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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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28話 計算

 秋明菊が枯れていた。


 白い花器の中で、薄紅色の花弁が茶色く縮んでいる。水を替えていなかった。何日だろう。五日か。六日か。——数えていない。花に構っている余裕がなかった。


 葛城冬真は、それを見て何も感じなかった。ただ、枯れた花を捨て、新しい水を注ぎ、空の花器を床の間に戻した。新しい花はない。買いに行く暇がなかった。空の花器が、空の屋敷に佇んでいる。


 机の上に、京都の地図が広げてあった。


 前回とは様子が違う。七つの印のうち、黒い印——堂島の印が消えている。残りは六つ。赤。青。白。緑。金。灰。だが赤と青の印が——近い。隣り合っている。嵐山の方角。


 橋道と刃道。瀬川陽太と御影凛花。共闘している。


 そして——地図の上に、新しい書類が広げてあった。葛城自身が書いた分析書。境界石の結界で得たデータ。四人の共闘の形を、数値と図式で記録したもの。



      *



 葛城が分析書を読み上げていた。声に出して。独り言のように。だがアレクサンドロスが聞いている。書斎の隅で。金色の鎧が燭台の光を反射している。


 「堂島が消えた。策道が脱落した」


 声に感情はなかった。堂島の消滅を報告する声と、天気予報を聞く声に差がない。


 「予定より早い。計算では、堂島が橋道のマスターを殺し、その後で堂島を処理するはずだった。だが橋道が堂島を倒した。一般人の少年と無名の英霊が——策道を処理した」


 計算外。葛城の計算を、あの少年が一手分壊した。だが葛城の目に苛立ちはなかった。ただ修正する。計算を。新しいデータで。感情で計算を歪めることは、この男にはない。


 「不退橋。正面からの絶対防御。発動条件は橋の上——だが、あの戦士は橋以外の場所でも薄く発動させることができる。完全ではないが、正面からの攻撃を八割程度防ぐ。橋の上なら十割。弱点は側面と背後。そして——正面は一方向のみ」


 結界戦で確認した。光の刃を四方から放ち、不退橋がどの方向に対応したかを記録した。正面を合わせ直す速度。反応時間。マスターの叫びから英霊が動くまでのタイムラグ。全て数値化した。


 「二天一流。同時二撃。片方を防いでも必ず当たる。攻撃特化だが、結界戦では防御に転用していた。側面の攻撃を処理する能力は高い。——だが一対多数には弱い。二刀で処理できるのは同時二方向まで。三方向以上は対応不能」


 武蔵の限界。二刀だから二方向。三方向目が来れば——処理できない。


 「マスター二人は一般人と魔術師。一般人の瀬川は体力と戦闘経験に劣るが、状況分析能力が異常に高い。不退橋の弱点を補う『目』として機能している。御影は魔術師だが戦闘能力は低い。指揮官としての能力は高い」


 葛城が分析書を閉じた。


 「四人の連携は——現時点で八割から九割の完成度。残りの一割が隙になる。そこを突く」


 冷静だった。感情がなかった。データを読む目。戦場を地図上の図式として見る目。分析。計算。管理。それが葛城冬真の戦い方であり、それが完成形に近づいている。


 だが——一つだけ、計算に入らない要素があった。


 あの結界戦で、橋道の英霊が結界の壁を力技で壊した。境界石ごと。結界の内側から。——あれは計算に入っていなかった。渡し場の力で構築した結界を、渡し場の力で押し切った。力技。原始的な。だが——効いた。


 「あの英霊は——計算外の存在だ」


 葛城が呟いた。


 名前がない。逸話が特定できない。情報がない。だが——死なない。しぶとい。そして時折、計算を超える力を出す。五条大橋で橋が割れた報告は受けている。あの一撃は——アレクサンドロスの「世界征途」に匹敵する出力だった。


 「塵にしては——化け物だな」


 嘲笑ではなかった。最初に「塵」と呼んだときとは、声の温度が違っていた。



      *



 庭に出た。


 枯山水の白砂。五つの石。月明かりはない。曇り空。だが葛城の目には——庭の結界の紋様が見えている。管理者の目。一般人には見えない渡し場の力の流れが、葛城には可視化されている。


 アレクサンドロスが縁側に座っていた。赤いマントが夜風に揺れている。


 「分析は終わったか」


 王の声。退屈そうな声。だが——目は退屈していなかった。光がある。あの金色の目に。


 「終わった。対策は立てた」


 「で——どうする」


 葛城が庭を見ながら答えた。


 「世界征途を使う」


 葛城が庭を見ながら答えた。声に抑揚がない。作戦を述べているのか、買い物リストを読んでいるのか、声だけでは区別がつかない。


 「領域内で全能力を弱体化させ、四人の連携を破壊する。世界征途の領域は半径百メートル。領域に入った者は——英霊であっても——全ての能力が三割から五割低下する。不退橋の防御力が落ちる。二天一流の速度が落ちる。マスター二人は領域内で体力を急速に奪われる。——逆に、お前は領域内で全能力が強化される」


 アレクサンドロス大王。二十歳で世界を征した男。その「逸話」が能力になっている。「世界を自分の領土にした」——だから、周囲を「領土」に塗り替える。領土の中では王が絶対。全ての敵が臣下となり、弱体化する。王だけが強くなる。


 「不退橋は弱体化すれば突破可能。五割の防御力なら——お前の一撃で砕ける。二天一流も弱体化すれば速度が落ちる。同時二撃の片方を受ければ、もう片方が来る前に処理できる。マスター二人は領域内で体力を奪われて動けなくなる。——あとは各個撃破だ」


 計算通りの回答。だがアレクサンドロスは——笑わなかった。


 「それで勝てるか」


 「勝てる。計算上は」


 「計算上は、な」


 アレクサンドロスが立ち上がった。金色の鎧が夜の闇の中で鈍く光った。


 「冬真。お前の計算は正しい。いつも正しい。——だが、計算に入らないものがある。あの少年だ」


 少年。瀬川陽太。一般人。計算に入らない要素。


 「あの少年は——お前の計算を壊す。俺にはそう見える。橋の上で五条大橋の石畳を割った英霊の後ろに、あの少年がいた。少年が叫んだから、英霊が動いた。計算ではない。もっと——原始的なものだ」


 綱。あの少年と英霊を繋ぐ綱。葛城も綱を持っている。アレクサンドロスとの綱。だが葛城の綱は——薄い。義務で繋がっている。必要だから繋がっている。あの少年の綱とは、太さが違う。光の強さが違う。


 アレクサンドロスが葛城を見た。金色の目。世界を征した男の目。若い。だが深い。


 「お前にはそれがない。原始的なものが。だから計算で勝とうとする。——悪くはない。お前の計算は精密で、正確で、ほとんどの敵を処理できる。だが——計算を超えるものに出会ったとき、お前はどうする」


 葛城は答えなかった。


 答えがなかったからだ。計算を超えるものに出会ったとき、どうするか。——考えたことがなかった。計算を超えるものは存在しないと思っていた。全ては分析可能であり、全ては管理可能であると。父がそう教えた。葛城家の当主は全てを管理する。渡し場を。儀式を。英霊を。全てを。


 先代のように——管理に失敗するまでは。


 父の顔が浮かんだ。覚えている。冷たい顔。義務の顔。自分と同じ顔。——あの顔が、管理に失敗した瞬間に崩れるのを見た。子供の頃に。堂島の娘が消え、凛花の弟が消え、京都が混乱に陥ったあの日に。父の顔から——初めて、感情が溢れるのを見た。恐怖。絶望。後悔。


 あの顔になりたくない。だから計算する。だから管理する。——だが、計算を超えるものが来たとき。あの少年のような、計算に入らないものが来たとき。


 自分もあの顔になるのか。


 「……行くぞ」


 葛城が言った。


 「明日。あの四人を迎え撃つ。——嵐山。あいつらの拠点に」


 アレクサンドロスが笑った。今度は——本気の笑み。王の笑み。戦場に向かう王の笑み。


 「ようやくだ。——待ちくたびれた」


 金色の鎧が光った。赤いマントが風に膨らんだ。二十歳で世界を征した王が、ようやく戦場に出る。


 葛城が書斎に戻った。地図を畳む。分析書を閉じる。空の花器を一瞥した。秋明菊は枯れた。新しい花はない。


 だが——戦う理由はある。義務。葛城家の当主としての義務。それだけが、この男を動かしている。


 アレクサンドロスの言葉が頭に残っていた。「計算を超えるものに出会ったとき、お前はどうする」。


 答えはなかった。——だが、明日、それが分かるかもしれない。

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