に立ったまま、金色の目でこちらを見ていた。追う必要がないのだ。王は——逃げる敵を追わない。逃げるなら逃げろ。いつでも殺せる。その余裕。
葛城の声が聞こえた。荒野の向こうから。遠い声。だが——はっきり聞こえた。
「……逃がしてやれ。データは取れた」
また。データ。この男にとって——世界征途の本格展開すら、データ収集の一環なのか。弱体化状態で四人がどう動くか。不退橋がどの段階で砕けるか。二天一流がどの程度鈍るか。全て——記録された。
領域の端に達した。金色の荒野が——途切れた。境界線。唐突に。マケドニアの砂漠が、線を引いたように終わっている。その向こうに——紅葉の嵐山が見えた。京都の風景。秋の山。鴨川。木々。
領域の外に出た瞬間、体の重さが消えた。空気が戻った。秋の京都の、冷たくて澄んだ空気が肺に流れ込んだ。呼吸ができる。膝が——まだ震えている。だが立てる。
後ろを振り返った。金色の荒野が——縮んでいく。世界征途が解除されている。マケドニアの砂が消え、嵐山の紅葉が戻っていく。渡月橋が。社務所が。竹林が。京都の風景が、金色の下から——蘇っていく。
四人とも消耗しきっていた。男は傷だらけ。不退橋を砕かれた衝撃が体に残っている。武蔵は蹴り飛ばされた痕が残っている。凛花は顔が蒼白い。俺は——立っているのがやっとだ。
嵐山の山道に座り込んだ。紅葉が風に舞っている。赤い葉が、一枚、俺の膝に落ちた。赤い。京都の赤。マケドニアの金色ではない。ここは——京都だ。
負けた。
初めて——本気で負けた。堂島との戦いでは、苦戦はしたが最終的に勝った。覚醒して、千年分の一撃で、ハサンを倒した。だが葛城には——触れることすらできなかった。不退橋が砕けた。二天一流が避けられた。世界征途の中では——何もできなかった。
凛花が俺を見た。目がきつかった。だが——きつさの奥に、これまで見たことのない色があった。失望ではない。まだ。だが——失望の手前にある何か。諦めの影。
「……あんたが足を引っ張ってるわ」
声が小さかった。だが聞こえた。
反論できなかった。凛花の言う通りだ。領域内で最も弱体化の影響を受けたのは俺だ。一般人のマスター。魔術の素養がない。体力がない。——足手まとい。
男が俺を見た。傷だらけの顔で。
「お前は足を引っ張ってなんかいねえよ」
飄々とした声。だが——いつもより力がない。弱体化の残滓。
「お前がいなけりゃ、俺はさっき消えてた。あの叫びがなけりゃ——俺はあの荒野で消滅してた。それは変わってない」
変わっていない。だが——足りなかった。俺がいても、勝てなかった。声を出しても。方向を叫んでも。「まだ死ぬな」と叫んでも。声だけでは——足りなかった。
拳を握った。砂利が掌に食い込んだ。痛い。
悔しい。
初めて。本気で。
死にたくないとかじゃない。この街のためとかじゃない。この男と一緒に戦うとかでもない。ただ——負けた。負けたことが。あの王の前で何もできなかったことが。悔しい。
もう一度——戦いたい。




