13話 当主
葛城冬真の書斎には、季節の花が活けてあった。
白い花器に、秋明菊。薄紅色の花弁が一輪、畳の間に静かに立っている。手入れの行き届いた床の間。掛け軸は水墨画の山水。屋敷の格式を示すものだが、それを見る人間は葛城一人しかいない。
京都市内、東山の裾。葛城家の屋敷は百年以上の歴史を持つ日本家屋だった。門構えは大きく、庭には枯山水が広がり、廊下の板は磨き込まれて黒く光っている。だが住んでいるのは葛城冬真ただ一人。使用人はいない。客も来ない。広い屋敷の広い書斎に、三十代の男が一人、机に向かっている。
机の上に京都の地図が広げてあった。五万分の一の地形図に、七つの色の異なる印が置かれている。赤。青。黒。白。緑。金。そして灰。七陣営の推定位置。葛城が自ら設置した境界石のネットワークから、各陣営の動きを推測したものだ。
葛城は整っていた。髭は剃られ、髪は整えられ、藍色の和装に乱れはない。姿勢は正しく、目元に無駄な力がない。冷徹——というよりは、感情そのものが希薄な男の顔だった。疲労の色はある。だがそれは眠れないからではなく、眠る時間を計算的に削っている男の疲労だった。
書斎の隅に、金色が光っていた。
アレクサンドロスが柱に寄りかかっている。金色の鎧。赤いマント。腕を組んで、目を閉じている。眠っているのか考えているのか。実体化したまま屋敷の中を自由にしている。葛城の渡し場の力は強い。管理者の家系が代々蓄積した力で、英霊の実体化を常時維持できる。
*
葛城が地図の印を見ていた。七つの印。七陣営。
指が赤い印に触れた。嵐山方面。
橋道。瀬川陽太。一般人の高校生。魔術の素養はない。——だが死なない。
堂島の分身体を五体処理した。路地戦では壁を利用した戦闘を見せた。マスターが英霊の死角を声で補う連携。一般人にしては、異常な適応速度だ。
英霊は名前がない。逸話の特定ができない。橋の上で強化される特性を持つ。正面からの攻撃を防ぐ——おそらく絶対防御に近い能力。ただし橋以外では発動しない。弱点は明確。橋から引き離せば、ただの大柄な戦士に過ぎない。
だがマスターの適応速度が想定外だった。一般人が英霊の死角を声で補う連携を、数日で構築している。巻き込まれただけの高校生が、なぜこれほど速く戦場に適応するのか。葛城には分からなかった。計算に入らない要素だった。
「塵にしては、しぶといな」
声に感情はなかった。独り言。評価。嘲笑ではない。冷静な再評価。あの橋の上で「塵」と呼んだ英霊と、その隣に立つ少年が、想定以上に生き延びている。
指が青い印に移った。
刃道。御影凛花。分家の娘。動き始めた。橋道のマスターと接触した形跡がある。凛花が何を企んでいるか——葛城には読めている。弟を失った恨み。本家への復讐。宮本武蔵という切り札を手に、葛城に挑んでくる。それは分かっている。分かっているから、対処できる。
「予想通りだ。凛花は俺を狙ってくる」
凛花のことを考えるとき、葛城の指が微かに止まった。凛花の弟。先代の儀式で巻き込まれた子供。葛城家の——父の失敗で。その事実を、葛城は知っている。知っていて、何も感じない。感じないことが、この男の異常なのかもしれなかった。
指が黒い印に移った。
策道。堂島玄次。元京都府警。分身体を繰り返し送り込んで橋道のマスターに執着している。マスター狙い。合理的な戦略だが、執着が強すぎる。冷静さを欠いている。娘のことで——判断が歪んでいる。感情で動く人間は、隙を作る。
「つけ込めるな」
堂島の娘も先代の儀式で消えた。堂島が八年間抱えてきた怒りと悲しみの根源は、葛城家にある。葛城冬真はそれを知っている。知っていて、「つけ込める」と言う。罪悪感はなかった。義務の前に、罪悪感は不要だ。
白い印。冥道。正体不明の少女。動かない。姿を見せない。何を待っているのか。葛城の境界石にも反応がない。探知を完全に遮断している。数百年を生きた存在——読めない。
緑の印。弦道。クリス・ヴァレンティン。バチカンの異端審問官。京都に入ったという情報がある。儀式そのものを「異端」として破壊しようとしている。正義を掲げる者の行動はパターン化しやすい。危険だが、計算できる。
灰の印。幻道。——情報がない。存在すら確認できていない。七陣営のうち、唯一、葛城の探知に引っかからない陣営。これが最も不気味だった。
七つの印。この中で最終的に残るのは一組。あとの六組は消える。六人のマスターと六体の英霊が、京都の地図から消えていく。
葛城は地図を見つめていた。そこに感情はなかった。
*
庭に出た。
枯山水の白砂が月光を受けて青白く光っている。石の配置は代々の当主が整えたもので、五つの石が渡し場の五方位を表している。庭そのものが結界の一部だった。
アレクサンドロスが縁側に座って、庭を見ていた。金色の鎧が月の光を受けて鈍く光っている。
葛城はその背中を見ていた。
葛城家は代々、境界の儀の管理者だった。渡し場を監視し、儀式が始まれば制御し、勝者が渡し場を閉じるのを見届ける。それが役割だった。管理者は参加者ではない。審判が選手を兼ねることは、本来あり得ない。
先代がそれを壊した。
葛城の父。前回の儀式で管理に失敗した。渡し場の制御を誤り、彼岸の力が京都に漏れ出した。人が消えた。子供が消えた。——堂島の娘。凛花の弟。全て先代の失敗の結果だ。
葛城家は没落した。信頼を失い、資産を失い、一族の多くが去った。残ったのは冬真一人。広い屋敷に一人。秋明菊を活ける相手もいない。掃除も、料理も、庭の手入れも、全て一人でやっている。使用人を雇う金がないのではない。人を入れたくないのだ。この屋敷に他人がいると、空っぽであることが際立つ。
汚名を晴らさねばならない。管理者としての失敗を、勝利で償う。渡し場を閉じ、儀式を制御し、葛城家の名誉を取り戻す。
それが葛城冬真の動機だった。だがそれは「願い」ではなかった。「義務」だった。勝って何が欲しいのか。名誉を取り戻して、どうする。誰もいない屋敷に、一人で住み続けるだけだ。名誉があっても、帰ってくる人間はいない。
堂島は娘のために戦っている。凛花は弟のために戦っている。あの少年は——生存のために、そしてこの街のために戦っている。全員に「理由」がある。葛城にあるのは「義務」だけだ。理由と義務は違う。理由は内側から湧く。義務は外側から課される。
葛城の目に感情は浮かばなかった。ただ疲労だけがあった。義務で動く人間の、乾いた疲労。
*
「退屈だな、冬真」
アレクサンドロスの声が庭に響いた。振り返ると、金色の目がこちらを見ていた。若い目。二十代の目。だがその奥には、世界を征した男の深さがある。
「何がだ」
「お前の戦い方が、だ。分析。計算。管理。——戦いの匂いがしない」
アレクサンドロスが立ち上がった。マントが揺れた。月光を受けた金色の鎧が、庭の白砂に影を落とした。
「俺は二十歳で世界を征した。計算ではない。欲したからだ。世界が欲しかった。手に入れたかった。その熱があったから、走れた」
金色の目が葛城を射抜いた。
「お前には——それがない」
葛城は反論しなかった。事実だから。欲しいものがない。情熱がない。義務だけがある。
「義務で戦う王は、義務の範囲でしか勝てぬ」
アレクサンドロスの声に軽蔑はなかった。苛立ちでもなかった。問いかけだった。王が臣下に投げる、本気の問いかけ。
「——お前はそれでいいのか、冬真」
葛城が答えた。「いいも悪いもない。義務を果たす。それが葛城家の当主だ」
アレクサンドロスが笑った。
「小さいな」
間があった。月が雲に隠れかけた。庭の白砂が少し暗くなった。
「だが——小さくとも、背負う者は嫌いではない」
葛城の目が微かに動いた。それ以上の反応はなかった。
*
深夜。書斎に戻った。
地図を畳む。七つの印を一つずつ外していく。赤。青。黒。白。緑。金。灰。手のひらに七つの印が残る。この七つのうち六つが消える。それが境界の儀だ。
アレクサンドロスが書斎の入口に立っていた。
「そろそろ動く」
葛城が言った。
「ほう。どこから片す」
王の声。興味を含んだ声。
葛城が地図の一点を指した。堂島の推定拠点。京都市内、南部。
「まず——堂島を片付ける」
堂島が橋道のマスターに執着しすぎている。暗殺戦を繰り返し、戦場を荒らしている。放置すれば儀式の制御が乱れる。元管理者としてそれは看過できない。——表向きの理由はそれだ。
本音は別にある。堂島を先に潰すことで、凛花を誘い出す。凛花は堂島が邪魔で動けずにいる。堂島の暗殺者が京都中を徘徊している状態では、凛花も自由に動けない。堂島が消えれば、凛花は葛城に向かってくる。そこを迎え撃つ。凛花の攻撃パターンは読めている。武蔵の二刀流は強力だが、一対一でなければ真価を発揮しない。アレクサンドロスの「世界征途」で領域を塗り替えれば、武蔵の間合いを無効化できる。
計算。分析。管理。アレクサンドロスが「退屈」と呼んだもの。だがこれが葛城冬真の戦い方だ。情熱はない。欲望もない。義務と計算だけがある。それで十分だ。それで——勝てる。
アレクサンドロスが笑った。「退屈だが——まあ、付き合ってやろう」
葛城が窓の外を見た。京都の夜。東山の稜線が月明かりで黒いシルエットを描いている。この街で、七つの意志がぶつかり合おうとしている。
京都の夜に、三つの意志が交差しようとしていた。一人は娘のために。一人は義務のために。そして一人は——この街のために。




